わくわくてい談 われら青春の時 「命は平等、誰にも同じ手当をしたい」 迷いながら悩みながら理想を追求した 民医連の先輩たち
佐藤貴美子さん 作家。電電公社(現NTT)に43年勤務。『女が死と向き合う時』『がんを味わう旅』など闘病の記録も |
児玉房子さん ガラス絵作家。佐藤貴美子さんとの共同制作は『母さんの樹』『父さんのシルクロード』に続き3作目 |
長瀬文雄さん 全日本民医連事務局長 |
「綱領」論議のさなか連載小説で
三月中旬まで半年間「しんぶん赤旗」に連載された小説「われら青春の時」。民 医連草創期の若者たちが主人公で、困難な生活をしている人たちに向き合い、地域の人と心を通わせて民主診療所をつくっていく物語。作者の佐藤貴美子さん、 挿絵の児玉房子さんと、全日本民医連の長瀬文雄事務局長が話し合いました。
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長瀬 毎日わくわくして読みました。舞台は五〇数年前ですが、テーマは過去の話ではない、いまの時代そのものですね。
じつはいま、民医連の「綱領」を、半世紀ぶりに改定しようという論議をしています。綱領は民医連の憲法、生命力です。いまの時代にあった、わかりやすい ものにしていきたい。チェンジでなくバージョンアップ。そのためにも、民医連のルーツや、先輩たちがどんな思いで無差別・平等の医療をしてきたかを実感し て、職員には自分の仕事をもっと好きになってほしい。組合員さん、友の会員さんにも民医連の歴史を学び、論議に加わってほしいと大運動をしているのです。
ですからまさにタイムリーな小説でした。挿絵と文章がぴったりでしたね。
児玉 原稿、真っ先に私が読むのですが、描いていてとてもおもしろかったです。
佐藤 ついでに、この人物像はおかしいとか、ちょっとふくらませろとか、すごく乱暴に書き込んでくるの(笑い)。そうやってつくった二人の共同制作です。
長瀬 モデルはあるけど、同時に、フィクションという創造の世界ですね。
佐藤 はい、モデルも一人の人物に三人くらいの人が入っている。だからいろんな人がみんな、これは自分だって思ってくれたら、幸せです。
患者の人生に寄り添って
長瀬 そういう創造力というのは、どこからわいてくるのでしょう。
佐藤 民医連の医師たちへの思いを深めてきたからだと思いま す。初めて人間的な魅力にふれたのは二二年前、『桜子』という、電話局の仲間の職業病の患者たちを書いたときです。一〇年も病名がつかず、怠け病だのアカ の病気だのって攻撃され、苦しんでいる患者が七〇〇〇人もいたのです。それが頸肩腕障害という職業病だということを発見してくれたのが民医連の医師なので す。
そのとき、「受ける治療とする治療」という言葉に出会ったの。医者任せでなく、患者自身がする治療。びっくりしたし、深く感動しました。しかも先生たち だけでなく、看護師さんや技術者などがいっしょになって患者と向きあい、両方で練り合う。そういうことって、ますます大事になってくると思うの。
長瀬 民医連のある若手医師が「学会では心筋梗塞の発症のしく みとかの研究はあるけど、労働時間との関係などはほとんどない」と。調べてみると、労働時間が長いほど心筋梗塞の比率が高いことがわかった。これは、民医 連がつくりあげてきた「その人の生活と労働の場から病気をとらえる」という理念にもとづく視点ですね。頸肩腕障害だって見た目には…。
佐藤 五体満足で。
長瀬 でも同じ労働ばかりさせられたら誰でも体を壊す。そう考え、診断がつく前から治療を始め、心のケアもしていく。
佐藤 患者の人生に寄り添ってくれたの。
児玉 私は弟が進行性筋萎縮症で二一歳で亡くなったのですが、 東京民医連の先生が家まで往診に来てくれて。もう四〇年も前です。それ以来、父も母も診ていただいてます。父が八三歳くらいでタバコをすごく吸っていた ら、その診療所の先生に「そんなにタバコを吸ってたら、死ぬときに苦しいよ」といわれました。そうしたら父が、次の日からタバコをぴたっとやめたの。よく いってくださったと思って。そこまでいう先生って、普通いないでしょ。いま九六なのですが、すごく元気なのですよ。母も九一歳で。
佐藤 金もうけや自分のことだけを考えてる人なら、いえない言葉だよね。
児玉 看護師さんには「先生そんなこといって」とたしなめられてたけど、私は感激しました。この先生は本物だって。
全日本民医連綱領(1961年10月29日改定) |
無産者診療所の歴史うけつぎ
長瀬 大阪のJR吹田駅近くに「三島無産者診療所跡」という碑があります。大阪で二番目にできた無産者診療所です。
一九三一年、京大を出たての、二六歳の加藤虎之助さんという医者が所長になった。まさに「われら…」の和子さんです。診察室に寝泊まりして、弾圧にめげ ず献身的な活動をされましたが治安維持法で逮捕され、診療所はしばらくして閉鎖された。しかし太平洋戦争に突入する一九四一年の四月までに一病院二三診療 所ができていたんですよ。その一病院が、青木文次先生がされた名古屋の病院です。
佐藤 そうなんですか。
長瀬 あと二〇の県に準備会ができた。当時、医者といったら特 権階級ですよね。その人たちが、貧しい人のところに飛び込んでいった。戦後すぐ、星崎診療所(小説では星浜診療所)はじめ、次々、民診ができましたが、そ れは各地で、愛知でいえば青木先生らの、戦前からの歴史があったからだなと、つくづく思いますね。
児玉 私、一番感動したのは、青木文次さんの話なのです。私は いま宮沢賢治の童話の絵を描いているのですが、一九三三年というのは賢治が亡くなった年なのです。小林多喜二が虐殺された年で、吉野作造とか進歩的な民主 主義者が多く死んだ年です。だから私はだいたいこの年に、戦前の民主主義は終わったんだと思っていたんです。ところが、その一九三三年に、青木文治さんは 民診をつくるために立ち上がったという。すごいことだな、と感動しました。
読者から「勇気がわいた」 「ワクワクする」と…
幅広い人たちと手を結んで
長瀬 勇気がわきますよね。その一九三三年に、無産者中央 病院を東京につくろうという設立趣意書が書かれているんですよ。呼びかけ人は、秋田雨雀、宮本百合子、三木清、徳永直、江口渙、長谷川如是閑、大宅壮 一…、当時の進歩的な知識人、そうそうたる顔ぶれです。じつに幅広い人たちによって支えられていた。
佐藤 「九条の会」みたいねえ。
長瀬 そうなんです。いままた、命と人権をまもる立場から、本 当に幅広い活動が広がっています。民医連自身、日本の医療のなかで約二%のシェアを占め、介護分野でいうともっと大きな役割を担っています。綱領改定のひ とつの注目点が、ここなのです。現在の綱領の後文には「医療戦線を統一し…民主勢力と手を結んで活動する」とあるのですが、六〇年安保のころのこの感じ と、いまはちょっと違う。もっと「開かれた民医連」として、多くの人たちと広く手をつなごうと。
佐藤 時代を拓いていくための大事なことですね。
和子さんたちも、良心的な、骨のある先生たちから、人間的な豊かさを受け継いでいます。たとえば和子が診療所の所長になるのを決意するとき、恩師に「な るならば大物になりなさい」といわれる。あれも本当の話なのです。「大物になりなさい。でなければ消されてしまう」と。
医学生の森豊も、自分は気が小さい、自分のような者が大胆に手術する外科医になれるだろうかと悩んだとき、外科の先生が「君のような人こそ外科医になってほしい」と。「自分の結んだ糸の一本一本が苦にならないような人は外科医になってはいかん」と励まされる。
長瀬 小説の最初に大須事件が出てきます。デモ隊に警察が発砲 し、在日朝鮮人学校の高校生が殺される。医学生たちが彼の遺体を守って名大の解剖学教室まで運び込む、あの緊迫感はすごかった。そして当直の医師、それか ら電話を受けて解剖をひきうけた助教授。決して活動家などではない人たちが助けてくれる。
佐藤 一途な学生たちに共感して、自分のいいところを出しちゃうのね。
児玉 青春の一途さ、まっすぐなところに、おとながちゃんと感動する。でも若者が来なければ、やっぱり社会に流されていくんだと思うの。若さって、人の心をたたく、すごい力を持っていると思う。
長瀬 その、解剖をされた先生の名前はずっと明かされなかったそうですね。
佐藤 秘匿したと、誰に対しても。だから誰も知らない。知っていたのは亡くなられた加藤昭治先生だけで、僕がお墓の中へ持っていきますといわれたのです。
長瀬 いや、それもすごいことですね。二一、二の青年たちが。もし名前が出たら、大須事件の関係者として起訴されたかもしれない。その先生の人生そのものを守り通したというのはすごいですね。
佐藤 そうねえ。ほんとうにそうだわ。
人は事実にふれて変わる
長瀬 事実にふれることによって、人は変わるし変えられる。こんな思いを強くしています。民医連の若い職員でも、たとえば派遣切りにあう青年を見て、やっぱり自己責任だ、努力が足りなかったのでは…と思う人もたくさんいる。
児玉 マスコミや世論の多くが、まだまだそうですものね。
長瀬 いま、学生の自主的な運動というのはかなり弱くなって、 大学でも管理、管理でしょう。そういうなかで育ってきた青年が民医連に就職するわけです。だけど患者さんの家に行ってみると、真冬に氷点下の部屋で服を五 枚も六枚も着て暮らしている人がいる。年金暮らしで一日一食しかまともに食べていないとか。そういう現実を見て変わるんですね。
その意味では、当時、大学に行けた学生は、きっといいところの人たちだと思うけど、現実を目の当たりにして変わっていく。あそこなんてワクワクしますよ ね。殺し文句があるでしょう、「お上が無料でくれる権利は何ひとつありません」。一番いいたかったことの一つでしょう。
佐藤 私たちはずっとそう思ってたたかい続けてきたから。職場で産前産後休暇、生理休暇、育児時間。全部、たたかいとって、働きながら子どもを育てて、しかも小説まで書いてきたのだから(笑い)。それはやっぱり労働組合で団結した力ですよ、当時の。安保闘争の後の。
長瀬 一年生が、三井化学の工場廃液で汚染された部落の実態を知り、和子先生や大学の医師たちと一緒に住民検診をして圧倒的に世論を変えていく。圧巻です。
佐藤 これは、舞台は愛知だけど愛知の話ではない。自分たちの話だという声が、日本中から来ました。
長瀬 熊本民医連の水俣病など、各地にたたかいがありますから。
児玉 あちこちの民主診療所が育ってきたころの話をまとめてもおもしろそう。
長瀬 ええ、青年職員が先輩の話を聞いたり、自分たちのルーツを探ってね。
佐藤 その作業がやっぱり心の栄養になると思う。若い人たちの。
みんな迷いながら出発した
長瀬 では若い人へ伝えたいことを…。
佐藤 自信なんて一つもないけれど、民医連の先輩たちは、「命 は平等なんだ、誰に対しても同じ手当をしたい」って、そういう理想を追求してきた。最初から確信があったわけじゃない。迷いながら、みんなそうやって出発 したんだということを伝えたい。いまは堂々たる医師も、それは到達なんですね。
豊も注射を間違えちゃって、自分はもうダメだっていうような、そういう経験を踏みながら成長したんです。
児玉 医者も全部わかって診るんじゃないんだ、やっぱり学びな がらいくんだ、と思いましたね。それが力になるのだなと。私も今回、医者の世界なんか描けるだろうかって。聴診器一つ、その時代の形などわからないわけで しょう。それでも思い切って進むと。若い方にもぜひ思い切ってやってほしいと思いました。
長瀬 六月には共同組織活動交流集会もあり、共同組織の皆さんにも『われら青春の時』を大いに読んでいただき、「無差別、平等」をかたくなに貫こうとする民医連の未来について、考える機会にしたいと思います。 写真・酒井猛
■次号から「学ぼう綱領」を連載します。
全日本民医連新綱領(改定草案)
~いつでも、 どこでも、 だれもが、 安心できる医療と福祉をめざして~
2008年1月19日 全日本民医連第37期第24回理事会
わたしたちの歩みと社会的使命
戦後の飢餓と貧困、伝染病が蔓延するなか、医療に恵まれない労働者、農民、地域の人びとと医療従事者が手をたずさえ、民主診療所を各地につくりました。 全日本民主医療機関連合会は、これらの連合体として1953年に結成されました。
わたしたちは、働くひとびとの医療機関として、無差別・平等の医療・福祉を追求し、総合的な社会保障制度の確立と平和・民主主義の実現のために活動してきました。
また、疾病の背景にある生活と労働を捉えることを重視し、公害・環境問題、労災職業病、薬害など時々の社会問題にも積極的にとりくんできました。
わたしたちは、医療・福祉の専門職として、友の会会員や医療生協組合員など共同組織の仲間とともに非営利・協同の事業をおこないます。
わたしたちは、日本国憲法の理念を高くかかげ、すべての国民がひとしく人間として尊重される社会の実現をめざします。そのために、日本社会の中でもっと も困難な状態におかれている人びとの命と人権をまもる立場から、医療・社会保障の民主的変革をめざします。
わたしたちの目標
一.わたしたちは、患者・利用者・住民との共同の営みをすすめ、科学技術の進歩に学び、人権と安全性を重視し、無差別・平等の医療・福祉をおこないます。
一.わたしたちは、地域・職域の人びとの健康をまもり、安心して住みつづけられるまちづくりをすすめます。
一.わたしたちは、科学的管理と民主的な運営をおこない、地域の財産である事業所を守り、職員の生活と権利の向上につとめます。
一.わたしたちは、科学とヒューマニズムにもとづき、地域とともに歩む専門職の育成をすすめます。
一.わたしたちは、憲法が保障する基本的人権を実現するために、国の責務と企業の社会的責任による総合的な社会保障制度の実現をめざします。
一.わたしたちは、人類の生命と健康、環境を破壊する一切の戦争政策に反対し、核兵器廃絶をめざします。
この社会的使命と目標の実現のために、共同組織とともに、多くの個人・団体との連帯と共同を強め、国際交流を重視し、事業と運動をすすめます。
いつでも元気 2009.7 No.213