元気スペシャル 元気ネットワーク 広島医療生協 被爆体験、受け継いで 被爆体験記『ピカに灼かれて』―証言を聞きとり
広島・長崎に原爆が投下されて今夏で六四年。被爆者の平均年齢は七五歳を超え、被爆当時の体験を語れる人は少なくなってきています。
広島医療生協では、原爆投下(一九四五年八月六日)の惨状を後世に伝え、平和への思いを引き継ぐため、毎年、二年目職員が被爆体験を聞きとり、体験記集「ピカに灼かれて」にまとめています。
積まれた死体の山 地獄のようだった
高齢化で一度は終刊に
八木さんの話に真剣に聞き入る3人(右から堀田さん、角野さん、大草さん) |
これまでに発行された「ピカに灼かれて」 |
広島医療生協は、広島共立病院が診療所だったころから被爆者医療にたずさわってきました。
「ピカに灼かれて」は、もともと広島医療生協の組合員でつくる「原爆被害者の会」(一九七四年発足)が、被爆体験記集として毎年発行していたものです。
ところが被爆者の高齢化で、続けていくことが困難に。被爆六〇年にあたる二〇〇五年を節目に、第二八集をもって一度は終刊になりました。
しかし、「体験を語り継ぐことをやめてはならない」と、翌年、同生協は「ピカに灼かれて パートII」として、体験記集の編集・製作を引き継ぎ、二年目職員の研修としてとりくむことにしたのです。
一瞬にしてみんな亡くなった
記者も聞きとりに同行しました。病棟勤務二年目の看護師三人組で、被爆体験者のご自宅へ。
爆心地から一・五キロほど離れた白島国民学校にいて被爆した八木義彦さん(75)は、当時五年生で一一歳。教室に鞄を置き、校庭へ遊びに出ようとした瞬間でした。ピカッと眩しく光ったかと思うと、爆風で一瞬にして校舎が崩れ、建物の下敷きになっていました。
奇跡的に助かり、瓦礫をかきわけ這いあがった八木さんが見たのは、あたり一面に散らばった学友たちの死体でした。原爆で数百名の児童が爆死、校舎はすべて焼失しました。
「原爆の威力は凄まじかった。服は破れ、肌は火傷でボロボロになっていた。たとえ息があっても言葉も出せず、ただ死を待つのみ。生き残ったのはわずかで、他は一瞬にして亡くなってしまった…。同級生でいま生きているのは、私一人だけでしょう」
負傷した体をひきずり、道なき道を歩き、自宅があった場所に辿り着くも、建物は全焼。ひとまず市北部にある母の実家に向かいましたが、数日待っても誰も帰ってきません。
なんとしても家族を捜し出したいと再び市の中心部へ。心当たりの場所へはすべて行き、瓦礫をかき分け、掘り返してみても、手がかりはつかめませんでした。八人家族だった八木さんですが、ただ一人無事だった三つ下の妹以外は、ついに見つかりませんでした。
「水をくれ」と泣き叫ぶ人
八木さんは地図を広げ、記録写真や資料などを次つぎに引っぱりだしながら、当時を語ります。三人は八木さんの話に引き込まれるように体を乗り出し、一言ひとことにうなずきながら聞きいります。
爆心地に近づくにつれ、死体が焼けた強烈な匂いが鼻をさす。川岸や町のいたるところに積まれた死体の山。皮膚がめくれあがり、肉を引きずって歩く人たち。「水をくれ、水をくれ…」と泣き叫ぶ人。
川には流木が浮かんでいるかのように大量の死体が浮かび、それでも全身を焼かれた人たちがあまりの熱さに耐えきれず、次々と川へ飛び込んでいきました。「本当に地獄のようだった」と八木さん。
結婚後も死産・早産が続き
両親や兄弟の遺体は、骨のひとかけらも見つかりませんでした。「家族の死を受け入れられたのはいつ頃ですか?」と、角野昌子さん(看護師)が問いかける と、「五〇回忌に、初めて碑に家族の名前を刻んだときかな。戦後五〇年たち、ひとつの節目としてようやくね。形見として手元に残ったのは数枚の写真くら い。すべてを失ったよ」と。
八木さんの体験談は戦後にも及びます。
「戦後はホントに苦労した。月謝が払えず中二で学校を中退した。それからは丁稚奉公で、自転車の修理や石炭運びなど、いろいろやりましたよ。
両親のよそゆきの着物が疎開先に少し残っていたので、それを売って米などの食べ物にかえて食いつないだ。まさに、一枚一枚皮をはぐような『タケノコ生 活』。スズメの卵も食べましたよ。食べていくのが精一杯、とにかく必死でした」
結婚後も子どもがなかなかできず、やっとの思いで一人を授かりました。「私たち夫婦はともに被爆者です。妻は、死産や早産が続き、医師にあきらめたほうがいいといわれた。きっとこれも被爆の後遺症でしょう」
八木さんの表情には、悔しさがにじみます。
「戦争なんかしたら、私のようにみじめな目にあう。いま戦争はいつ起きるかわからない、あなたたちも例外じゃない。
あと一〇年もすれば、ほとんどの被爆者がいなくなる。だからこそ、原爆があった事実を風化させることなく、みなさんたち若い世代に、私たち被爆者の声を継承してもらいたい。これが私の一番の願いです」
証言を聞き終えた三人は、八木さんの言葉を噛みしめました。
「『精一杯生きてきた』という、力強いひとことが印象に残りました。現在に至るまで計り知れない試練と苦労、葛藤を乗り越えてきたのだと痛感しました」と、堀田なつみさん(看護師)は胸を熱くしました。
若い世代に、私たち被爆者の声を継承してもらいたい
ギリギリのところでやっと
編集委員をつとめてきた志賀さん |
引き継がれた体験記集を「原爆被害者の会」の人たちはどのような思いで見ているのでしょうか。
これまで一〇数年にわたり同会で、被爆体験記集の編集にかかわってきた志賀笑子さん(80)は、「若い人たちが引き継いでいってくれることは本当にうれしい。ありがたいことだし、心強い」と笑みを浮かべます。
自らの手で編集していた当時を「とにかく大変でした。一〇〇人いれば一〇〇人の被爆体験があり、みんな違う。少ない人数で辞書片手に証言をまとめあげるのは大変な作業だった」と振り返ります。
「苦労もあり、思いが詰まった体験記だけに、二八号で最後、というときは寂しかったんですよ。でも、編集委員として一緒だった仲間が、次々と亡くなって いるのも事実。続けたくても続けられない。体力的にもギリギリのところで、やっとの思いでバトンを引き継いだという感じです」
真実を聞く機会は貴重
「自分ができることから行動したい」と市野さん |
先輩職員として、二年前にこの研修を経験した市野芙美子さん(事務)は、「証言してくれた方が時折、言葉を詰まらせて話す姿に私も涙が。『核兵器をなくしてほしい』という強い言葉が印象的だった」と、振り返ります。
証言聞きとりの体験をしてから、「外に目が向くようになった」と市野さん。「平和をかたちにしていくのは難しいけれど、自分ができることから行動してい きたい。被爆者から真実を聞く機会は貴重。ぜひ生の証言を聞いてもらいたい」と、後輩にエールを送ります。
長年、被爆者医療にとりくんできた広島共立病院の元院長・青木克明医師(現広島医療生協副理事長、広島共立病院健診センター長)も、「この研修(被爆体 験の聞きとり)は、体験記の編集だけにとどまらず、患者さんに向きあうときの『目と構え』を身につけるいい経験にもなるでしょう」と。
「当院では二年前から、原爆症・相談外来を設け、原爆症認定訴訟の支援にも力を入れてきました。外来で被爆者の方に会ったときに、あたたかく声をかけ、 援助できる人になってほしい。被爆者の声を直接聞くことから次の行動がはじまる。この経験が医療人として成長していくうえで、貴重な財産になるでしょう」 と、青木医師は期待します。
『ピカに灼かれて』英訳をオバマ大統領に
被爆の被害は続いている
いま世界は動き始めています。
四月にプラハで核兵器廃絶の演説をしたアメリカのオバマ大統領。広島医療生協はオバマ大統領にも「ピカに灼かれて」を翻訳して贈ることを決めました。国 連や核保有国の首脳、八月に広島・長崎で開催される原水爆禁止世界大会の海外代表にも渡す予定です。
「たくさん普及して、ぜひ多くの人に読んでもらいたい」と、志賀さん。「被爆は六〇年前のことじゃない。被爆による被害はいまも続いています。だから私たちの『ピカに灼かれて』を伝えていかなきゃいけない」
証言を聞いた大草弘貴さん(看護師)は、「言葉の重みを肌で感じた。『原爆の悲惨さを継承してほしい』という被爆者の願い。私たち若い世代が貴重な証言 をしっかり引き継ぐことで、平和への思いを伝えていきたい」と語っていました。
文・井ノ口創記者/写真・豆塚猛
■被爆体験記「ピカに灼かれて」(第28集・終刊号)を抽選で5名にさしあげます。巻末の読者カードに「記事の感想」と「ピカに灼かれて・希望」と書き、お送りください(応募締め切り8月15日消印有効)。当選者の発表は発送をもってかえさせていただきます。 |
いつでも元気 2009.8 No.214