特集1 現地レポート 宮崎県川南町 口蹄疫拡大 なぜ
宮崎県で四月に発生した家畜伝染病の口蹄疫。被害は五市六町に広がり、全体で二九万頭ちかくの牛や豚が殺処分されました。
「人災」との指摘もある、今回の感染被害。現地で生の声を聞きました。(武田力記者)
1021頭を養っていた石川高さんの豚舎の一部 |
「殺処分される日も、牛たちはふだんと変わらないようすでエサを食べていたそうです」
話しながら涙声になってしまった大山貴美子さん。宮崎生協病院の看護師です。自分の家で飼っていた牛 が殺処分された六月三〇日のことが忘れられません。
大山さんの住まいは川南町にあり、夫と義妹が牛一〇〇頭を養っていました。
「夫は平静をよそおっていますが、ときどき『コツコツ大切に育ててきて、これからが楽しみだったのに』などとつぶやきます。母牛が子牛を心配して鳴く声 や、近所の豚の鳴き声が聞こえなくなって・当たり前だと思っていた日常が急になくなった感じです」
被害がとくにひどかった川南町では、一五万頭いた牛や豚が全頭殺処分されました。
埋却を農家に押しつけ
同じ川南町の石川高さんは、養っていた豚一〇二一頭を失いました。
五月一五日に豚舎の中で口蹄疫の感染が確認され、またたく間に広がりました。子豚は次々と衰弱死。埋却地の確保に奔走し、埋却が終わったのは二九日のこ と。山を持っている知人に土地を借り、木を切り倒してようやく埋却を終えることができました。
埋却地の確保は各々の農家に押しつけられました。土地さがしに時間をとられ、感染した牛や豚が何日間も放置されたことが、被害を広げた一因と指摘されて います。現行の家畜伝染病予防法は、一九五一年に制定されたもの。当時は小規模経営が圧倒的で、現在のように大量の家畜を養う大規模経営を想定していない という問題がありました。
被害拡大は「人災」との指摘も
川南町の周辺道路で念入りな消毒。取材陣の乗った車も数回消毒を受けた |
初期に感染したとされる牛の異常を飼い主が獣医に相談したのは四月九日。疑わしい症例の報告は、すでに三月下旬頃からありました。検体の提出、動物衛生 研究所(東京都小平市)での検査などを経て、正式に結果が公表される四月二〇日までかなりの時間がかかりました。この間に被害が拡大したことを考えると、 初動の遅れは否めません。多くの人が「人災」と指摘するゆえんです。
石川さんの姉で、川南町議会議員の内藤逸子さん(日本共産党)は、石川さんたちといっしょに口蹄疫発覚直後から町や県などに対策を迫っていました。
「町の職員ははじめ、われわれの要求に対して、『殺鼠剤(注)って何?』という程度の認識で…。いち早く感染経路に手を打たなければいけないのに、事態の重大性をあまりのみこめていなかったのではないでしょうか」
町内の道路を通行止めするように要求しても、「それは県警の仕事」などと、動揺と混乱の中で町の対応が後手にまわってしまったといいます。
農民運動全国連合会(農民連)の村尻勝信副会長は、「二〇〇〇年に宮崎と北海道で口蹄疫が発生したときの教訓が生かされていない」と、国の責任を指摘します。
「当時はエサの輸入ワラがあやしいといわれましたが、国は原因を究明しませんでした。いったん止めたワラの輸入も再開してしまっていた。すべてをうやむやにしてしまったんです」と。
今回の感染の原因も「まだわかりません」と村尻さん。「感染経路は、人の衣服や車だったり、動物が媒介する可能性も。呼気や風さえ感染経路になりうるんです」
はっきりとは究明されていない感染原因。だからこそ口蹄疫が発見されたときの初動が重要でした。
教訓生かしたイギリス
日本と対照的なのがイギリス。二〇〇一年に口蹄疫が発生し、羊・牛など六〇〇万頭を殺処分、一二億ドルの損失をこうむりました。同国では、そのときの教訓をもとに、二〇〇七年の再発の際には被害を最小限におさえることに成功しました。
報道によると、口蹄疫の発生と同時に首相、閣僚、官僚などに緊急速報が流れるシステムを確立。感染の判定が確定した段階で、「中央危機管理委員会」が立 ち上がり、国内のすべての牛の移動を凍結します。さらに権限を国に一元化し、「処分と補償の同時進行」で、数時間以内の制圧を目指します。その際、迅速に 補償交渉をすすめるなど大きな役割を担う専門家集団「査定人グループ」は、ふだんから常設されています。まさにテロ対策ばりの危機管理体制です。
問われる農政、感染防止策
地元経済に深刻な影響
埋却地には花が手向けられていた。腐臭とまではいかないが、嗅いだことのない異臭が鼻の奥に残った |
被災したのは畜産農家だけではありません。肉の製造業者に雇用されている労働者、牛の爪をケアする削蹄師、人工授精を円滑にすすめる授精師など、畜産農家の周辺で仕事をしてきた人たちの収入も途絶えることに。
村尻さんも関わる「口蹄疫一一〇番」には、飲食店で働いていた男性が「売り上げが落ちたからといって、突然解雇された」と助けを求めてきました。三人の子どもを抱え、途方にくれていました。
記者が訪ねた「丸太産業」(都農町)は、木くずを製材所から仕入れ、加工する会社です。牛舎に敷く“のこくず”を農家に納入していました。周辺地域の牛が全頭殺処分され、需要がなくなってしまいました。
代表の黒木裕二さんは、「月五〇〇万円あった売り上げが五月はゼロになった」と深刻な表情。このような関連業者に対して、農家にされるような補償がされるのかどうかは不透明です。
「木を切る際に出た木くずが畜産に使われ、畑の堆肥になり土に帰っていく。みんなつながって、一つのサイクルになっている。川南町の畜産や農業を守るためにも、ここでやめるわけにはいかない」
“のこくず”の他目的への転用など知恵をしぼり、歯を食いしばって乗り切る覚悟です。
復興の道は険しく
付近の商店への影響も計り知れません。川南町のトロントロン商店街では、四年前から月一回の“軽トラ市”を開催するなど、人を呼び込む努力と工夫を重ね てきました。一三〇台の軽トラックが並び、新鮮な農作物や魚介類を求めて一万人以上が訪れる名物朝市に成長しましたが、四月から中止されています。
おもちゃ屋の中村屋を経営する中村人見さんに話しかけると、「人通りがなくなって、売り上げが七割減りました」と。
「移動制限の影響が大きかった。常連さんがぱったり来なくなって。われわれの商売が畜産農家の方々に支えられていたんだと、改めてよくわかった。地域経 済の復興のためにも、畜産農家ができるだけ早く立ち直ってほしい」と語ります。
計り知れない地元経済への打撃。“終息宣言”が出されても、むしろそれからがたいへんです。
医療生協も農家に協力
宮崎生協病院の看護師・笠井尚美さんは、口蹄疫発覚直後から古タオル集めにとりくみました。
消毒や防疫作業でタオルが大量に必要になることを知り、手作りの「ニュース」を発行。職員や組合員さんに手渡して、タオルの提供を呼びかけました。
さっそく翌日から反応があり、七〇竑のビニール袋で一五袋分がいっぱいに。
「みんな何かしたい思いはあっても、何をしたらいいのかわからなかった。民医連の職員や組合員さんは、人を助けたいという精神を根本にもっているんですね」と笑顔を見せます。
一方、川南町は国保料が高く、苦境におちいった住民が病院への受診を控えるのではないかと心配をつのらせる笠井さん。「これからまだまだやるべきことがある。農家の方々の心のケアも必要になるでしょう」
事態をくり返さないために
五月末には、口蹄疫対策特別措置法が成立し、再建のための基金の創設が決められました。しかし、「具体的には何も動いていない」と、前出の村尻さん。
さらに、「国は農業を市場原理にさらして海外と競争させ、大型化、大規模化を奨励してきた。このことに対する反省も必要です」と指摘します。
「たとえば輸入ワラが家畜のエサとして広がったのも、市場原理にさらされた畜産農家の多くが安い輸入ワラに頼らざるをえなくなったからです。しかし、自 給飼料で適正規模の畜産をおこなえるように政策を転換したほうが、今回のような事態を招く危険ははるかに小さくなるでしょう」
今回の口蹄疫被害は、日本の畜産や農政のあり方も問うています。
写真・酒井猛
いつでも元気 2010.9 No.227