元気スペシャル 津波の爪あと残るまちで大奮闘 復興に向け一歩踏み出す 宮城・若林クリニック 若林健康友の会
「震災の影響で『元気』販売所を維持できなくなった。今後は若林クリニックのほうへ送ってほしい」。三月一一日の東日本大震災直後、宮城県仙台市の若林健康友の会から電話が入りました。四月半ば、クリニックを訪ねました。
地震直後に仲間を見回り
地域訪問にとりくむ若林クリニック看護師長の京玲子さん(右)たち。中央は水戸部秀利・宮城厚生協会理事長 |
待っていてくれたのは、友の会副会長の大友睦夫さんと、事務局長の佐藤眞知子さん。
大友さんは大地震のとき、自宅にいました。揺れがおさまると、真っ先に頭に浮かんだのは友の会の仲間のことでした。「ひとり暮らしの高齢者や気になる世帯を見回ろうと、クリニックの周辺まで来たんです」。
そのとき、海岸の向こうから急速に迫ってくる黒い壁のような津波を目撃。海岸に近い自宅は、津波に飲み込まれてしまいました。幸いにも自宅にいた妻は無 事でした。「家の二階で一晩過ごし、翌日、ヘリコプターに救助された」と大友さん。
防潮林のマツが根こそぎ抜かれて自宅に突き刺さり、いまも避難所生活を余儀なくされています。
「人のあたたかさが身にしみた」
津波の爪あとがいまも残る街並み |
大友さんの近所に住む佐藤さんは、外出先で地震にあいました。いったん自宅に帰って片づけをしていましたが、「津波がくる」との知らせに、周辺住民に避難を呼びかけながら車を走らせました。
佐藤さんは七人家族。避難所で家族全員が無事再会できましたが、ことし一月に生まれたばかりの孫を抱えていました。知人宅に身を寄せてしのぎ、一週間後から借家に移って生活。
知人宅に身を寄せている間、「『赤ちゃんがいるから大変でしょう』って、地震当日の夜から四日間も続けて食料やおむつを届けてくれた知人がいたんです。 地域の外に住んでいるんですが、私が以前おさそいして友の会員になっていただいた方なんですよ」と佐藤さん。
「他にも『赤ちゃんをお風呂に入れにきていいよ』と声をかけてくれた方がいたり、引っ越しの際には、洗濯機から冷蔵庫や食器まで周りの方にいただきまし た。これほど人のあたたかさが身にしみたことはなかった」としみじみ語ります。
クリニック前に診療を待つ列
大きな揺れのなかで「気になる患者さんの顔が頭をよぎった」と語るのは、クリニックの加藤隆雄事務長です。地震直後、要介護度5の九〇代男性を娘さんが介護している往診家庭など、「手分けしてようすを見にいこう」と職員で打ちあわせました。
しかし車を走らせようとしたそのとき、近くの住民に「津波がくる」と呼びとめられました。「引っ張られるように近くの小学校へ避難した」といいます。
津波はクリニックの駐車場でとまりました。建物は浸水をまぬがれたものの、地震でカルテも散乱し、停電でパソコンも使えません。「とても診療ができる状態ではなかった」と加藤事務長。
しかし週明けの月曜日には、クリニックの前に診療を待つ人々が列をなしていました。「これは開けないわけにはいかない」と、地震で散乱した書類の山から なんとか引き出すことができた薬の処方せんを頼りに、診療を再開しました。
「眠れない」「血圧が高い」という症状だけでなく、地震と津波の恐怖、家族や知人を失った苦しみなどをせきをきったように語る人々。診察した患者の数 は、三月一四~一九日で一六三人。ひとりひとり時間をかけてていねいに聞きとり、被災者の心身を支えました。
復興の運動に立ち上がりたい
診療所周辺には五〇〇人弱の友の会員がいます。避難所などを回って安否確認をおこなっていますが、被害の詳細はつかめていません。どんな被害があったか、いま困っていることは何かなどを聞く調査用紙を作り、全容を把握しようと準備をすすめています。
「友の会ニュースの配布ルートを使って、会員ひとりひとりの現状をつかみたい。そして友の会が震災から復興の運動に立ち上がるきっかけにしたい」と、大友さんは力をこめます。
さらに行政に対しても「復興のビジョンを大まかでも示してほしい。それがなければ同じところに家を建てていいのかもわからない。安全な場所へ集団移転と いうことも含めて検討しなければ。生活保障や雇用保障もしっかりしてほしい」と大友さん。震災の影響で夫が三月末で会社を解雇された佐藤さんも、深くうな ずきました。
全戸訪問で被害の実態をつかむ
四月一四日、全国の民医連の支援を受けて、クリニック周辺地域の全戸訪問活動がおこなわれました。クリニック看護師長の京玲子さんも参加しました。
京さんが行った地域は、ほとんどの家が床上浸水。「車四台がすべて駄目になった」「床下にヘドロがたまってどうしようもない」のほか、ある職人さんの家 では「機械や機具が海水でさびて困っている」と、被害の実態が語られました。
また、農家も多い地域で農機具も海水をかぶりましたが、深刻なのは田畑。塩害で作物が実るかどうか、「やってみなければわからない」と語る男性にも出会いました。
「大地震のとき、東京から帰る新幹線に乗っていた」という女性とも話すことができました。「一〇日は東京大空襲があった日でしょう。空襲で家族を亡くした八五歳の母を車いすに乗せて、お参りに行っていたんです」。
数日後に帰り着いた家は、床上浸水でヘドロがたまり、家電がすっかり駄目に。「でも住めるだけ、うちはまだいいほうじゃないかしら」と他の被災者を気づかいます。
女性はクリニックと同じ宮城厚生協会に所属する長町病院の友の会員。前出の佐藤さんとは、“うたごえ”仲間です。
「また“うたごえ”をやりましょうって佐藤さんに伝えてね。こういう時だからこそ、楽しい企画や催しが必要よ」。
大震災から一カ月経ち、「『そういえば来てないな』という患者さんも出てきています。患者さんの安否確認を急がなくてはいけない」と語るクリニックの加藤事務長。
復興のうたごえが響くのはいつか。心から復興を喜びあえるその日まで、友の会員と民医連職員の奮闘が続きます。
文・武田力記者
写真・五味明憲
福島県からの避難者を支えて医療生協さいたま 医療生協さいたま・川口診療所のすぐそばにある埼玉西スポーツセンターは三月一八日から避難所となり、福島県からの原発避難者を受け入れています。五月六日現在、七五人の方が利用しています。 家は決まったが、仕事があるかどうか…福島県南相馬市小高区(福島第1原発から17 キロ)から避難してきた、寺岡正富さん(58)の話 2~3日で家に戻れると思って、着の身着のまま、母(86)と娘一家の6人で避難。まさかこんなに長い避難所生活になるとは思わなかった。 |
いつでも元気 2011.6 No.236