大阪・泉南アスベスト 国家賠償請求訴訟 国の責任を問う 国は、知ってた! できた! でも、やらなかった!
大 阪府泉南地域(泉南市・阪南市)では一九〇七年から約一〇〇年間にわたり、石綿紡織(石綿と綿を混ぜて糸にする)業が発展し、最大で二〇〇以上もの工場が 稼動していました。しかし、戦前から石綿工場の労働者や近隣住民らに甚大な健康被害が多発し、多くの方が石綿による肺の病気で亡くなるという問題が起こり ました。
国は対策を怠った
大好きだった看護の仕事を辞めざるを得なかった岡田陽子さん |
国は一九三七年から泉南地域の石綿工場の労働者を対象に調査をおこない、労働者の一二%が石綿 肺にかかっているという実態をつかんでいました。しかし石綿は非常に安価で、自動車や建築材料などさまざまなものに使われていたため、経済的理由を優先さ せ、使用の制限や健康被害防止策を怠ったのです。
二〇〇六年五月、石綿工場の元労働者や近隣住民八人(注)とその遺族らが国に対し、対策を怠った責任を追及する、日本で初めてのアスベスト国家賠償訴訟を起こしました。
泉南アスベスト国賠訴訟・第一陣の大阪地裁判決は四年間の審理を経て、二〇一〇年五月一九日、「石綿被害の責任は国にある」と判決を下しました。二四人 の元労働者に対し総額約四億三五〇〇万円の賠償を命じましたが、近隣住民の健康被害は認められませんでした。
「いのちあるうちに救済を」と原告団と弁護団は早期解決を求め、それを受けた厚生労働大臣は控訴断念を表明し、環境大臣も支持しました。しかし、国家戦略大臣は控訴を決定し、和解協議を拒否したのです。
二〇一一年八月二五日、大阪高裁は「戦前から、石綿をばく露することによって、重篤な肺疾患を発症する危険性があることは知られていた」としながら、健 康被害は防止策をとらなかった元労働者らの自己責任とし、「厳格な許可制の下でなければ操業を認めないというのであれば、工業技術の発展及び産業社会の発 展を著しく阻害する」という、不当な判決を言い渡しました。いのちや健康より産業発展を優先させたのです。
「石綿は安全な物」と
いまも残る閉鎖されたアスベスト工場 |
第一陣原告の岡田陽子さんの母親・春美さんは一九五四年、石綿工場の社長から「子どもを連れてきてもいいから、仕事にきてくれ」と言われ、生後八カ月頃の陽子さんをかごに入れて、そのすぐ横で作業をしていました。
社長は「石綿は安全な物だから心配はいらない」と言い、石綿をなめて見せたのでした。陽子さんは中学一年生まで工場敷地内の社宅で暮らし、敷地はもちろん工場の中でも遊んでいました。
一九八七年、うえに病院(現・コープおおさか病院)で看護師として働いていた陽子さんのもとに、春美さんから「一生懸命息をしないと、空気を半分しか吸 えない」と電話がかかってきました。病院へ連れて行くと「石綿が原因だ」と医師に告げられ、春美さんは「娘は大丈夫でしょうか」とたずねました。そして、 胸部レントゲン撮影をしたところ、陽子さんの肺の中にも石綿が入っていることがわかりました。
春美さんと同じく石綿工場で働いていた父親の一夫さんも、一九八八年頃からせきなどの症状が現れ、石綿肺(石綿による肺の繊維化)を発症し、急激に容態 が悪くなりました。病院が嫌いだったにもかかわらず、自ら「病院へ連れて行ってくれ」と言い、入院して五日後に肺がんで亡くなりました。
陽子さんも徐々にせきが出だし、出かけると体がだるくなり次の日は休むように。風邪が長引いた程度に思っていましたが、次第に呼吸状態が悪くなり、つい には病院のゆるやかなスロープすら登れなくなりました。それでも病院食を運ぶワゴンにつかまりながら、なんとか仕事を続けていましたが、二〇〇七年、五一 歳で退職を余儀なくされました。
陽子さんは「石綿肺になって一番つらいのは、これです」と、鼻に入っている酸素チューブを指します。「酸素ボンベを引いて歩くとじろじろ見られるし、ふ だんはマスクでチューブを隠しているけど、食事などでとったときに、子どもが立ち止り不思議そうな顔で、じーっと見るんです」と悲しそう。外出した際に 「そんなの(在宅酸素)してるのに出歩いたらあかん」と言われたこともあります。
話をすると息苦しくなるため、妻が話しかけてもうなずくだけの赤松さん |
陽子さんは大阪高裁の判決を受け、「石綿が危険だと知りながら、子どもを工場に連れて行く親はいない。人のいのちより経済発展を優先させる、本当に冷た い判決です。最高裁では私たちの苦しみを理解してもらい、本当の解決をしてほしい」と涙ながらに話してくれました。母親の春美さんも原告としてたたかい、 今年二月四日、志なかばで亡くなりました。
同原告の赤松四郎さんは約一〇年間、石綿工場で働きました。工場をやめて約一〇年後にせきやたんが出るようになり、次第に息苦しくなりました。在宅酸素をするようになり、医師に「石綿肺だ」と宣告されました。
いまでは話をしようにも小声を出すのが精一杯で、ご飯を食べてもせきでむせて飲み込めないほどです。そのため栄養が足りず、毎日送迎バスを利用し、妻と病院に通い点滴を受けています。
石綿による労災認定
あらためてたたかう決意をかためあった「原告団総会」「新春のつどい」 |
耳原総合病院の病理専門医・木野茂生副院長は「患者さんの職業歴を細かく聞くことが重要」と言います。肺がん患者がなぜ病気になったか、職業歴を聞くことで原因が石綿にあると突き止められることがあるからです。
石綿による労災認定は中皮腫(アスベストなどが原因でできる腫瘍)であれば、ばく露作業年数が一年以上で認められます。しかし、肺がんでは石綿による肺 の所見や作業年数が一〇年以上、または、乾燥肺(乾燥した肺組織)重量一グラムあたりに、五〇〇〇本もの石綿小体があると証明しなければなりません。
「肺がんで亡くなったとされた、神戸製鋼の元労働者の家族が何度労災申請をしても却下され、耳原総合病院へ相談にきたことがある」と木野医師。一九八七 年に採取された肺の組織を取り寄せ、木野医師が調べたところ、中皮腫とは診断できませんでしたが「肺線がんと断定することはできない。中皮腫の可能性も否 定できない」との意見書を書きました。
さらに弁護士が当時の死亡診断書を書いた医師を探し、「中皮腫を疑ったが、確定できなかったので書けなかった」との証言を得ました。こうして労災申請が認められ、遺族は補償を受けることができたのです。
「最後までたたかう」
『問われる正義』 原告被害者や家族の訴え、裁判の焦点などを掲載 (大阪じん肺アスベスト弁護団編。600 円+税、かもがわブックレット) |
二〇〇八年、全日本民医連は肺がん患者を対象に、石綿の影響を調べる調査班を発足させました。八八五人を調査した結果、胸部CT検査で胸膜肥厚斑(肺の外の薄い膜が厚くなる)が一二・八%も認められました。
当時読影会に参加した、大阪アスベスト対策センター長の穐久英明医師(西淀病院副院長)は「低線量被ばくもそうだが、石綿にも急性期症状がない。胸膜肥 厚斑の所見がある人は他にもたくさんいて、いまは症状がなくても、何十年後かに重篤な症状が出る可能性がある」と。
二〇〇六年九月、日本で石綿の使用が禁止されました。しかし、それ以前に使われた石綿を含む建物などが、昨年の東日本大震災で倒壊した建物などから飛散 し、がれき撤去作業などをおこなった人々が、ばく露した可能性があります。穐久医師は「この国賠訴訟で勝つことによって、今後起こりうる石綿による健康被 害救済にもつながる」と語りました。
一月二一日、泉南市樽井公民館に原告団や弁護団が集まり、「原告団総会」と「新春のつどい」をおこないました。原告団は「みんなで一丸となって最後までたたかいましょう」と声を上げました。
文・安井圭太記者/写真・豆塚 猛
いつでも元気 2012.3 No.245