泥沼化したイラク 「テロ」「対テロ」双方に殺傷される市民 高遠菜穂子(イラク支援ボランティア)
イラクは今、最悪の状況になっている。昨年だけで何人の友が命を奪われたり、避難民となっただろう。
かつて米軍の猛攻撃を受けたイラク西部アンバール州のファルージャやラマディが、再び激しい戦火に見舞われたのは二〇一三年末だった。一年以上続いていたスンニ派市民によるデモ隊のキャンプを「アルカーイダの拠点」だとイラク政府の治安部隊が襲撃、無差別に殺傷した。
スンニ派市民を政府が殺傷
イラク政府によるスンニ派のデモ隊襲撃はこれが初めてではなく、たびたび起きている。デモの要求は何か。この点を見落とすとイラクの情勢全体を見誤る。要求は、スンニ派を対象とした不当逮捕や拷問・処刑をやめ、収監された市民を釈放すること、これらの非人道的行為を可能にしている「反テロ法」の撤廃だ。
昨年二月、国際人権団体・ヒューマンライツウォッチがまとめた報告書によれば、「数千人のイラク女性が不当逮捕され、刑務所内で強姦されている」と言う。
「反テロ法」は二〇〇五年、イラク移行政府の発足直後につくられた。イスラム教シーア派主導の移行政府のもとで内務省管轄の治安部隊と警察が多くのスンニ派市民を「テロリスト」とみなして逮捕し、電気ドリルを使って殺害した。
二〇〇五~二〇〇七年まで、バグダッドでは連日、七〇~一〇〇体もの拷問を受けた遺体が発見された。どの遺体も内臓が取り出され、腹部が縫合されていた。
シーア派政権による「スンニ派狩り」は現在も続く。日本でイラクのことが報道される際の「シーア派政権に不満を持つスンニ派市民」というフレーズの向こうには、これだけの深刻な実態がある。
病院も標的に
昨年一~四月、私はイラクのクルド自治区に入って緊急支援をおこなった。その頃、海外メディアは「ファルージャを“イスラム国”が占拠した」と報じたが、ファルージャ市民や病院スタッフから私に寄せられた訴えは、まるで違った。
「イラク政府軍の空爆がすさまじい」「市民に犠牲者が出ている」「病院が何度も政府軍の空爆を受けている」
デモ隊を率いてきた部族は、バグダッドから攻め込んでくる政府軍と、県境で戦闘を繰り広げていた。“イスラム国”はそのすきをついて手薄となったファルージャに入り、警察署などを占拠した。
世界が“イスラム国”だけを注視する中、地元テレビではファルージャ総合病院の医師たちが民間人死傷者の状況を伝えていたが、それだけで政府は医師を「テロリストの協力者」と非難した。私の知り合いの医師・看護師が亡くなり、一緒に働いたことのあるインド人スタッフは頭に重傷を負った。看護師は恐怖にひきつった顔で負傷者を手当していた。
“イスラム国”拡大の背景
“イスラム国”が勢力を拡大した最大の原因は、イラク政府の暴走にある。“イスラム国”もスンニ派だが、他のスンニ派の部族や武装勢力からは、「主義・思想の相容れない存在」と見られている。それでも命を脅かす最大の脅威であるシーア派政権打倒のため、“イスラム国”をサポートまたは黙認している。
“イスラム国”は急に出てきた武装勢力ではない。二〇〇三年に米軍が「対テロ作戦」を集中しておこなった際に、アンバール州に流入してきたアルカーイダ系組織が原形だ。「米軍をねらう」としながら、無差別な自爆攻撃で多数のイラク市民を殺傷し、地元部族に追い出された。
その後、イラク第二の都市モスルで自爆攻撃などを繰り返し、内戦が始まったシリアに移って勢力を拡大、ISIS(イラクとシリアの“イスラム国”)となった。そして二〇一三年末の政府によるデモ隊襲撃に乗じて、イラクに戻ってきた。
極度の窮地にあるスンニ派市民
昨年六月、「“イスラム国”にモスルが占拠された」というニュースが日本でも流れた。モスルもスンニ派が多く、長い間イラク政府の激しい弾圧を受けていたため、政府軍を蹴散らして「あなたたちを解放するために来た」と言う“イスラム国”を、ひとまず市民は受け入れた。
しかし一カ月もすると独自のイスラム法の教えを強要し、「偶像崇拝を禁じる」と歴史的建造物などの破壊を始めた。
八月には「“イスラム国”はイスラム教ではない」と非難していた友人が“イスラム国”にとらえられ、処刑された。 スンニ派市民は、同じスンニ派の“イスラム国”にも殺されてしまうのに、周囲からはスンニ派市民はすべて“イスラム国”支持者とみなされ、政府軍や、政府が組織したシーア派民兵にも殺される。モスルやファルージャ、ラマディなどでは現在、食料から医薬品まで物流がとまり、市民は極度の人道的危機に陥っている。
キリスト教徒もヤジディ教徒も
その後、事態はさらに悪化した。モスル郊外にあるキリスト教徒最大の街カラコシュに“イスラム国”が攻め込み、改宗または人頭税を払えと迫った。拒んだ者たちは、あっと言う間に処刑された。カラコシュの東にあるアルビルには一日で三〇万人近いキリスト教徒が避難した。
キリスト教徒の多いアンカワ地区の教会・公園にテントがびっしり張られ、学校や建設途中の建物にも避難民が着の身着のまま、暑さにあえいでいた。
イラクの夏は、気温が五〇度にも達する。殺人的に暑い。少なくない乳児や年配者が脱水により、避難所で息絶えた。
同じ頃、クルド自治区北部のドホークにはヤジディ教徒の避難民が三〇万人以上いた。モスルの西にあり、シリア国境に近いシンジャルで、ヤジディ教徒は“イスラム国”に襲われ、改宗を拒んで殺された。多くの教徒がシリアやトルコに逃げたが、三万人近くがシンジャル山に逃げ込み、炎天下で数百人が死亡。その状況を海外メディアは連日報道した。
沈黙する国際社会
アメリカがイラク空爆を決定したのはその直後だった。キリスト教徒もヤジディ教徒も、治安の悪化で助けに行きたくても行けない支援者たちも、米軍を待望していた。武力行使を否定する私にも残された道はそれしかないと思えた。
ファルージャやラマディでも米軍を待望する声が出た。政府の暴走を止められるのは米軍しかいないと…。さんざん米軍に攻撃され、拷問・虐待され、家族・友人を殺された人々にそう言わしめる状況があったことを想像してほしい。
国際社会は米軍の空爆を非難したが、あるイラク人はこう言う。「国際社会は、イラク政府が空爆で市民を殺傷しても何も言わない」。
昨年一月と三月、東京を拠点にする国際人権団体・ヒューマンライツナウとの協力で、私はファルージャ総合病院への空爆や無差別攻撃を止めるよう求める声明を出した。団体スタッフは、国連でもイラク情勢に関するスピーチをしたが、不自然なほどに国際社会は沈黙していた。
隣国シリアの独裁政権が広範囲に被害をもたらすタル爆弾を落とすと非難の声があがるのに、イラク政府がタル爆弾を市街地に落として子どもたちの頭が割れ、体がちぎれても誰も文句を言わない。国際的に“イラクの「民主政権」がおこなう「対テロ作戦」には協力すべき”との流れができていた。
「知らなかった」は通用しない
帰国後、日本でイラク情勢報告会を重ねているが、「知らなかった」と言われるたびにがく然とする。今、世界が直面している脅威には国境がなく、世界では「第三次世界大戦の状況にある」と言われているが、その危機感はこの島国には届いていなかった。「情報鎖国」と言うしかない。
私は平和主義者だ。イラクにいると日本の憲法九条があるからこそ信頼され、守られていると感じる。しかし中東から戻ってきた私には「平和憲法を守ろう」というスローガンは冷酷に響く。
非暴力の紛争解決を望むなら、タイミングを逃してはならない。暴力阻止のチャンスをつかむには、「知らなかった」という言い訳は通用しない。
日本で平和を訴える人々全員が、この難題にぶちあたっている。イラク危機を教訓に、日本の役割と未来を考えたい。
いつでも元気 2015.02 No.280