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いつでも元気

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特集1 シベリア抑留国賠訴訟 現代につづく国の棄民政策を問う

 アジア・太平洋戦争後、元日本兵らがソ連軍に連行され、労働力として酷使された「シベリア抑留」。極寒の地で、約六〇万人が重労 働を強制され、亡くなった人は六万人以上とも。その抑留体験者ら六〇人がいま、京都地裁に提訴し、国を訴えて裁判をたたかっています。シベリア抑留国家賠 償請求訴訟の原告団長、林明治さんをたずねました。

“私たちは国体護持の生けにえにされた”

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林明治さん

 なぜ抑留体験者は、日本政府を訴えているのでしょうか。
 「シベリア抑留といえば、寒さ、飢え、重労働の“三重苦”のイメージが先行しています。しかし私たちが労働力として酷使された責任は日本政府にある」
 こう語る、林明治さん(84歳、京都府向日市在住)。乙訓医療生協の組合員でもある林さん。おだやかな表情とは裏腹に、その言葉は鋭い。
 「『国体護持(天皇制を守ること)』のために、日本政府がソ連と取り引きして、私たちを生けにえにしたのです」

気がつくと隣で死んでいた

★「シベリア抑留」と呼ばれているが
収容所の数は実に2000カ所におよぶ。存在した場所も広範で、首都モスクワの近くにまで及んだという。元日本兵らは、まさにソ連の“インフラ整備”に差し出されたのだ。

 林さんは敗戦(一九四五年)を満州で迎えました。徴兵され、関東軍で暗号解読の任についていた 林さんは、東シベリアに抑留されました。マイナス三〇度~四〇度という極寒。「金属に素手で触れれば、皮膚がはがれてやけどのようになる」環境のもとで樹 木を伐採。道路工事などにも従事させられました。
 衛生状態が悪く、体にノミやシラミがたかっているのが当たり前。食事も「マッチ箱ほどの大きさの黒パンに、スープ一杯」という粗末なものでした。
 気がつくと仲間が死んでいたことも。
 「体がかゆいと思って目覚めたら、隣で仲間が死んでいました。人が死ぬと、その人についていたノミやシラミが生きている人へさーっと移るのです。すると 急に体がかゆくなる。もともと自分にたかっていた虫はかゆくないんです。これを『虫の知らせ』というのでしょうか」
 林さんが帰ってきたのは一九四九年。帰国後も苦悩は続きました。
 「シベリア帰りはアカ」とさげすまれました。舞鶴港に降り立つと待っていたのは警察。林さんを拘留し、帰宅した後も週に一回、家に来て動向を逐一問いた だしました。就職試験も軒並み落ち、父の鉄工所の手伝い、大学の研究員、シベリア抑留者団体の事務局長など、職を転々としました。日本政府は就職を支援す るどころか、差別し、監視したのです。

棄民しめす公文書

★ツルハシもささらぬ「永久凍土」
「永久凍土」シベリアでは大地が凍る。冬はツルハシでも歯が立たない。仲間が死んでも埋められず、「谷底に放り投げた」「雪に埋めた死体の顔が春になると浮かび上がってきた」との証言も。

 戦争で捕虜になった元兵士への賃金支払いは、母国の責任です(一九四九年、ジュネーブ条約)。ところが日本政府は東南アジアなど「南方」で米英の捕虜になった元日本兵に対しては賃金を支払いましたが、シベリア抑留体験者には補償していません。
 林さんは、シベリア抑留体験者に賃金を補償せよと働きかけ、〇二年から元抑留者とともに運動。〇四年~〇五年にかけて近畿六府県議会すべてで、国あての意見書が採択されるまでに至りました。
 採択を受けて林さんは「ロシア外交のキーマン」といわれる自民党・森喜朗元首相にも面会しました。ところが、答えは屈辱的なものでした。
 「賃金を補償してもらいたければ、意見書を採択した府県に払ってもらえばいいだろう。問題はもう終わっている、といわれました」と林さん。
 一九八八年、政府は「平和記念事業特別基金」を設立し、一〇万円の国債、銀杯を支給。“これで問題は解決した”というのが国の態度でした。
 そんなとき、一九九三年八月の共同通信社配信の記事を見つけました。一九四五年八月末、「大本営浅枝参謀」が作成した「関東軍方面停戦状況に関する実視報告」(一九四五年八月二六日)の内容を報じたものです。
 「内地に於ける食糧事情及思想経済事情より考ふるに規定方針通大陸方面に於ては在留邦人及武装解除後の軍人はソ連の庇護下に満鮮に土着せしめて生活を営む如くソ連側に依頼するを可とす」
 「満鮮に土着する者は日本国籍を離るるも支障なきものとす」
 兵士たちの処遇をソ連に委ね、日本国籍を失ってもかまわないというこの文書が、抑留時、「日本人であることを忘れろ」と教えられた体験と重なりました。 この文書は、崩壊後のソ連で見つかったものでした。日本政府はあらゆる公文書を、戦後、処分してしまったからです。
 林さんは文書の所在をつきとめ、訴訟を決意。半年かかって弁護士を探し、「棄兵、棄民政策による国家賠償をかち取る会」をつくって東奔西走。二〇〇七年一二月、京都地裁提訴へと踏み切りました。

高官は真っ先に逃げた

守るはずの住民も置き去り

★抑留体験者には朝鮮の人もいた
敗戦時、関東軍には「創氏改名」で日本人にさせられた朝鮮の人たちも。彼らもまたソ連軍に抑留された。韓国に帰りついた人たちは「アカ」「日本の協力者」とさげすまれ、二重の差別を受けた。

 国は裁判で「シベリア抑留問題は何十年も前の話だから時効だ」「戦争被害はみんなが受忍すべき。戦争は非常事態だったのだから仕方ない」などの態度に終始しています。
 「しかしいまは、DNA鑑定で『無期懲役』がえん罪とわかり、釈放される時代ですよ」と林さん。新しく事実が明らかになれば、それに従うべきだと強調。そもそも公文書を破棄し、棄民の事実を隠してきたのも日本政府自身です。
 裁判のなかで、敗戦直前の日本政府が「国体護持」のために、「労務提供」をソ連に申し出た経過もわかってきました。満州などにいた日本兵を「貴軍の経営 に協力せしめ其他は逐次内地に帰還せしめられ度いと存じます。右帰還迄の間に於きましては極力貴軍の経営に協力する如く御使い願い度いと思います」(注) という文書も明るみに出ました。
 かいらい政権をつくって「満州国」をでっちあげ、中国東北部を侵略した日本。その満州に日本軍を派遣したのは、居留民保護(住民保護)という建前でした。「満蒙開拓団」を募って植民をすすめたのはときの日本政府です。
 「それなのに敗戦になったとたん、関東軍や政府の高官は真っ先に金銀財宝を持って日本に逃げ帰り、兵士や住民は置き去りにされた。シベリア抑留も中国残留孤児もこうして生まれた」と林さん。シベリア抑留には、一般住民まで「労務提供」に動員されました。

棄民政策ただすチャンス

★いまも遺骨が極寒の地に
シベリア抑留では6万人以上が亡くなったといわれている。厚労省によれば、07年までに回収された遺骨は約1万8000人分にすぎない。いまなお多数の遺骨が極寒の地に眠っている。

 林さんは、「棄民政策はいまも変わっていない」と指摘します。
 「戦争を経験し、戦後の日本の復興をささえてきた年代の人たちを棄民しているのが、後期高齢者医療制度。派遣切りだって棄民です。仕事がなくなったら住居も失う。そんな政治がありますか?」

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林さんは病身を押して、棄民政策を正すために走り回っている

 「本当に日本が戦争を反省し、血のにじむような思いでアジアに対して戦後補償していれば、北朝鮮を攻撃していいなどという総理の発言も出てこないはず」とも。
 「国民を守る政策が日本はゼロ。本当に国民を守るなら、憲法九条を守り、国民の生活を守らなければ」
 裁判は六月一七日に結審しました。一〇月に京都地裁の判決が出る予定です。「(謝罪と補償を求める)世論が大きくならなければ、勝訴はない」という林さ んの目は、行く末を見据えます。
 「私たちが勝訴しても国は控訴するでしょう。裁判は長期化するかもしれない。それでも続ける」と林さん。
 「八〇歳を超えて裁判をたたかうのは、正直、体にこたえますよ。でも父は『晩成を期す』という言葉を私に遺しました。私は八〇歳を超えて裁判という仕事を与えられた。こんなチャンスはない」
 パーキンソン病を患う林さんですが、「一人でも話を聞いてくれる人がいれば駆けつけますよ」と表情はにこやかです。抑留生活に打ち克った人が持つ、強靱な精神力を垣間見るようでした。
文・多田重正記者
写真・豆塚猛

(注)関東軍総司令部、「ワシレフスキー元帥に対する報告」(一九四五年八月二九日)

「ダモイ(帰国)」とだまされて…

 吉祥院健康友の会役員の和田欣吾さん(83歳、京都市)も原告の一人。海軍に志願し、敗戦を千島列島最北端の占守島で迎え、その年の一〇月、ソ連軍が用意した船に。「ダモイ(帰国)」と聞いた和田さんは、翌朝だまされたことに気づきました。
 「太陽は東から昇る。日本に帰るなら南下しますから朝日は左舷から昇るはず。ところが目覚めると右舷から昇っていた」
 シベリア北方のマガダンに連行された後、船の積み荷おろしをさせられ、食事は「黒パン一切れに小魚一匹」。
 肺炎で倒れて入院したことも。しかし退院後も極寒の山間部で樹木伐採。宿舎は「テント」で暖房はストーブだけ。「作業後、宿舎に帰る途中で手足が凍傷に なる人も。鼻水やおしっこも凍った」。煉瓦づくり、道路工事など「あらゆる作業」をさせられ、帰国は敗戦から四年後、一九四九年一〇月でした。
 シベリア抑留が「国体護持」のためだったと知ったのは、戦後何十年も経ってから。「事実を知って驚いた」という和田さん。
 改憲の動きに「ふたたび戦争できる国にしてはならない」と。  
「兄も終戦間際の四月に沖縄で本土決戦の名の下に戦死した。あの戦争で三三〇万人の国民、アジアなどの二〇〇〇万人の人々が亡くなった。子や孫を惨禍にあわせないためにも裁判の支援をお願いしたい」

 いつでも元気 2009.8 No.214