元気スペシャル 3・11から3年
東京 福島を忘れるな! 再稼働を許すな!
東日本大震災と福島第一原発事故から三年。原発事故は収束せず、被災者の苦しみが続くなか、「原発ゼロ」のねがいをあらためて政府につきつけようと、全国で集会やデモがとりくまれました。
坂本さん |
三月九日、日比谷野外音楽堂と国会議事堂周辺で「原発ゼロ☆大統一行動~福島を忘れるな!再稼 働を許すな!~」がおこなわれ、のべ三万二〇〇〇人が参加しました。「首都圏反原発連合」「さようなら原発一〇〇〇万人アクション」「原発をなくす全国連 絡会」の三団体が共同してとりくむ「NO NUKES DAY」の一環で、今回が三回目です。
日比谷野外音楽堂でおこなわれた集会では、音楽家の坂本龍一さんがスピーチ。「三・一一後、しばらく何も手につかなかった」という坂本さんは、震災から 約一カ月後に作った曲を紹介しながら、「(原発事故による)人災は続いており、いまだに気持ちの整理がつかない。一番困っている人に寄り添って、声をあげ られない人のぶんまで声を届け、私たちの気持ちをここに来ない多くの人にも広げることが大切」と語りました。
福島からは「約一三万人がいまだに避難生活を強いられており、三年前から時計が止まったまま」(名木昭・「福島県内の全原発の廃炉を求める会」呼びかけ 人)、「孫を寺の後継ぎにするという唯一のはげみを奪われた」(早川篤雄・福島原発避難者訴訟原告団長)など、福島の現状と原発事故への憤りが語られまし た。
NPO法人「いわき放射能市民測定室たらちね」事務局長の鈴木薫さんは、「多大な犠牲を払って得た教訓を無駄にするわけにはいかない。未来を担う子ども たちに対する大人の責任として、原発ゼロを実現しなければ」と訴えました。
「原発さん、さようなら」
続いて開かれた国会前大集会(首都圏反原発連合主催)では、民主・共産・生活・社民の国会議員がスピーチ。原発を「重要なベースロード電源」(安価で安 定的に稼働できる電源)と位置づけ、「原発の永久化」をねらう政府の「エネルギー基本計画案」やずさんな「防災・避難計画」を批判する発言が相次ぎまし た。
また、韓国・環境財団代表のチェ・ヨル氏、米国グリーンピース・エネルギーキャンペーナーのケンドラ・オーリッジ氏が駆けつけてあいさつしたほか、台湾四五六反核運動からも連帯のメッセージが寄せられました。
神奈川から「原発さん、さようなら 今まで電気をありがとう」と書いたムシロ旗を掲げて参加した牧下圭貴さんは、「集会での福島からの発言を聞いて、運 動はこれからだとあらためて感じた。私たちの声を広げていかなくては」と。
国会前大集会から参加したという中野暢夫さん(東京・立川相互病院、事務)は、「国際的な連帯を感じられて元気が出た。みんなで知恵を出しあって原発ゼロを実現したい」と力を込めました。
文・武田力記者/写真・五味明憲
鹿児島 “再稼働第1号”許さない
鹿児島には薩摩川内市に九州電力川内原子力発電所があります。原子力規制委員会は三月一三日、新規制基準への適合性審査で、川内原発一・二号機の審査を「優先」することを決定しました。
政府が再稼働の同意を求める「地元」の範囲も決められず、高齢者など弱者の避難体制整備も進んでいない状況で、審査を「優先」するなど、“再稼働第一 号”へ向けての異常な猛進と言わなければなりません。住民の安心・安全を守るべき鹿児島県知事も、国に先駆けて再稼働に向けた環境を整えようとしていま す。
事故後、鹿児島で結成された「さよなら原発かごしま実行委員会」は、一〇〇を超す団体と個人で組織され、鹿児島民医連も会長が代表委員として名前を連ね ています。一昨年、昨年と二〇〇〇人規模での集会をおこない、鹿児島民医連からはそれぞれ一〇〇人を超す職員と共同組織の方々が参加してきました。
三年目となる今年の「三・一六さよなら原発かごしまパレード」には、県内をはじめ、九州各県や全国の原発立地県などから六〇〇〇人を超える人々が参加。 鹿児島民医連からも職員と共同組織あわせて二〇〇人が参加し、九州・沖縄の民医連の仲間も集まって、連帯を肌で感じました。集会では「人類と原発は共存で きません」とする「三・一六かごしまアピール」を採択。「川内原発の再稼働は絶対に許さない」「原発のない地域で安心して暮らしたい」という思いを共有し ました。
全日本民医連の総会運動方針の実践として、職員・共同組織とともに「架け橋」となって幅広い団体や個人とスクラムを組み、運動の輪を広げていく決意を新たにしました。
(鹿児島民医連事務局次長・大瀬俊之)
静岡 「世界一危ない」原発ダメ
静岡県には「世界一危ない」と言われる浜岡原子力発電所(中部電力)があります。東海地震の予 想震源域の真上に位置し、首都・東京からも一八〇キロしか離れていない浜岡原発は、まさに「世界一危ない」原発です。福島第一原発事故後、静岡県内では毎 週金曜日を中心に、県内一四カ所で「浜岡原発廃炉」に向けた行動が継続しておこなわれてきました。
三年目の「三・一一」を迎えるにあたっては、三月八日に富士宮市(五〇人)、九日に静岡市(六〇〇人)、浜松市(二五〇人)、沼津市(一〇〇人)、函南 町(一一〇人)、掛川市(三〇人)、一一日に三島市(九〇人)、下田市(一〇〇人)など、県内各地で脱原発の集会・パレード・署名行動がとりくまれまし た。
これに先立つ二月五日には、「浜岡原発廃炉」をめざす県民一二万人分の署名が国会に提出されました。ところが中部電力は二月一四日、県民の声を無視し て、再稼働に向けた安全審査申請を国に提出。県内三五団体からいっせいに抗議のメッセージが表明されました。
この度おこなわれた各地の集会では、中部電力の暴挙に対して抗議する発言が相次ぎました。静岡市会場の参加者からは「もし浜岡で原発事故が起きたら、牧 之原でお茶をつくれなくなってしまう」「母親として子どもを被ばくさせたくない」などの声や、「あらためて福島への連帯・支援を強めたい」という決意が語 られました。
(静岡民医連事務局長・高橋俊和)
福島 「農家の怒りがわかるか」 3会場に5300人
3月8日、「原発のない福島を! 福島県民大集会」が郡山市のユラックス熱海をメイン会場に開かれました。双葉郡内の全8町村がそろって後援する初めての集会となり、福島県内外から5300人が集いました。
いわき市出身の講談師・神田香織さんは、「福島の祈り?ある母子避難の声」と題した新作を披露。「たたかいは、明るく、楽しく、しつっこく」「あきれ果 てても、諦めない」と、笑いを誘いながら参加者を励ましました。
大江健三郎さんは、「だまされるということもまた一つの罪である」という故伊丹万作氏の言葉を引用しつつ、「原発と人間は共生できない。いま原発を止め なければ、再びだまされることになる」と警鐘を鳴らしました。
原子力資料情報室の沢井正子さんは、「いま福島第一原発でやっていることは、注水して冷やしているだけ。汚染水の処理はまったくできていない」と、事故 収束にはほど遠い現状を指摘。さらに、「我慢の限界、故郷を捨てる苦渋の決断をした」(浪江町)、「種を蒔いても秋には産廃として焼却する農家の怒りがわ かるか」(喜多方市)など、被災者による発言が続きました。
「無関心であった大人たちは、自信を持って今の自然や社会を子どもたちに譲れるのかと問い続けたい…福島に原発はいらない」。最後にスピーチした「高校生平和大使」の言葉は、参加者の心にしみわたりました。
震災関連死が津波による死者数を上回り、毎日のように汚染水処理のトラブルが報道されています。原発再稼働・輸出など絶対に許されません。
(桑野協立病院事務長・江川雅人)
いまだ訪れない心の復興 宮城・松島医療生協
東日本大震災・福島第一原発事故から三年経った三月一一日、松島医療生協の「まつしまの郷」(デイサービス)で、震災犠牲者を二度と出さないためにと建てた「誓」の石碑の除幕式がおこなわれ、職員や組合員ら七二人が集まりました。
なるせの郷の再建
東日本大震災で、当時東松島市にあった同法人の「なるせの郷」(デイサービス)は津波に襲われ、職員と利用者が一五人亡くなりました。
まつしまの郷は津波に飲み込まれたなるせの郷を再建したもので、昨年一〇月一日、場所を松島町にある同法人の松島海岸診療所前に移してオープンしました。
「まつしまの郷ができて、ひと区切りついたっていうのが正直なところかな」──青井克夫さん(専務)は胸をなでおろします。
「でも、震災から三年経てば少しは気持ちが軽くなるだろうと思っていたけど、逆にどんどん重くなっている。今朝起きて、そう実感しましたね」
今でもよみがえる震災時の情景。救えなかった命。「もっとこうしていれば」「あの判断は正しかったのだろうか」「いや、あのときはそうするしかなかった んだ」。そんな葛藤が日を重ねるごとに、青井さんの心に重くのしかかっているのです。
心の復興を
「震災のショックから立ち直って元気になっていた利用者さんが、『なんにも良いことない。あん とき、死んでしまってればよかった』と言うようになってしまったんです」──そう話す安部加代子さん(ケアマネジャー)は、なるせの郷の元職員で、津波に 飲み込まれながらも一命をとりとめた一人です。
その利用者さんは震災後、松島海岸診療所のデイケアを利用していましたが、まつしまの郷へ移ったことによる環境の変化に順応できないでいました。
津波で自宅を失ったときと同じように、「通い慣れたデイケアを失い、再び居場所がなくなった」と感じさせてしまったのです。そして利用者さんは、徐々に硬い表情を見せるようになりました。
「震災というのはいろいろなところに影響を及ぼすんですね」と、安部さんは話します。「私もまだ当時のことを話すと涙が出てくるし、職員同士では震災の 話を避けているので、まったくしません。いつか話せるようになるんでしょうかね」。
青井さんも「三月一一日が近づくとテレビやラジオで震災特集が流れるけど、すぐチャンネルを変えてしまう。当時を忘れたい。でも、全国の皆さんには忘れ てほしくないと思うんです。複雑ですね」と言い、目を伏せました。
いまだに終わらない被災地の復興。また、被災者の心の復興もまだ訪れていないと感じた取材でした。
文・安井圭太記者
いつでも元気 2014.5 No.271