元気スペシャル “激戦地”ラマディーで何が? 泥沼のイラクで治安改善
「止まっていた時計が動き出した」と高遠さん
森住卓(写真家)
パスポートを手に、5年ぶりのイラク入国を喜ぶ高遠さん(4月21日) |
「事件以来止まっていた私の中の時計が、いま動き出した…」と高遠菜穂子さん。四月二一日、人質事件以来五年ぶりに、イラクへの入国を果たした瞬間の言葉だ。
「Welcomeお帰りなさい。おめでとう」
ヨルダン国境まで出迎えたカーシム・トゥルキさんたちが声をかけると、高遠さんの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
病院や学校の再建事業に
高遠さんは、二〇〇四年四月の人質事件で、日本政府とマスコミから異常なバッシングを受けた。しかし四カ月後には隣国ヨルダンからイラク支援を再開。こ れまでの支援総額は三七〇〇万円にのぼる。高遠さんがイラク報告会などし、寄せられた寄付だ。おもに、イラク西部アンバール州のラマディーやファルージャ で、病院や学校の再建事業に使われた。
カーシムさんは、ラマディーでの事業の責任者で、彼とともに出迎えてくれたサラーム・ガーフェルさんは、アンバール州「覚醒評議会」の南部地区代表である。今回のイラク訪問は、覚醒評議会の招待によって実現した。
国境からラマディーまでは砂漠のハイウエーを車で五時間だ。途中、羊の群れがのんびりと草をはんでいた。戦争前によく見かけた光景だった。
「最大の激戦地」だったが
高遠さんが50床のベッドを送ったラマディー母子病院 |
ラマディーに到着した夜、サラームさんが街を案内してくれた。アイスクリーム屋の店先では子どもたちが列を作り、商店やレストランが開いて、夜遅くまで市民が買い物や散策を楽しんでいた。
かつてここが、外国のNGO(非政府組織)やジャーナリストすら危険すぎると敬遠していた街なのかと疑ってしまうほどだ。治安は劇的に改善していた。街の中で米軍の姿はほとんど見かけない。
ラマディーはユーフラテス川の中州に開けた州都で、人口五〇万人。街にはたくさんのモスクがあり、スンニ派の人々が多く住む美しい町だった。
しかし二〇〇三年、米軍のイラク侵攻以降、「最大の激戦地」「スンニトライアングル」「アルカイダの巣窟」などと呼ばれて掃討作戦が続けられた。
米軍の「アルカイダ掃討作戦」で犠牲になるのはいつも一般市民だった。家族を殺された人々は米軍への憎悪を強め、報復を叫ぶアルカイダに簡単にとり込ま れてしまう。アルカイダは市民を巻き込み無差別に攻撃し、さらなる犠牲を生んだ。米兵の犠牲者も増え続けた。米軍のイラク占領は「泥沼」となった。
治安回復の立役者は
治安が改善し、路地にも子どもたちの歓声が |
そうしたなかラマディーで、なぜ、治安が回復したのか?
立役者は、〇六年九月に結成された「覚醒評議会」である。地元の部族長たちが立ち上がり、治安維持組織を作ったのだ。
「私たちの要求は、米軍の市内からの撤退、掃討作戦の中止、市民の不当逮捕の禁止、覚醒評議会に警察力を与える、などでした」とサラームさん。
米軍との交渉は部族社会の習わしに則り、丁重にもてなすことから始まった。交渉は一〇〇日に渡り、大詰めを迎えた段階で覚醒評議会は米軍にこう迫った。
「米軍が三カ月でラマディーの治安を回復するか、さもなければ我々に三日間の時間をくれ。我々の力で治安を回復してみせる、どちらを取る?」
〇七年春、米軍との画期的な和解が成立した。これ以上の犠牲を出したくないという住民のぎりぎりの選択が、米軍との協議を成功させたようだ。
数時間後、街から銃撃の音が消えた。住民は米軍には教えないような情報も部族内では話す。そのネットワークが力となって過激なアルカイダはたちどころに逮捕され、一掃されたのだ。
〇七年当時ブッシュ大統領は、米兵の増派によってイラクの治安は改善されたと盛んに宣伝していたが、真相は、イラク人自身の手による治安回復であった。
いま米軍は都市部から撤退を始めているが、ラマディー市の郊外の基地には五〇〇〇人の海兵隊が駐屯している。
イラクの安定にはまだまだ課題が
知られざる大虐殺
集団墓地になっていた子ども公園で祈る高遠さんとカーシムさん |
市内中心部の子ども公園は、墓地になっていた。累々と続くコンクリートのかけらやレンガの墓標には、二〇〇六年の日付と「殉教者」とだけ書かれたものが目立つ。身元不明のまま埋葬された市民だ。「赤ちゃん」と書かれた墓もあった。
〇六年四月、米軍は市外に通じる道路を封鎖し、「インクスポット作戦」と名づけた掃討作戦をおこなった。中心部をまず占拠し、インクの染みが広がるよう に制圧するという作戦だ。市民が「ハンティングロード」と呼ぶ道路には狙撃兵が陣取り、一〇〇〇人以上が犠牲になった。「米軍の攻撃は無差別だ。動くもの は見境なく撃たれた」と市民はいう。
道を封鎖され、遺体を墓地に運ぶことができず市内の広場に埋葬したのだが、墓はここだけで二〇〇〇以上あった。市内には同規模の墓地が数カ所あるというから、「インクスポット作戦」で一万人以上の市民が犠牲になったことになる。
「殺された人々に、私はなにも援助の手をさしのべられなかった。それが悔しく、申し訳ない。知らされなかった“虐殺の街ラマディー”」。高遠さんは、墓標の前でいつまでも手を合わせていた。
宗派対立は越えられるか?
アリ記者のアパートあたりは無惨に破壊されたままだ。銃撃の跡に放射線測定器を近づけると通常の3倍以上の放射線を出していた |
部族による治安維持組織は、各地に生まれつつあるという。「部族は、スンニとシーアの宗派をこえた組織だ。だから、宗派対立は乗り越えられると思う」とサラームさんは微笑む。だが、一路安定に向かうかといえば、そう単純ではない。
高遠さんは「確かに覚醒評議会の果たした役割は大きい」と評価しながらも、「覚醒評議会はラマディー以外の地域で強力なリーダーシップをとれていない。 将来のイラク社会への設計図を持っていない。まだ未知数だ」という。しかし、ズタズタに引き裂かれたイラク社会の統一のためには、部族の力は無視できな い。
「イラクには五十数部族あるといわれるが、そのほとんどでスンニとシーアが混在している。もっとも伝統的な部族社会の力を利用することは、いまのイラクにとって一番合理的でしょう」と話す。
帰国後の七月中旬、連日ラマディーで爆弾の爆発があると連絡が入った。覚醒評議会への揺さぶりが目的のようだ。薄氷の上を歩いているようなイラクの人々。安定のためには乗りこえなければならない課題が、まだまだ多い。
米軍の戦争犯罪を、命がけで記録したジャーナリストたち
イラクには、米軍が隠そうとしている戦争犯罪を、命がけで記録しているジャーナリストがいた。
■8回も逮捕・拷問された記者
アリ・マシュハダーニさん(40)はロイター通信やBBC(英国放送協会)と契約した地元のジャーナリストだ。
彼が住んでいた六階建てアパートの最上階の部屋の壁は、米軍戦車に砲撃され、大きな穴が空いていた。その壁の上にカメラを乗せて米軍を撮影しようとしたら、狙撃兵にレンズを真正面から打ち抜かれてしまったという。
さらに、米軍の作戦を撮影した写真やビデオテープは全部没収された。アリはこれまで八回も逮捕され、バグダッドの空港刑務所やアブグレイブ刑務所に入れられ、激しい拷問を受けた。米軍の戦争犯罪を告発し続ける彼は、米軍に逮捕されたことを誇りに思っているという。
■目を打ち抜かれた写真家
目を撃たれ、失明した写真家もいる。カリーム・ムシャラフ・アブドさん(52)は、マーケットに行く途中、狙撃兵に右側から撃たれ、両目を失った。明ら かに“目が命”のカメラマンを狙った攻撃だ。その後、家宅捜索に来た米軍は彼の撮影した写真を全部持って行ってしまった。
「アメリカは僕の目を返してほしい」とカリームさんは静かに訴えた。
■森住卓写真絵本「シリーズ核汚染の地球」は『楽園に降った死の灰』『ムスタファの村』『六本足の子牛』各一五〇〇円+税。新日本出版社発行
いつでも元気 2009.9 No.215
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