チェルノブイリ被災者は今(下) 障害を乗り越えて 写真家・森住 卓
ユヒメンコ・スタニコラフ(15、愛称スタス)は、ブチャ市第三学校の一〇年生(日本の高校一年生)。クラスの人気者で、教室の最前列に彼の机はあった。
彼にはじめて会ったのは六年前(本誌〇六年七月号掲載)。ウクライナの首都キエフから車で約二時間のブチャ市の高層アパートに住んでいた。成績優秀だっ たが、両手両足に障害があるため、学校から家庭教師を派遣してもらっていた。
「なぜこんな子を」と罵られて
「明るくて、勉強でわからないことがあると親切に教えてくれるわ」とクラスの人気者のスタス |
母親のリーザさん(35)は、チェルノブイリ原発から五〇キロのマキシムビッチ村(ウクライナ)で生まれた。チェルノブイリ原発事故当時、リーザさんは九歳だった。隣村は避難区域になったが、この村には避難指示が出なかった。
子どもだったリーザさんは、森で木イチゴや川で魚を捕って食べた。森林保護の仕事をしていた兄が持っていた放射線測定器で森を測ったところ、非常に高い 放射線量を示した。川で捕れたナマズは基準値の何千倍も汚染していた。村には定期的に検診車がやって来て、村民の健康診断をおこなったが、リーザさんの身 体から異常は見つからなかった。
リーザさんは一九九六年に同じ村の出身で森林保護官をしていたパブロと結婚し、翌年スタスが生まれた。我が子の手足は付け根から内側に曲がり、指も変 形。医師は「一生歩けないだろう」と告げた。我が子を持った喜びは一瞬で吹き飛んでしまった。家族は「なぜこんな子を産んだのか」と罵り、兄弟は離れて いった。夫も取り乱し、リーザさんを責めた。
しかし生まれたばかりのスタスの瞳は、リーザさんをじっと見つめていた。リーザさんには、自分の運命を悟ったような賢そうな目に見えた。リーザさんはス タスを抱きしめ、「どんな障害を持っていようとも我が子を立派に育てよう」と決意した。夫も自分を取り戻し、子育てに協力するようになった。
真実を受け止めたスタス
放課後、学校に迎えに来た両親とスタス。障害を抱えて生まれたスタスは、両親の愛情を一身に受けて育ってきた。スタス親子の存在は、他の障害児とその家族の希望にもなっている |
物心ついてから、スタスはリーザさんに「僕はなぜ歩けないの」と聞くようになった。いつか真実を話さなければならないと思っていたが、幼いスタスには受け止められないと感じていたリーザさんは「心配しないで。治療を受ければ歩けるようになるわ」と嘘をついて逃れていた。
その後、何度も手術が繰り返された。スタスは手術の苦痛に耐えた。NGO(非政府組織)の援助でイタリアでも手術したが、結局歩けるようにはならなかった。
リーザさんは二〇〇一年、アメリカで起こった9・11同時多発テロ事件の報道に触れて「今だ」と思った。スタスが歩けなくなったのはなぜか、そして9・11の事件で亡くなった犠牲者の
ことをスタスに話した。「テロでたくさんの命が失われたわ。でもあなたは生きている」という母親の言葉を聞いたスタスはそれ以後、自分の身体のことを聞くことはなくなった。
家族の会を結成して
六年前、自宅で勉強していたスタスが今は健常者といっしょに学んでいる。放課後、学校に迎えに来た両親に会えた。
リーザさんは、障害を持った子どもを抱える他の母親たちと障害児の家族の会「ヴィドグク」を結成し、障害児が普通の学校に通えるようにと条件整備などを市に求め、実現している。
以前は、障害のある子どもは学校に通うことをあきらめていた。しかし今では、多くの親が子どもたちを普通の学校に通わせることができると喜んでいる。現 在、ブチャ市では、障害児を通わせる普通学校が三校になった。スタスとリーザさんが、先鞭をつけたわけだ。
スタスは今、英語、日本語、経済学を学んでいる。将来はエコノミストかIT関連の仕事につきたいと言う。六年前には「英語の翻訳家になりたい」と言っていたのだが、少しずつ現実的な夢に変わっているようだ。
「くじけないで」とリーザさん
母親のリーザさんは福島第一原発事故のニュースを見て、非常にショックを受けたと言う。
「チェルノブイリと福島の人々は、大変な経験をしました。これは神様があたえた試練です。経済優先の暮らしを見直し、原発を作り続けてきた事を反省する きっかけを神が作ってくれたのだと思います。くじけないで。福島の人々に、私たち家族の乗り越えてきた試練を伝えてほしい」と語った彼女の瞳はしっかりと 前を見つめていた。 (了)
いつでも元気 2012.9 No.251
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