平和祈る季節
2000の折り鶴つなぐ 長野・伊那谷健康友の会
当友の会では、久しぶりに原水爆禁止世界大会へ代表を送ることができました。
友の会の班会や各職場で、外来の患者さんにも「折り鶴を折ってください」とお願いしたところ、集まった鶴は二〇〇〇以上に。
たくさん集まった鶴を見て、「つなぐ作業は誰がするの?」と、ある友の会員さん。
「私たち近所のものが来てつなぐから」と、周りに声をかけ、四人が集まって作業をしてくれました。つながった鶴には、多くの方々の平和に対する願いが託されています。
代表団団長を担う支部長の伊藤さんも、はりきって友の会員やご近所さん、友人にカンパを訴えました。
(熊谷光栄)
兄を思いながら平和行進 兵庫・姫路医療生協
ことしも国民平和大行進が播州の地にやってきました。
私の兄は一九四六年に西部ニューギニア・エフマン島で、マラリアにかかって亡くなりました。毎年この時期になると、やさしかった兄を思い出しながら、平和行進に参加することにしています。
当生協の仲間たちと、七月一三~一四日、雨と酷暑の中を歩き続けました。
平和であってこそ人々の命も健康も守ることができます。姫路空襲や広島・長崎への原爆投下を知っている最後の世代として、若い人たちに平和の尊さを伝えていきたいと思っています。
(岸本守通信員)
原爆死没者慰霊式典で献唱 千葉健生病院健康友の会
七月二五日、千葉市亥鼻公園で、第三二回千葉県原爆死没者慰霊式典が開かれました。
当友の会と、船橋二和病院健康友の会のコーラスが参加し、千羽鶴といっしょに歌を献唱しました。
いつもは蝉の声がうるさいほどなのですが、このときはなぜか一匹だけが「ミーンミーン」と悲しげに鳴いていました。この一年間で新たに一三人の方が亡くなり、死没者は五〇五人に。
式典実行委員長の青木茂・県原爆被爆者友愛会会長があいさつ。「六五年経ったいまも、私たちは水を求める人、助けを呼ぶ人をふり切って生きのびてきたと いう感覚を持っている」「いまも、心・体・くらし全体に及ぶ被害に苦しんでいる方々がいる」「しかし、六五年前の広島・長崎を燃やしつくした原爆の火は、 いま私たちの胸に平和の火として燃え続け、核兵器廃絶を訴える力になっている」というものでした。
私の胸の奥にも、また新たな火が灯されました。
(伊藤則子通信員)
涙、涙の「語り部の会」 愛媛生協病院
当院では、「原爆被爆者語り部の会」を開きました。語り部の方は、六五年前の経験を涙ながらに語ってくださいました。
「当時は二〇歳で、兵隊として広島にいました。朝礼が終わったところに、光線が走り、大爆音で吹き飛ばされました。何が何だかわからず、市街をさまよっ たのです。…米軍と日本政府は、新爆弾について国民に真実を明かしませんでした。こんなことがあっていいものか。戦争は絶対ダメだ」。泣きながら訴えられ ました。
また、死体をトラックに積み込む作業をしたこと、「水をくれ」といいながら息絶えていった人たちのこと、自分も鼻や口から血が出て下痢や嘔吐に悩まされ たこと、薬がないため母がやいと(灸)を背中にしてくれたことなど…。
さらに、「一人の子どもを肺がんで亡くし、孫にも影響を及ぼさないかといまも心配」とのこと。涙なしには聞けませんでした。
(池本猛通信員)
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いつでも元気10月号No.228より