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いつでも元気

いつでも元気

ヒバクシャからのスタート 飯舘村を追われた人々はいま フォトジャーナリスト・野田雅也

 福島県飯舘村の朝七時、本来なら酪農家にとって乳搾りでもっとも忙しい時間だ。しかし二〇一一年五月二五日は、酪農家一一戸のリーダーである長谷川健一さんの牛舎に、九人の酪農仲間が集まっていた。村の酪農の歴史に幕がおりる朝のことだった。

「原発はすべてを奪った」

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牛を送り出す田中さん。実現した夢は、この日終わった

 高濃度の放射能汚染により計画的避難が決まった飯舘村では、酪農家が避難のために休業(事実上の廃業)を決意。話し合いの後に、乳牛の処分が始まった。
 「僕の命も、牛の命も同じ重さ。それを殺せってか」田中一正さんの目は、悔しさと怒りに満ちていた。
 牛の扱いになれた酪農家たちは、繋がれた鼻ヒモを解き、小走りでトラックの荷台へ手綱を引いた。牛たちは行き先を分かっているかのように抵抗する。足が 震え、へたり込む牛。大きな体で飛び跳ね、逃げようとする牛。手綱を引く長谷川さんと呼吸をあわせて、田中さんと高橋日出代さんも、懸命に牛の尻を押し た。
 長谷川さんは「原発はすべてを奪った」と、涙を流しながら荷台で鳴く牛にビデオカメラを向けた。「俺は牛たちみんなにあやまったよ。まったく情けねえって、すまねえ」。
 五月二八日の台風前夜、酪農家仲間が集まり、宴がおこなわれた。牛への情熱や思い出話のつきない、賑やかな「さよなら会」だった。しかし夜がふけ、みん なが酒に酔いつぶれたころ、こたつ台に頬をうずめていた長谷川さんが私にこう言った。
 「わかっか、こん気持ちが。仲間がバラバラになんだぞ!」
 卓上に置かれた放射線の積算線量計は、ひと月ほどで三二九六マイクロシーベルトを示していた。人が一年に浴びる放射線量の上限一〇〇〇マイクロシーベルト(1ミリシーベルト)をはるかに超えていた。

「放射線からは逃げるしかない」

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高橋さんの牛舍

 わらぶき屋根の旧家で暮らす高橋さんは、裏山にある先祖の墓に花を供え、手をあわせた。祖父が建立した石碑には、北海道から移住し、深谷地区を開墾した高橋家の歴史が刻まれている。
 墓地から見渡すと、遠くにまで牧草地が広がる。それも先祖が残してくれたもの。「この家を追われるとは…」。
 代々受け継いだ土地を離れ、神奈川県横浜市にある牧場で働くことが決まっていた。高橋さんは酪農学園大学を卒業した後にスイスへ留学し、牛と人間が寄り添って生きる素朴な酪農を学んだ。
 現地ではチェルノブイリ事故による放射能の汚染被害について聞き、自宅に核シェルターを作る人が多いことも知った。「放射能からは逃げるしかない」と考 えていたが、それが現実のものになると、牛の処分のことや、避難先が決まらないこともあり、自宅に留まった。その間、下痢が続き、風邪を繰り返していた。 鼻血や下痢は被ばくの初期症状とも指摘されるが、高橋さんは「精神的なストレスでしょう」と言う。
 六月二八日、横浜の牧場からほど近い住宅地にワンルームのアパートを借り、新しい生活を始めた。福島県の特例措置である借上げ住宅制度を利用し、最長二年間、家賃六万円まで補助される。
 「まっ白い壁に慣れていないから、変な気分です」
 かまどと五右衛門風呂のある日本家屋で暮らしていた高橋さんにとって、ワンルームは「牛三頭分のスペース」だという。「贅沢は言えません」。
 種付けや出産、飼育と牛のことを知りつくした高橋さんは、牧場にとって頼もしい存在だ。働き始めてすぐに、子牛の出産に立ち会った。新しい命の誕生は、酪農家の生きがい。「頑張って生きよう」と元気をもらうそうだ。
 生活が落ち着き始めていた一二月、避難先で七四歳の父が体調を崩したと母から連絡が入った。命に別状はないものの、次第に「飯舘村へ帰りたい」という思 いが募る。しかし、自宅の放射線量は今も三~四マイクロシーベルトと下がらない。「除染をしても無理だろう」と村へ戻ることはあきらめている。
 「ここで頑張るためにも、はやく彼氏でも見つけましょう」と高橋さんは寂しそうにつぶやいた。

牧場の復興を

 福島第一原発三号機が水素爆発した翌日の三月一五日、北西に吹く風は高濃度の放射能を運び、“黒い雨”を降らせた。その雨に濡れながら、田中さんは屋外で牛の世話を続けていた。
 田中さんが暮らしていた長泥地区は、村内でもとくに汚染されたところだった。「すでにたっぷりと被ばくした。人体実験でもいいから、自分の体にどんな影響があるのか、少しでも教えてくれよ」と話す。
 東京都出身の田中さんは、酪農に適した土地を探し歩き、一〇年前にこの村へ移住した。放牧するには十分な敷地と美しい風景で、何より村人が移住者を歓迎してくれたのが、田中さんには嬉しかった。
 原発事故直後に、実家のある東京へ避難することもできた。しかし「こんなときだからこそ、世話になった人たちに最後まで恩返しをしたい」と牛の処分を終えてもしばらく村に留まった。
 田中さんはいま、山形県置賜郡にある県営牧場で働いている。のどかな個人経営の牧場ではなく、大量生産型の搾乳工場だ。飯舘村では名前を付けた牛に声を かけながら、丁寧に乳搾りをしていた。しかし県営牧場では自動搾乳装置のコンベアに乗せられて、回転寿しのようにまわり続ける牛の乳房に、慌ただしく搾乳 機を取り付ける。
 「ここには酪農家を目指す若者が集まっています。私の経験や知識のすべてを彼らに伝えたい」
 放射能汚染で全国の酪農家は崖っぷちに立たされている。日本に酪農業を残すためには、若者に託すしかないという。
 「村に戻れなくても、いつか、どこかで、仲間が再会する『飯舘牧場』を作りたいんです。絶対に実現します」

真実を訴え続けるために

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搾った生乳を処分する長谷川さん

 いまでも思い出す言葉がある。仮設住宅の完成を待っていた六月一一日、長谷川さんの携帯電話に、相馬市の酪農家仲間が自殺したと緊急連絡が入った。長谷川さんはこう言った。
 「俺だって本気で首を吊ることを考えてたんだ。積みあげた積み木が一瞬で崩れ、もうダメだってな。それをあいつは先にやってしまった。自殺が続くぞ」
 それは現実となった。数日後、南相馬市のおばあさんが「さよなら、私はお墓にひなんします」と命を絶った。飯舘村に隣接する山木屋地区では、養鶏家の女性が焼身自殺。原発事故が次つぎと、命を奪っていったのだ。
 長谷川さんは、現在、全国各地で精力的に講演活動をおこなっている。
 「東電がウソを吐き続け、メディアが本当の被害を伝えないなら、自分の口で訴え続けるんだ」
 奪われた土地やバラバラになった家族、殺してしまった牛、自殺した仲間。そして新たなヒバクシャとしての苦しみ。長谷川さんの言葉には、それらすべてを背負った覚悟がある。
 冒頭で長谷川さんはいつも、「私はヒバクシャです。暗くなるとピカピカと光ります」とブラックジョークを飛ばし、笑いを誘う。それを聞くたびに私は、 「やっぱり飯舘の人だな」と思う。村でもそうだった。絶望にうちひしがれていても、いつも誰かが冗談を言った。
 先人が村を開拓した時代から続く村人同士の固い結びつき。それが苦しくても笑い合える“人間力”の源だ。飯舘村の酪農家たちは、バラバラになっても前を 向き、不屈に、明るく生き抜こうとしている。いつしか私は、そんな村人の笑顔にカメラを向けていた。

いつでも元気 2012.2 No.244