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いつでも元気

いつでも元気

特集1 レポート “公設派遣村”前から

 〇九年一二月二八日~翌年一月四日まで、東京都は年末年始の生活総合相談をおこなった。いわゆる「公設派遣村」だ。行政がこのよ うな支援に踏み出すのは、かつてなかったことだ。またその周辺には「ワンストップの会(=年越し派遣村が必要ないワンストップサービスをつくる会、代表: 宇都宮健児弁護士)」の人たちがいた。旧・年越し派遣村実行委員やボランティアが集まり、この事業をよりよいものにすべく結成したものだ。記者も参加し た。昨年とは活動の形は変わったが、「起きていることを、よく見ておこう」と思う場面は昨年同様、何度もあった。ボランティアが見たことの一端を報告した い。

木下直子記者/写真・五味明憲

「雇用、改善せず」痛感

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ボランティアたちは街に出て、気になる人に声をかけ、公設派遣村の開設を知らせてまわった。あかぎれした手を手当するボランティア(12月29日新宿駅近くで)

 年越しのシェルターに行政が用意したのは、研修施設・オリンピックセンターだった。助けを求める人は新宿に集められて移動した。支援活動は、入所が始まった二八日から本格始動した。
 二九日から三日間は入所手続き会場の目と鼻の先にある新宿の公園にテントを張り、法律家や労働組合のメンバーが、相談活動をおこなった。生活再建のため の情報や個々の不安に応えるような体制が、行政には薄かったからだ。
 あわせて、大晦日までの四日間は「知らせる」活動をメインにした。東京都は公設派遣村実施の告知を、実施数日前にごく控えめにしかおこなわなかったの だ。住む場所もない人たちには、テレビや新聞の情報は簡単に届かないというのに。
 「年越しに困った人は、目指せ! 新宿職安通り」の呼びかけのチラシを抱え、毎日一〇〇人前後のボランティアが、主要駅や公園での炊き出しの列、路上に 寝ている人たちに夜回りなどして知らせていった。全労連や連合などという垣根を越えた労働組合をはじめ、路上生活者支援組織や、去年の派遣村村民、失業 者、学生、市民が集まった。民医連職員も毎日誰かしら顔を出した。
 これまで困っていそうな人をみかけても、「ここに行けばいいですよ」と、案内できる場所もないことに、もどかしさを感じてきた。だから今回、いいたかっ たセリフがいえるのはうれしかった。私たちのひと声・チラシ一枚が、家も仕事もない人たちが窮状から脱するチャンスに直結するんだから。

 広報不足ながら、二八日の初日ですでに二〇〇人近くがオリンピックセンターに入所した。ボスト ンバッグ一つと紙袋を手に新宿にやってきた男性は、図書館の新聞で公設派遣村のことを知ったと話した。ハローワークが休みの日は図書館にいて「ことし、派 遣村はないんだろうか?」と、紙面を眺めていたそうだ。

31歳のタカシさんは…

 チラシを渡し、会の相談テントに案内した人の数は覚えていない。しかし全財産と思われる大きな荷物を持ち、あるいは着の身着のまま駆け込んでくる人たちに接し、はっきりいえることがあった。去年の派遣村以降、雇用環境はまったく改善されていない、ということだ。
 三一歳の山田タカシさん(仮名)が象徴的だった。活動二日目の朝、職安通りで目があった作業服の青年だ。寒そうに首を縮め、青白い頬をしていた。声をかけると、ポケットから私たちのチラシを出してきた。まさかと思ったが、自分もホームレスだ、と打ち明けてくれた。 
 〇九年の二月、携帯電話工場を派遣切りされ、寮を出されたそうだ。失業保険は出ず、会社が保険をかけていなかったと後でわかった。貯金の一五万円はあっ という間に無くなった。手配師の誘いで、飯場に行ったが、ろくな仕事はなく、前借りの借金が膨らむ前に野宿を始めたという。「ワイシャツもない身なりだか ら、ハローワークの敷居も高かったんです」
 公園などでされる炊き出しで食いつないだ。「空腹には慣れました。炊き出しの列に三べんくらい並んで、食いだめしたりね…」この時も二日食べていなかった。
 肩にかけたビニール袋には拾った毛布を一枚。駅は人目があって恥ずかしいので、夜は公園で過ごした。しかし、寒さでゆっくり眠ってはいられない。早朝から歩いていたら、落ちていた会のチラシを見つけて、私たちに会えた。
 去年の年越しは、寮のこたつで派遣村のニュースを見ていた。「あの時は自分がこうなるとは、思いもよらなかった」
 ボランティアに来ていたハローワークの職員が漏らす。「就職指導すればすぐ職が決まりそうな人が去年以上に目立つ。それだけ雇用情勢が厳しいんだよね」
 完全失業率、有効求人倍率とも、過去最悪水準。新政権は企業の首切りに手を打っていない。第二第三のタカシさんは、出続けている。去年の日比谷派遣村に 集まったのは五〇五人で、ことし、年末年始の総合相談を利用した人は九〇〇人超。これだけでも事態の深刻さが伺える。

どうして? 届かぬ福祉制度

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集会を施設の外と内で。支援者は中に入れてもらえず、柵ごしに資料を渡す(木下撮影)
下=『生活保護申請ガイド』を皆が手にしていた(12月31日)

 もうひとつの実感は、「この国の福祉制度があまりにも行き届かない」ということ。「誰でも知ってる」と笑われそうだが、そう思わずにいられなかった。
 父親の介護で仕事を辞めた典型的なシングル介護の男性がいた。「一年前に父は亡くなったが、働こうと思ったら、四〇過ぎには仕事がない。住み込みの新聞拡張員の仕事についたが、契約が取れないからと二週間でクビになった」という。
 虐待する両親から逃げて、数年間生活が定まっていない二〇代の女性もいた。障害者一級の手帳を持ちながら、生活保護では医療しか支給されず、路上にいた 人も。障害や病気、DV(ドメスティック・バイオレンス)被害者、セクシャルマイノリティなど、まるで弱い者の吹きだまりのように見えた。ホームレスにな る前に、食い止める制度はなかったのか?
 日常のセーフティネットのお粗末さは、行政が利用者を扱う態度にも現れていたように思う。入所者の世話は、ある福祉法人が都から委託されていたが、対応はていねいとは言い難かった。「生活総合相談」を看板に掲げつつ、相談体制も不足していた。

 

ワンストップの会の奮闘

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走るバスの相談会に参加する人たちの列(1月1日)

 理解できなかったのは、協力を申し出たワンストップの会に、東京都が拒否的だったこと。政府の 年越し対策の中心は、旧派遣村の湯浅誠元村長だし、厚労大臣が突然現れ「行政の至らぬ部分を助けてくださって」と、礼をいう出来事もあったが、現場の都は 友好的ではなかった。
 ワンストップの会の生活相談や多重債務相談の達人たちが、休日返上で助っ人すると申し出ているにもかかわらず、敷地にも入れてもらえなかった。施設内で 行政がおこなっていた相談では、貸し付け制度の利用を優先させる傾向も。ホームレス状態の人に、なぜ生活保護ではなく、借金をすすめるのだろう? 入所者 には情報が届かず、「年明けにまた、路上に放り出されるのでは?」との不安まで膨らんでいった。
 会は「外」からできうる限りの支援に知恵を絞った。門前で集会を二度。激励の言葉とともに、柵ごしに生活再建のノウハウ本を渡し、弁護士が宣伝カーから生活保護制度を説明。前庭で入所者たちが熱心に聴く。ちょっとした青空学習会になった。
 元旦からは、施設前にバスを停め、車内を会場に生活保護申請などの相談をおこなう体制もとった。しかしこれもスムーズにいかなかった。当日、パトカーが陣取り、バスを停めさせない。バスを走らせながらの相談会に切りかえた。
 生活相談や法律相談、住宅情報のあっせんなど支援活動は、一月四日以降、宿舎が「なぎさ寮」に移ってからも続いた。寮といっても辺鄙な場所にあるプレハブ小屋だ。もともと路上生活者の越冬施設。三〇~四〇人が雑魚寝する。耐えられず路上に戻った人もいた。
 医療体制も貧弱だった。体調の悪い人が救急車を呼んだら「勝手に呼んだ、都は責任をもたない」と、なじられた。再三の要請で、日中だけ看護師配置が決まったが、死者が一人出てしまった。

バッシング報道…現実は

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なぎさ寮に移動するバスをプラカードを掲げて励ます。
ワンストップの会はどこまでも入所者のそばにいた(1月4日 木下撮影)

 「就職活動費に支給された二万円で酒・たばこ。脱走者二〇〇人」という報道が出た。「支援した のにひどいね」なんて善意で憤慨する声もあったが、事実は違う。二〇〇人の根拠はない。なのに、都は訂正しなかった。それどころか、支援打ち切りを表明す る際、都知事はその報道をひき「税金を捨てた」と強調した。
多くの入所者は、ひどい環境に耐えながら、生活保護の面談に福祉事務所に向かい、アパート探しや職探しに懸命だった。行き先が遠くて一七時半の夕食までに 帰れなかったり、視覚障害者がお金を落とし野宿したケースも。外出先から寮への連絡方法を知らなかった人もいた。
入所者たちは報道に心を痛めていた。「僕ら真面目にやってる。寮にいた人は、信用されないのでは?」と。必死な眼をみて悔しかった。実際、住居探しなどに も影響した。入居が決まっていたのに断られたり、「貰った二万円から一万円払え」と家主に要求された人もいた。
こんな形でいちど社会に印象づけられると、弱い立場の人たちほど払しょくが難しい。ワンストップの会は、緊急記者会見を開き、事実と異なる報道の修正と、都の支援内容の改善を求めた。

さらに前に

 一月一八日朝、都の支援が終わった。この時点での生活保護の決定は会の確認で五〇〇人余。寮を出る人たちを見送っていた湯浅さんは「課題は多いが、行政が派遣村をとりくんだ意味は大きい。表面化した日常的な支援不足をもう行政は無視できませんから」と語った。
 先述のタカシさんからは無事を知らせるメールが届いた。「念願のアパートに入れた。お金くれたのは都だけど、不安や悩みを解消してくれたのはワンストッ プの会だったよ。ハローワークに行ったら、街には野宿の人が増えてて、状況は変わってない。年末だけじゃなく、毎日派遣村があればいいのにね」…その通り だ。働く者がもっと守られ、日常的なセーフティネットも強固にしないと。同会の支援はいまも続いている。今回の年越しの活動が、改善の一歩に結びつくかど うか、注目していきたい。

いつでも元気 2010.3 No.221