“今ようやく声を上げられた” 「ノーモア・ミナマタ」訴訟、1380人が原告に 不知火海の離島・御所浦島でも被害が
国の責任を明確に認めた水俣病関西訴訟最高裁判決から約三年。水俣病の認定を求めて新たに申請する人が約五三〇〇人にのぼり、国が新設した新保健 手帳(医療費自己負担分が減免される)保有者は一万人をこえました。水俣病の最終的な解決を求めて一昨年提訴されたノーモア・ミナマタ訴訟には、一三八〇 人が原告として立ち上がっています。
八月二五~二六日、全国から約一三〇人が集まって、被害の実態を知る「ミナマタ現地調査」が開催されました。
島民3600人中3000人
今回の調査は、水俣市から約一五礰神離れた、不知火海に浮かぶ御所浦島を中心におこなわれました。島に渡った参加者たちは、島の最高峰である標高四四二神の烏峠に登って海を見渡しながら、漁師さんたちの説明を聞きました。
「不知火海は宝の海といわれ、タイでもタチウオでもイワシでもいっぱいおったとです。この御所浦島の沖は不知火海でもいちばん深くて、最高の漁場だった です。一九六〇年(昭和35)ごろから魚がプカプカと浮き始めて、みんなで分けて食べよった。それが、おかしか出来事の始まりじゃったとです」
そう語る越田盛幸さん(64)は、島の不知火患者会の世話人。一九五八年(昭和33)に中学を出て、漁師として働き出しました。水俣病の騒ぎが拡大する のを恐れたチッソが、排水口を湾内から水俣川河口に付け替えた時期です。汚染水が一気に不知火海全体に広がった、といわれるときと一致します。
御所浦出身で水俣市議会議員の野中重男さんが説明を続けます。
「九二〇PPMという毛髪水銀最高値を記録した人は、この御所浦に住んでいました。現在、御所浦の住民約三六〇〇人のうち、医療手帳などの受給者はほぼ 三〇〇〇人。ノーモア・ミナマタ訴訟の原告も四〇〇人ほど。水俣から離れていても、島全体が有機水銀で汚染されたといっても過言ではないのです」
今度こそ、本当に解決を
竹部良男さん(63)は御所浦生まれの漁師。中学卒業後、大阪に出稼ぎにいっていたころ、水俣病の騒ぎで島の魚が売れなくなり、父親に呼び戻されて一本釣りの漁を手伝い始めました。
「おやじはまだ五〇歳前だったけど、手先がしびれて感覚がなくなり、漁をするのが危険なようになってきたんです」
やがて、父親の長吉さんは水俣病第三次訴訟に加わり、原告団副団長に。すると、「病気でもないのに金目当てだ」というような悪口や嫌がらせを浴びるよう になりました。「私の家内など、買い物にいくたびに陰口を聞かされ、私も本当に嫌な気持ちでした」
けれども第三次訴訟原告団などの力で一九九六年(平成8)に水俣病の政治解決がはかられると、悪口をいっていた人たちの多くも救済金を申請しました。
「本当はみんな水俣病で不安をかかえ、そのはけ口が、おやじに対する悪口じゃったとようやくわかったとですよ」
竹部さん自身も、四〇代のころから手先がつり始め、漁もままならなくなりました。申請すれば水俣病と認められるとわかっていたが、四人の娘のことを考えると声をあげられなかったと語ります。
「でも、この一〇年で娘はみな嫁にいきよりました。今度、機会があったら申請したいと思うとっ た矢先に、訴訟が起こった。今度こそ、本当に水俣病を解決してもらいたい。そういう思いで娘らに相談すると、お父さんのやりたいようにしたらとゆうてくれ た。それで、私も原告に名乗りをあげたとですよ」
現地調査二日目、参加者と現地の人たちは、漁船に「ノーモア・ミナマタ」の旗を掲げて海上アピールをおこないました。
政府与党はいま、水俣病の認定基準を改めないまま、きわめて少額の補償金による「解決」を画策しています。すべての被害者の救済を求める原告たちの運動は、大きな正念場にさしかかっています。
文・矢吹紀人/写真・五味明憲
いつでも元気 2007.11 No.193
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