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いつでも元気

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特集1 元気ネットワーク “これが共同組織のすばらしさ” あふれる熱気、核兵器のない世界へ 第10回共同組織 活動交流集会・長崎

 「こんなに大勢の人たちががんばっていることにビックリ」―九一年から開かれてきた全日本民医連共同組織活動交流集会。一〇回目となる集会が六月二一日~二二日、長崎市で開かれ、全国から四四県連・一五五〇人が集いました。

写真・酒井猛

参加者を圧倒、記念講演

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活動を交流し、お互いを励ました分科会

 初日の全体会で参加者を圧倒したのが、肥田舜太郎さん(全日本民医連顧問)の記念講演「いのち」。広島で被爆直後に見た被爆者の症状のうつりかわり、戦 後の民主診療所でのできごとなどを昨日のことのように克明に語りました。「先生が見てきた光景が思い浮かぶようだった」「真実を曲げず、つねに謙虚に追求 し続ける生き方を学んだ」などの感想が寄せられ、講演後の書籍販売では、肥田さんの著書『ヒロシマを生きのびて』(あけび書房)があっという間に売り切れ に。
 つづくリレートークでは北海道、山形、東京、大阪がとりくみを報告、熊本からノーモア・ミナマタ国賠訴訟の大石利生原告団長が自らの体験を語り、「水俣病は終わっていない」と訴えました。

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熱気につつまれた全体会

 長崎市長の田上富久さんもあいさつ。核兵器を「人間には不要」といい切り、地元の高校生が核兵器廃絶署名にとりくみ、国連に届けていることも紹介、「国 際世論を高めるためにできることを精一杯考えていきたい」と話して共感を呼びました。
 全体会の最後は、次回の開催地・岩手から。盛岡医療生協理事の嶋崎和子さんが「本集会のメインテーマにある『いのちの平等めざし、安心して住みつづけら れるまちづくりを』をめざして、着実に進んでいきたい。二〇一一年、次はみ~んなで岩手におでんせ!」と元気に宣言しました。

 

明日への勇気・力得て

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被爆跡をめぐる「動く分科会」も。写真は被爆校舎(旧城山尋常小学校)

 二日目は分科会。平和活動、社会保障運動、助け合い・まちづくり、共同組織の拡大・強化、環境・公害など九つのテーマで、二五五演題が発表されました。  この他、来年二月の全日本民医連総会で改定される予定の民医連綱領改定案について意見を聞くシンポジウムや、被爆の戦跡をめぐる「動く分科会」なども。
 「自分たちもがんばっていると自負しているが、たいへん参考になった」「発表者のみなさんがお元気で、年齢を感じさせない若さ、これが共同組織のすばらしさ」などの感想が。参加者は明日への勇気、力をもらいました。

列島リレートーク

 リレートークでは、北から南まで5人がとりくみやたたかいを報告しました。

中学校長と共同で「進路探検・医師講座」

北海道・宗谷友の会 田中俊美さん

 日本最北端の「宗谷友の会」の田中俊美事務局長は、「友の会の歴史は、宗谷における医療運動の歴史そのもの」と。
 同友の会は一九七五年の旭川医院開設当時から、稚内市に診療所の開設をめざしてきました。道北勤医協と建設運動を広げ、九五年に友の会員五一六五人、診療所建設資金一億円超を集め、宗谷医院が開設されました。
 さらに田中さんは健康まつり、医療懇談会などのとりくみを紹介。参加者の注目を集めたのが「進路探検・医師講座」です。稚内市内の四つの中学校長が呼び かけ、北海道勤医協の協力で一昨年から始まりました。青年医師が自分の生い立ちを語り、「道を切り開く勇気を持てば、できないことはない」と語りかけ、中 学生から「夢を持つ気持ちが大切だ。看護師になる夢をあきらめたくない」などの感想が。
 「医師としての船出は宗谷岬から。立派に成長して帰ってきてくれよ!」と友の会役員に声をかけられた医学生が、研修医となって道北勤医協に帰ってきました(本誌08年9月号でも紹介)。
 小学校長でもある田中さんは、こうしめくくりました。
 「教育と医療の営みは、本当によく似ている。その人が持っている生きる力、生命力を最大限に引き出す。教師の生きがいは子どもの笑顔と保護者の励まし。 医療従事者のみなさんにとっても仕事のやりがいは患者さんの笑顔と、地域のみなさんとの連携であり、絆であり、お互いを励ますことだと思います。教師も医 療人も住民との絆を強め、ともに成長する。その架け橋が共同組織だと思います」

地域住民の生活困難受け無料低額診療事業を開始

山形・庄内医療生協 成田忠一さん

 庄内医療生協からは、常任理事の成田忠一さんが、無料低額診療事業のとりくみを紹介。無料低額診療事業は社会福祉法に基づき、生活困窮者などを対象に患者の医療費自己負担分を減額または免除する事業です。
 庄内医療生協が活動している主な三自治体(鶴岡市、庄内町、三川町)では、全国平均二・七%と推計される生活保護受給割合が、一・六%と低い。しかし住 民が豊かなわけではなく、国民健康保険料の減免を受けている世帯は加入世帯の四五%にも達し、滞納も鶴岡市一四・六%、庄内町一二%、三川町五・九%と少 なくありません。こうした現状を受け、庄内医療生協はことし四月から鶴岡協立病院など三事業所で事業を始めました。
 近年、医療機関では医療費の患者負担分が支払われない「未収金」が問題になっています。成田さんは「最大の原因は(国民の)生活困窮」だとした厚労省の 調査を紹介。「医療費の一部負担金が払えないために受診できずに命を落とす、治療を中断する人びとが増えている。無料低額診療はこの深刻な事態への対策と して実施されるもの」と強調しました。
 一方で「無料低額診療の対象となる人びとは、医療・介護から遠ざかっている人たち」と成田さん。事業を広く知らせるために庄内医療生協は記者会見を開 き、報道されました。ステッカーの自宅への張り出しも組合員にお願いしたり、パンフレットの普及にもとりくんでいます。

後期高齢者医療制度廃止を28自治体に連絡会結成

東京・三多摩健康友の会 山本春男さん

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後期高齢者医療制度廃止をもとめて街中を行進(国立市で)

 東京からは、三多摩健康友の会の副会長、山本春男さんが後期高齢者医療制度廃止のとりくみについて報告。友の会員の三倍、七万七〇〇〇人分の制度廃止署名を集めたと話しました。
 力を入れたのが、学習活動。「署名・宣伝行動の合間に、学習会、講演会、シンポジウムなどを各地域で幅広く市民に呼びかけておこなった」と。社会保障推進協議会や民医連の講師が「引っ張りダコ」に。
 医師会や老人クラブとの共同もすすみ、後期高齢者医療制度の廃止をめざす「市民連絡会」が国立市、国分寺市など三多摩地域三〇自治体のうち二八の自治体にでき、「友の会はどの地域でも中心をになってがんばった」と山本さん。
 さらに〇八年三月におこなわれた後期高齢者医療制度の廃止をめざす一万四〇〇〇人の東京大集会、一二月におこなわれた日比谷公園での集会を紹介。
 「三多摩健康友の会は運動に大きな役割を果たしてきた」と語る山本さんは、「その力の源泉は何か。そこには『いのちの平等』を掲げる民医連と共同して、 『安心して住み続けられるまちづくり』をめざして、広く地域の人たちと共同してきた積み重ねがある」と語りました。

切れ目ない活動で元気 過去最高の健診数達成

大阪・医療生協かわち野 吉田満さん

 「私たちの組合員活動の特徴は、とにかく組合員を休ませないこと」と語った、医療生協かわち野の組織部長、吉田満さん。「一年間、切れ目なく行事を企画 し、元気な組合員が生まれている」と。その昔「一年中月間やっとるやないか!」と組合員さんにいわれたこともあるとか。
 医療生協かわち野は、五年間で組合員が一万三〇〇〇世帯の純増、出資金も四億八〇〇〇万円の純増を達成しました。
 このとりくみをささえたのが支部活動援助金の「健康づくり出来高払い制」。「機関紙を配布し、健診を紹介し、出張健診を企画し、地域の健康作りをすすめ、(医療生協の)経営をささえることで支部の財政が前進する。支部があるだけでは、支部活動援助金は出ない」
 さらに二〇〇八年度から「特定健診」が始まり、健診項目も減らされるなか、医療生協かわち野は自己負担を据え置いたまま健診項目を充実。健診お誘いの電 話かけをおこない、一年間で二万六〇〇〇人と対話、一一二〇人が予約しました。組合員による「健診紹介カード」も年間一五〇〇枚となり、過去最高に。
 吉田さんは最後にソーシャルキャピタル(社会における人間関係)の重要性を強調。
 「地域での信頼関係、互助などご近所力が、社会的な健康度を高める。楽しく、幸せなとりくみを通して社会生活の質を高めたい」

水俣病は終わってない 司法による解決を

ノーモア・ミナマタ国賠訴訟 大石利生さん

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「ノーモア・ミナマタ」をアピール(07年8月、熊本県・不知火海で=撮影・五味明憲)

 ノーモア・ミナマタ国賠訴訟原告団長の大石利生さんは、水俣健康友の会の会員でもあります。大石さんは、「水俣病は終わっていないことを、ぜひ知ってほしい」と力を込めました。
 大石さんは長年、手足が硬直して折れ曲がり、暴れるような「劇症型」の人たちを「水俣病だと信じ込んでいた」。自らが水俣病だと診断されたとき、「信じられず、医師にくってかかった」ほどでした。
 一見健康に見える大石さんは、慢性的な感覚麻痺に苦しんでいます。「食事も味や香りがわからない」「交通事故でガラスの破片が足の裏から甲まで突き抜け たときも痛みを感じなかった。あたりが暗かったので街灯で足を照らして、はじめて破片がささっているのがわかった」と話すと、会場がどよめきました。
 「五〇度のお湯につかっても熱いと感じない」。いっしょにお風呂に入った孫が急に泣き出し、驚いて走ってきた妻に「ゆで殺しにする気か」と叱られたことも。
 ことし七月、「水俣病特別措置法」が成立しました。措置法の本当のねらいは、新たな公害患者を認定せず、チッソという会社をなくして将来、被害者救済の道を閉ざしていくことにあります。
 「あくまでも裁判所の関与による、司法救済制度の実現をめざす」と話した大石さんが裁判への支援を訴えると、満場の拍手が応えました。

肥田舜太郎さんの記念講演から

被爆者が何の病気で死のうと、それは核兵器で殺されたのです

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肥田さん

 記念講演の肥田舜太郎さん(全日本民医連顧問)は日本被団協原爆被爆者中央相談所理事長を三〇年務め、六〇〇〇人を超す被爆者を診てきた医師です。
 戦後すぐつくった民主診療所の話、患者自身が自分の命の主人公になって病気とたたかえるようにと共同組織を大事に育ててきた話など、九二歳とは思えない 情熱で会場を沸かせました。圧巻だったのは「原爆許すまじ」の気迫です。

体内に入った放射性物質が

 「原爆の一番の残忍さは、なぜ殺されたのかわからない形で人間を殺していくということです。しかもそれは、直接原爆の下にいた人にだけ起こるのではなく、何日も後に身内をたずねて広島、長崎に入った人が、何年何十年も後に、がんや白血病や、肝臓病で死んでいく」
 「いまの医学では、どこがどのように傷ついて発病したのかはわからない。
 しかし原子爆弾の影響を受けた人間が何の病気で死のうと、その人は核兵器で殺された人たちです。そのことを私は六〇年経験してきました。しかも、いまは 原子力発電所という形で、日本中に放射線がばらまかれています」

新婚の夫を捜しに来た妻も

 肥田さんは軍医として派遣された広島で原爆にあいます。たまたま六キロ離れた村に往診に行っていて命拾い。原爆投下直後の惨事を目の当たりにしました。 「手のつけようがなく、死んでいく人を見ていただけだった。三日目から、けがややけどだけだった人が突然、発熱、出血、嘔吐などをおこして次々死んでいっ た。わけがわからず、恐怖を感じた」と。
 「さらに衝撃だったのが、後から市内に入った無傷の人が突然死んでいったことです。新婚の夫を捜しに、一週間後に島根から広島に入った女性がいた。市内 を捜し歩き、村に来て夫と奇跡的にめぐりあえた。ところが数日後、急に高熱を出し、翌日には肌に紫色の斑点が出て髪の毛が抜け、吐血して絶命したのです」

「被爆体験は軍事機密だ」と

 戦後、占領軍は「本人が被った被害も軍事機密だ。一切話してはいけない。医者も症状を書いたり相談したりしてはいけない。破ったら重罪だ」と被爆の実相を隠蔽しました。被爆者は「ぶらぶら病」とよばれる倦怠感に苦しみながら、差別を恐れ、長い沈黙を強いられたのです。
 肥田さんにとって転機となったのは被爆三〇年の一九七五年、日本原水協の代表団の一員として国連に行ったとき。医者を派遣し被爆者の病気を調べてほしい と要請すると「あなたの話は理解できない」といわれたのです。原爆投下の一カ月後、アメリカが「広島で死ぬべき人は全部死んだ。生き残った人には病人は一 人もいない」と発表し、日本政府もそれを認めていると。
 「驚きました。それから私は、本気になって原爆について訴え始めました」

米国いいなりの日本変えよう

 「当時アメリカには原爆実験で被ばくし、病気になって苦しんでいる兵隊が大勢いました。その人たちを診ていた研究者に出会い、初めて“内部被曝=体内に 入った放射線で被曝”ということを知ったのです。核兵器の残忍さの正体は放射線です。しかし日本政府は、放射線の影響でさまざまな病気がおきることをいま だに事実として認めていないのです」
 「最後にひとこといいたい。アメリカに要求されると、いわれたとおりやる。そんな情ない日本を根本的に直しましょう。私は九二歳。一年後にもう一度話を しろといわれても…(笑)。そこのところだけはちゃんとやってください」(拍手)

いつでも元気 2009.9 No.215