きれいな空気が吸いたい 東京大気汚染公害裁判に願い託して
100慢署名で勝利判決を 「足立健康友の会」が支援の輪
東京高裁前で支援を訴える初山さん(右=10月4日) |
「大気汚染被害者が安心して受診でき、人並みの生活ができるように、国と自動車メーカーの責任で新 しい救済制度を作らせること、それが私の願いです」―東京大気汚染公害裁判・二次原告の初山彰一さん(56)は、「足立健康友の会」の会員です。九月上旬 から一カ月続いた東京地裁への要請行動に、携帯酸素ボンベを抱えながら参加してきました。
一九八七年、三八歳の時、初山さんは、突然息ができない発作に襲われます。
「初めは風邪かと思っていました。仕事は休めず、一年ほど近所の医者にかかっていたのです。ひどい発作がでて病院で検査をすると、肺は真っ白。慢性気管 支炎の末期といわれました。もう苦しくって、命を断ちたいほどでした」
墨田区向島で従業員三〇人ほどのライターオイル製造業を継ぎ、二〇歳の頃から二〇年近く、毎日、車で商品配達と営業に出かけていました。その頃、道路は スモッグに覆われ、大型トラックの後ろでは、ものすごい排ガスを浴びました。
“家族離散”となって
入退院を繰り返す初山さんは、やがて仕事もできなくなり、会社も解散。貯えも消え、それがもとで夫婦別れします。
「中学一年の娘と小学五年の息子は、“お父さんについて行きたい”と泣きましたが、私には子どもを養うことができません。発作で倒れたら、だれが子ども の面倒を見るのでしょう。連れて行くとは、とてもいえませんでした」
救済制度(注)があることさえ知らず、一週間コッペパン暮らしの日もありました。ある夜、発作で緊急入院。柳原病院との出合いでした。「体力も衰えてい て、もうダメと宣告されましたが、吉沢敬一先生の懸命の処置で、一命を取り留めました。生活保護を受けられるようにもしてもらって、柳原病院は命の恩人で す」といいます。今は、身体障害者手帳も受け、薬と酸素療法で命をつないでいます。
汚染広がる首都圏
首都圏の大気汚染は八〇年代後半、深刻化しました。七〇年代の二度のオイルショックと円高不況で、ガソリン価格が高騰します。メーカーは、燃費がよく経済的だとディーゼル化を強力に推進、排ガスが激増しました。
〇四年六月に全都一斉に行なわれた測定結果(上図右)は、幹線道路沿線だけでなく、一般地域でも高濃度の汚染が「面」で広がっていることを示していま す。〇三年秋に始まった都のディーゼル規制以降も深刻な事態が続き、多摩地域でも汚染が広がっていることがわかります。東京の小・中・高校生のぜんそく罹 患率は、全国の二倍強になります。(上図左)
「面的汚染」認定へ向けて
〇二年一〇月の第一次訴訟判決は、排ガスとぜんそくの因果関係を認め、メーカーには、できる限り早期に排ガスを低減する社会的責務があると断じました。
しかし、「いつ、どのような排ガス低減技術が可能だったのか、その採用でどれだけ排ガスが減らせたかは不明」として、メーカーを免責してしまいました。 そのうえ、排ガスとの因果関係があるのは、「12時間、交通量4万台以上の幹線道路から50メートルの範囲内」に居住する七人だけとして、九二人を切り捨 てました。
被害者救済の画期をなした尼崎や名古屋公害裁判でも、浮遊粒子状物質について、沿道「50メートル以内」「20メートル以内」としています。しかし都内 の場合、ほぼ同水準の「面的汚染」が進んでいて、被害との因果関係を認めさせることが、控訴審での大きな課題となっています。これは、二次訴訟から五次訴 訟までを一括審理している東京地裁でも同様で、患者原告の必死のたたかいがすすめられています。
仲間との固い絆に結ばれ
日光街道(国道4号)や環状7号線など幹線道路が走る足立区は大気汚染がひどく、第一次訴訟から「友の 会」会員が原告に加わっています。「友の会」は、毎年「トヨタ総行動」に参加。全国公害被害者総行動、都庁要請行動などにもバスを仕立てて駆けつけていま す。昨年一二月から始まった、勝利判決をめざす「一〇〇万署名運動」では、患者会と共同して「足立で一〇万」の目標を掲げ、地域訪問にもとりくんでいま す。この七月には、幹線道路・交差点二六カ所で交通量調査と二酸化窒素・粉じん・浮遊粒子状物質測定にもとりくみました。
「自分たちの仲間が人権を侵されている。これを支援するのは友の会の何よりの課題です」と事務局長の小林重信さん。会長の米倉妙子さんも「安心して吸え る空気を取り戻すために、原告の人たちが頑張ってくれている。私たちも自分のこととして受け止めています」と語ります。
一〇月四日、第九回口頭弁論が開かれた東京高裁前に、「友の会」の人たちとともに初山さんの姿がありました。
「柳原病院や診療所の職員の方とは毎日のように顔を合わせていて、友の会と固い絆で結ばれています。これが今、私の生きる支えとなっています」
注=公害健康被害補償法=八八年に国が認定を打ち切ったため、多くの未救済患者が生まれ、高額の医療負担に苦しんでいます。
文・太田候一記者/写真・五味明憲
いつでも元気 2005.12 No.170