特集1 民医連の仲間に命救われた 生存権守る「月間」のとりくみから
自殺や孤独死など、胸痛むニュースが続きます。民医連は今年六~七月を「高齢者の生活を守れ、生活保護の拡充をめざした強化月 間」に位置づけました。期間を前後し、消えそうになる命を救う経験も。誰もが人間らしく生きられる社会を、と願い「地域の最後のよりどころに」と奮闘する 仲間を石川と富山で取材しました。
石川
「死ぬな!」友の会メンバーがチームプレイで男性救う
「あの晩、声をかけられていなかったら…」Aさん(58)は何度も口にしました。路上に止めた軽自動車の中で生活していた男性です。自殺寸前だったところを金沢北健康友の会にめぐりあいました。
Aさんに声をかけたのは、同友の会会員で地域の町会長をしている吉村正夫さん・美代枝さん夫妻。四月末の土曜日、「車で寝起きしている人がいる」と、住 民に知らされ現場にいきました。車窓をノックするも、「構わんといてくれ。身の処し方は決めている」と拒まれました。
「…自殺する気や」Aさんの決意は吉村さんたちにも伝わりました。二人の脳裏を、北九州で昨年餓死した男性の事件がかすめました。少し開いた窓のすき間 に正夫さんが腕をこじ入れ、ロックされていたドアを開け、「何とかする、役所が開く月曜九時まで待ってくれ。絶対早まったらダメやぞ!」小さな車の中に体 を差し入れ、必死で話しかけました。
突然の解雇で住居も失って
Aさんとの会話から事情がわかってきました。年末、勤めていた運送会社を突然解雇に。事故も起こさず勤務態度も良いAさんには納得できませんでしたが、 会社は「もっと若い人を雇いたいから」と、有無をいわせませんでした。「月二五日働けば一八万円」というふれこみで始めた仕事でしたが、二五日働ける月は 少なく、蓄えもわずかでした。
新しい職を求めてハローワークに通ったものの、年末年始の求人は特に少なく、蓄えはすぐ尽き、家賃が払えず三月にはアパートを出ました。車検切れの車に 家財道具を積めるだけ積み、それらを売りながら食いつなぎました。夜は布団にくるまっても寒く、焼酎を少しずつ飲んでいましたが、なくなると眠れません。 ラーメンをつくっていたカセットコンロのガスボンベもすぐ尽きました。人目も気になりました。毎日早朝を見計らい、お湯の出る公衆トイレまで歩き、顔を洗 い体を拭いていました。
仕事も探し続けました。市内を歩いて目に付いた建設現場を訪ねては仕事の口がないか聞き、コンビニエンスストアにある無料の求人広告誌をみては連絡しま した。しかしまず年齢が障害に。「雇ってもいい」という会社がやっと見つかっても、家がないことを正直に話すと断られました。しかし「家さえあれば働け る」と希望をもち、二時間歩いて市役所へ。
「公営住宅、ホームレス用の寮でもいい、入れないか」と相談しましたが、役所の返答は「その年齢なら就職先をみつけ、会社に住居を提供してもらえばいい」でした。「まだ若い」といわれても、住所不定の五八歳に仕事はみつかりません。
勤め先が次々と倒産する不運のなかでも、少ない収入から税金も納め、誰にも迷惑をかけず生きてきました。最後の頼みの綱だと思っていた役所に追い返され、「この世を去るしかない」と考えました。
路上生活の間に、以前からあったヘルニアがだんだん悪化し、膨れたお腹は押さえても戻らず、痛みました。下痢が続き、コンビニのトイレに着くまで間に合 わず、換えの下着もなくなりました。荷物の奥にあった海水パンツをはいていました。お金になりそうなものも売り尽くし、かき餅を少しずつ食べていました。
「あした、最後に残った腕時計を売って酒を飲み、決行(自殺)しよう」と思って、朝のうちに山に首を吊るロープの準備をしてきた、というのです。
必死で話しかけた
「たいへんな人がおる!」という吉村さんの連絡で、同友の会の鍋野正道会長も急行しました。「いのちとくらしを守ろう、と活動している私たちが、目の前のAさんを救えなかったら、と必死でした」と、美代枝さんは振り返ります。
「何したってアカン」と、なかなか心を開かないAさんに、三人は「こうなったのはAさん個人の責任でない、こんな生きにくい社会は変えたい。だから良い議員を増やしたい」とも話しました。翌日が市議会議員選挙の投票日でした。
「あんた方、あの人と同じ考えか?」Aさんは反応しました。数週間前の県議選中に偶然聞いたある候補者の演説が印象に残っていたからです。高すぎる国保 料が払えず、保険証をとりあげられて亡くなった人がいる、そんな犠牲を出す政治とたたかいたい、と訴える人でした。「自分のような境遇の人が他にもおる。 それを助けたいというこんな人に、議員になってほしい」と考えていたのです。
「まだ私にも一票ある。明日投票に行く」と、Aさんは約束しました。
また、すぐ鍋野さんたちは、ご飯やお茶、焼きたての餃子などを差し入れました。食器も使い捨て容器でなく瀬戸物を選びました。「返して」と頼んで、Aさんから死にたい気持ちを遠ざけよう、と。
「泣きながら食べた温かい餃子のおいしさといったら。最初『この場所から出て行け』といわれると思ったが、鍋野さんらはかがみこんで『絶対助ける』と話 しかけてくれた。信じられない(ほどひどい)ことが多い人生だったが、こんな人たちもいた」と、Aさん。あの夜自分が話したことはあまり覚えていません。 「長年一人の生活で、会話をしなかったから」と。
月曜朝九時、約束通りAさんに迎えがきて城北病院へ。SWの河合優さんと、前日の選挙で市議に返り咲いた森尾嘉昭さん(日本共産党)とともに市役所に赴き、生活保護を申請。「なぜここまで放っておいた」と医師がいうほど悪化していたヘルニアも、入院・手術で治療へ。
福祉行政の改善を
「窓口にはAさんが相談に行った記録さえありませんでした」と森尾市議。 「昨年春、厚労省が出した『生活保護適正化の手引き』により、六五歳未満の 者は働ける、と生活保護窓口の対応が強まり、申請拒否や打ち切りの口実にされています。生存権を保障した憲法二五条と生活保護法があるにも関わらず、福祉 行政は無法地帯に近い。おかしいのは担当職員の人間性ではなく、行政の方向性です。色々な相談事例を通じて福祉行政を改善させる運動が大切だと思います」
再起に向けて歩むAさんは語りました。 「自分のような境遇の人は多くいるはず。自殺・孤独死…亡くなった人から事情は聞けないが、私もあの晩、友の会 のノックがなければその一人だった…。皆さんの一員に加わって、これからはそんな人たちの所に行って『私も同じやったんや』と励まし、少しでも力になりた い。そのためにもがんばって生きたい」
診療所に助けられ いま、人生でいちばん幸せ
富山
富山診療所 毎月25日を「何でも相談の日」に
富山では、職員が。富山診療所では、毎月二五日が「なんでも相談の日」です。他県の民医連の相 談活動を『民医連新聞』などで知り、「できることからやろう」と始めてまもなく二年に。生活困難などで、医療にかかれない人を中心に対応してきました。長 年、医療・福祉相談に携わってきた富山民医連の中山雅之事務局次長も市役所などに同行します。
同県は、生活保護率は全国最低、自殺率は全国上位です。
民医連の「月間」の六、七月、関わった相談をまとめてみると…
■協立病院医事課の窓口未収者の自宅訪問をきっかけに病気療養中の四〇代男性の相談に。市営住宅の明け渡し通知を受け取り、ホームレス寸前だった。生活保護受給と市営住宅にひき続き居住に。
■救急搬送された四〇代男性。保険証がなく、糖尿病の自己注射を中断、食事もとれず動けないでいた。生活保護へ。
■六〇代の被爆者、入院中は被爆医療で医療費無料だったが、無年金で、退院後生活できない。月三万三八〇〇円の被爆者管理健康手当だけが収入。生活保護へ。
■六〇代の人工透析患者、生活困難で、生活保護へ。
「相談活動は日常的にやっていますが、内容を改めて見てみると、深刻な人が増えました。忙しいけど、つづけてきてよかった」と、事務長の宮腰幸子さん。
「市役所に同行して、保護行政の冷たさを実感します。面接するのは人が行き来するオープンカウンター、窓口職員の強い口調…。私たちは相談にのる時も、 患者さんの生活の場に出かけるということに、こだわっています。『何かあったら、富山診療所に相談を』と地域でいわれるようになりたい」
◇
診療所が支えた一人・Bさん(72)を訪問すると「はい、食事前にお口の体操」と、班会でハリのある声をあげています。
夫を早くに亡くし、年金保険料を一五年しかかけていなかったため、無年金です。飲食店を開いていましたが、心筋梗塞で倒れました。その後しばらく知人の 援助を受けていましたが、その知人も年金暮らしになり、援助できなくなりました。「自分の身は自分で始末しよう」と思い詰めていた時、富山医療生協への加 入の誘いに近所の組合員さんが訪問、相談へつながりました。
「おとろしくて行けなかった役所にもいっしょに行ってくれた。引っ越しが必要だったのを、中山さんと診療所の職員さん二人、雨の中助けに来てくれた。あ りがたくて涙が出た。子どものころに父親が長患いして亡くなり、小学四年までしか学校にも行けなかった。いまが一番幸せ、一二〇歳まで生きたい」と、Bさ ん。格段に明るく元気になりました。
「Bさんは制度に支えられているから、『長生きしたい』と思えるんです。生活保護を受け、デイサービスに通い、独り暮らしで持病があっても、往診が入り、緊急通報電話が使えます。医療生協の組合員さんの出入りもある」と中山さん。
「私たちが関われるのは、地域で起こっていることの氷山の一角だし、本当のゴールは生活保護ではないのです。政治が『福祉の心』を忘れとるから、現場から発信していきたいと思います」
写真と文・木下直子記者
いつでも元気 2007.10 No.192