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いつでも元気

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元気スペシャル 福島県飯舘村 牛が消えた村 「原発さえなければ」 写真家・ 森住 卓

 六月二九日、福島県本宮市にある福島県家畜市場で、乳牛の競りがおこなわれた。福島原発事故の放射能汚染により指定された「計画的避難地域」の酪農家が、同県白河などの牧場に避難させた子牛や育成乳牛だ。
 飯舘村の酪農家の四一頭も競りにかけられた。村内全一一軒の酪農家は四月末にすべて「休業」、実質上の廃業を決めていた。

乳牛に愛情注いで

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志賀さんの子牛が競りにかけられた(6月29日、本宮市の競り市会場)

 飯舘村蕨平(わらびだいら)の志賀正次さん(48)と妻の百合子さん(47)は、四十数頭の乳牛を飼っていた。百合子さんは生まれたばかりの子牛のために湯たんぽを入れて小屋を暖め、下痢をした子牛にはぬるま湯を飲ませて治した。

 一般の酪農家は「早く大きく」育てるために脱脂粉乳をあたえているが、百合子さんは母牛の生乳を飲ませ、自然に近い状態で健康な牛を育てようと、わが子のように愛情を注いできた。
 市場では「志賀牧場」の子牛は、徐々に高値がつくようになった。来年はもっとたくさん子牛を育て、「百合子ブランド」の子牛を出そうと張り切っていた矢先の原発事故だった。
 百合子さんの育てた子牛は三五万円を超し、この日の最高値がついた。「嬉しかったのは、生後六カ月の子牛を山形のトップブリーダーが買ってくれたこと。 『大事に育てて秋の共進会(品評会)に出すから見に来いよ』と言ってくれて、何よりの励ましになった」と言い残して避難先の会津に帰っていった。

収入が絶たれて

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牛が屠殺処分で運び出された。牛をつないでいたロープだけが残された(5月8日、飯舘村蕨平)

 志賀さんの牧場を私がはじめて訪ねたのは、今年の四月中旬。周りの山は、まだ芽吹く前だった。
 堆肥舎(たいひしゃ)に正次さんがシャベルローダーで牛糞を運んでいた。あいさつをするとエンジンを止め、「見てくれ」と案内してくれたのが山際にある畑だった。
 畑の端にワイヤーで囲われた一角があった。「今週、死んだ牛を埋葬したんだ」と正次さんは怖い顔で言った。
 原発事故後、飯舘村の土壌から放射性物質のヨウ素131が検出されたため、絞った原乳は出荷できなくなり、捨て続けなければならなかった。
 収入を絶たれた酪農家はやむを得ず、えさを控える。それでも乳牛は自分の身を削って乳を出し、やせ衰えていった。体力の尽きた牛は、やがて死亡した。
 家畜保健衛生所は「汚染した牛は埋葬しろ」と。志賀牧場では二頭の牛を埋葬した。

飼料代不足し 牛はやせおとろえて

「戻れるとは思わないでくれ」

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えさを減らされ、栄養が取れない牛はガリガリに痩せていった(5月29日、飯舘村)

 四月一二日、飯舘村は計画的避難区域に指定され、牛は「移動禁止」となった。住民は避難しなければならない。しかし牛は動かせない。酪農家は八方ふさがりの状況に追い込まれた。
 原発事故直後、死の灰を含んだ雲は南東から村の上空を通過し、雪や雨に混じって飯舘村にも降り注いだ。その結果、同村の蕨平や長泥、比曽地区など村南部がもっとも汚染のひどい地域になってしまった。
 計画的避難区域に指定されてから二カ月近く過ぎた五月末、正次さんの両親は被災者のための仮設住宅ができるまで、同県の会津地方に避難することになった。
 避難する前日の晩、正次さんは両親と遅くまで話しあっていた。
 「もう、ここに戻れると思わないでくれ。先祖の墓参りも明日が最後かもしれないからな」
 正次さんは辛い話を両親に言い含めるように言った。年老いた両親はじっとうつむいて聞いていた。
 翌日、両親は住み慣れた蕨平の自宅を離れた。持ち物は二つの段ボール箱に入れた衣類と、二つのバッグだけだった。

一人ぼっちになった酪農家は

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相馬市の酪農家が遺した書きおき(長谷川健一撮影)

 六月一三日の朝、正次さんから電話がかかってきた。「相馬市の酪農家仲間が自殺した」と言う。
 その酪農家は五〇歳代で、借金を抱えていた。妻は子どもをつれて国(フィリピン)に帰ってしまった。原発事故のため、牛も処分した。一人ぼっちになった彼は、牛舎の隣の堆肥舎で首をつって命を絶ったのだと言う。
 壁には「原発さえなければ」と無念の思いが記されていた。

 

住民の姿が消えた村で

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収穫できなくなった麦。放射線計は通常の130倍の毎時6.53マイクロシーベルトを示した(6月29日、飯舘村前田地区)

 六月末、飯舘村の乳牛はすべていなく
なった。
 「いつになったら村に戻れるのか? しかし戻っても、この歳では酪農を再開できないだろう」
 それぞれの悩みを抱えながら、村内にあった一一軒の酪農家は、県外の牧場で働いたり、仕事を探すため、ちりぢりになってしまった。
 蕨平の牧草は膝上まで伸び、刈り取りの時期になっていた。しかし、村人の姿は見当たらず、牧草地は高い濃度のセシウム137などによる汚染が続いてい る。ポケット線量計で測ってみると、空中の放射線量は一時間あたり二〇マイクロシーベルトを超えるところがあちこちで観測された。

いつでも元気 2011.9 No.239

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