元気スペシャル 無差別攻撃受けたファルージャ サッカー場にはいまも新しい墓が次々
イラクでは、八月一五日、国民大会議が開会されましたが、米軍はイスラム教シーア派指導者サドル師を「民主主義の敵」と呼び、聖地ナジャフを連日攻撃。四月に「掃討作戦」を行なったファルージャでも再び軍事攻撃を強めています。
主権移譲後の七月、森住卓さんがファルージャを取材しました。
サッカー場が集団墓地に。3人の幼児が一つの墓に埋葬されていた |
今回の取材は、四月のファルージャで何があったのか、その一端をこの目で見ることが最大の目的だった。ファルージャ攻撃の中心部隊は、沖縄で訓練を受けた米海兵隊。日本にも関わりがある。
チャンスは滞在最後の日にようやくやってきた。「イラクイスラム党ファルージャ支部」の協力で、市内に入 ることができたのだ。ファルージャはモスク(イスラム教寺院)が六〇もある敬虔なスンニ派教徒の町だ。イラクイスラム党はフセイン政権が倒れた後できた宗 教政党で反米武装勢力と米軍とが停戦協定を結ぶときに大きな役割を果たし、武装勢力に一定の影響力をもっている。だが一〇〇%の安全は保障できないと言わ れた。
バグダッドを朝出発し、九時前に市内に入った。知り合いのジャーナリストらから聞いていた話と違い、市内に通じる大通りはたくさんの車が行き来し、市場はにぎわっていた。一見平和な印象だが、破壊された民家も目につく。
イスラム党のガイドの案内で市内を回った。市内中央の通りを抜けユーフラテス川に架かる鉄橋を渡る。この鉄橋にアメリカ人四人が焼き殺されつるされた。民間人を虐殺したといって、米軍は報復攻撃をしかけてきたのだ。
民間人というが、アメリカでは戦争の民営化がすすんでいる。彼らは「ブラックウォーター社」の社員だったが、同社は海軍特殊部隊を退役した元軍人を雇い、イラクに傭兵を派遣している企業である。
いま橋は、停戦後結成された地元軍隊「ファルージャ軍」が警備していた。
橋を渡りきったところにあるファルージャ病院は市内最大の病院だが、すべての医薬品が欠乏していると、医師たちが言っていた。
「三月末からの米軍の包囲攻撃で八百人の市民が殺され、停戦協定後も五〇人の市民が殺された。負傷者は二千人以上にのぼる。三千以上の住宅や商店が破壊された」と言う。
沖縄の海兵隊が攻撃の中心部隊だった
取材中、突然拘束されたが…
空爆で破壊された民家を取材していると、突然、武装した数人のムジャヒディンが来て、拘束された。
車に乗せられ、連れて行かれたのは住宅地の外れだった。道路を挟んで、鉄道とハイウェーが並行する地点 で、米軍との戦闘で前線が敷かれていたところだ。塹壕が掘られ、近くの木陰で数人の男たちが休息をとったり、カラシニコフ銃の手入れをしたりしていた。彼 らは私に水をすすめ、「木陰に入って楽にしてくれ」ととても丁重な扱いだった。
ムジャヒディンとは「イスラム戦士」という意味で、特別の武装勢力を指すわけではない。私を拘束したのは町内会の自警団といった感じのグループだった。
三〇分後、目隠しをされ車にのせられた。数分走って、大きな民家についた。住民はおらず、このグループが 使っているらしい。トイレにも目隠しなしでいかせてくれた。近くをハイウエーが走っているらしく、車の高速走行の音が聞こえた。ジュースや水を飲めと若い ムジャヒディンがすすめてくれたが、彼らは英語を話せず、コミュニケーションがとれなかった。しかし、とても紳士的だった。
日本にしてほしいのは技術・医療の支援
昨夜も空爆で仲間が殺された
私についてイスラム党から確認がとれたらしく、二時間の拘束で釈放された。家から出るときは目隠しなしだった。この場所がどこかわかってしまうのに、「友人だから」と言ってくれた。
ムジャヒディンのリーダーは四〇歳代前半で、「昨夜も空爆があり仲間が殺され、みな神経質になっている。外国人であればとりあえず拘束するのだ。疑って申し訳なかった。これから我々がガードして市内を案内しましょう」と言う。
連れて行かれたのは、サッカー場の墓地だった。一カ月以上に及んだ米軍のファルージャ攻撃で八百人以上の犠牲者が出たが、米軍が町を封鎖していたため市外の墓地に埋葬できない。市内のサッカー場が埋葬場所となったのである。
この日も、ショベルカーが墓を掘っていた。その脇に一一基の真新しい墓があり、まだ名前も書かれていなかった。今朝の空爆で殺された市民の墓だという。
四月六日の空爆で三一人家族が全員死亡という墓、小さな子どもが三人一緒に埋葬されている墓…。このサッカー場だけで六百人以上が埋葬されている。
四月末、国際的非難を浴びた米軍はファルージャ市内から撤退せざるをえなくなった。市民と武装勢力がファルージャ市内から米軍を追い出したのだ。ムジャヒディンの若者になぜそんなに強いのかと聞いてみた。
「イラク戦争のときには、我々には守るものがなかった。サダム大統領のイスだけを守らされた。いまは、自分たちの町や家族を守るためにたたかっている。だから強いんだよ」と口々に言う。
解放されるとき、若いムジャヒディンが「日本はなぜアメリカの占領に協力して軍隊を送ってくるのだ。我々が日本に期待しているのは技術や医療の支援なのだ」と悲しそうにいった。
平和な市民をなぜ標的に
米軍の攻撃で左目を失ったアブダルくん(5)を訪ねた。
四月九日夜、眠っていた一家を米軍の空爆が襲い、さらに銃撃が加えられた。最初の空爆で飛び散った破片がアブダルくんの左目を直撃。お母さんのファディーラさんは妊娠していたが、おなかに銃撃を受け胎児は死亡してしまった。家は破壊され地獄のようだったという。
翌朝、お父さんのスマイルさんは、設備の整ったバグダッドの病院に一刻も早くアブダルくんを運びたかったが、町を包囲した米軍は、市を出る車は救急車も標的にした。息子を助けたい一心で、やむなく米軍に助けを求め、バグダッドの病院に運んでもらった。
スマイルさんは「アメリカのどこに自由があるのか。子どもたちは米軍を大変怖がっている。米軍を憎みます。彼らは許可もなく人の家に入ってくる。門をぶちこわし、昼でも夜でもおかまいなく。私がなぜ攻撃されなければならないのですか? 平和な市民です」と怒る。
米軍のファルージャ包囲作戦は、まさに無差別大量虐殺であった。そして、いまはナジャフがその標的になっている。
いつでも元気 2004.10 No.156