みんいれん半世紀(17)「ポリオ生ワク闘争」 子どもを背負ったお母さん、国を動かす
「伝染病を鎮圧した世界史的事件」で民医連は――
落合さんを囲んで話をきく中野共立病院の青年たち
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一九五〇年代の終わりから六〇年代はじめにかけて、日本各地でポリオ(小児マヒ)が大流行しました。
主に乳幼児がかかり、手足がマヒして重ければ死に至り、命が助かっても障害が残る、おそろしい病気です。当時のソ連にあった生ワクチンが予防・根絶に有 効でしたが、国は「ソ連の生ワクは信用できない」と輸入を認めませんでした。怒ったお母さんたちが大運動をおこして輸入を実現、日本は危機を脱します。
歴史に残るこの「ポリオ生ワク闘争」に東京・中野区でかかわった落合文次さん(81歳)が、民医連の歴史を学ぶ中野共立病院の青年たちに語った話は――。
幼稚園の会場は超満員
五六〇〇人のポリオ患者が出て約三百人が亡くなった六〇年につづいて、六一年も患者千人を突破。落合さん が謄写版屋を営んでいた中野の大和町でも二人の患者が出ました。当時使われたのはソークワクチン(ウイルスを不活性化したワクチン)ですが、まったく不 足、「あると人が殺到した。一回二万円で三回打つ。一家三人が三万円で暮らせた時代にそれだけで六万円かかった」といいます。
このころ「子どもを小児マヒから守る全国協議会」が発足、目黒区で小児科を開業していた久保全雄さん(のち新日本医師協会会長、故人)がかかわっていま した。落合さんと久保さんは、ともに日ソ協会(いまの日本ユーラシア協会)東京都連の理事で、親しい仲。落合さんは久保さんに「地域で患者が出たから話し にきてくれ」と頼みました。会場の八幡神社幼稚園は超満員、代々木病院の丸屋博医師(いま広島共立病院名誉院長)、中野で診療所を開いていた後藤マン医師 (のち東京都議会議員)もかけつけました。
「久保さんは、予防薬生ワクチンの見本を示して説明したので、お母さんたちは『ほしい!』と会場騒然となった。『日本中ほしい人ばかり。政府にこれを輸 入させる運動をしよう』という講演を聞いて、お母さんたちはその場で協議会をつくってしまった」。大和町・野方・鷺宮地域の協議会ができたのは六一年三月 一九日。つづいて江古田・沼袋地域にもできて、江古田沼袋診療所が連絡所になります。(『中野勤医協の50年』)
「久保さんが『署名が大事』というと、お母さんたちはすぐカンパを三千円くらい集めて、僕に『すぐ署名用紙とパンフをつくれ』というんだ」。翌日からお 母さんたちは毎日署名をもってきます。「まず東京都を動かそうと都庁に日参し、都職員に『陳情定期便ですね』といわれた」
六月一九日。厚生省(当時)に押しかけると武装警官がバリケードで入り口をふさいでいました。「子どもをしょったお母さんを前面にだしたら、さすがに彼 らも手出しができない。守衛さんがちょっと柵をあけたとたん、全部あけてみんな中に入ってしまった」
省内で尾村偉久公衆衛生局長をつかまえますが、「私は考えをもっているがいまはいえない。薬務局長といっしょならしゃべる」。牛丸義留薬務局長を探し て、トイレの戸をかたっぱしからたたき、中にいた薬務局長をひっぱりだしたのが落合さんでした。両局長を並べて追及すると、ついに「投与します」という返 事。「ヤッター!」の大歓声があがりました。
「生ワク大量輸入決定」のニュースが流れたのは翌二〇日夜。明けて二一日には二千人を前に古井喜實厚生大臣が、ソ連から一千万人分、カナダから三百万人分を緊急輸入すると表明しました。
春いらい、厚生省に全国からおしかけ「母親は身ごもった瞬間から子どもを気遣うものです。大事なわが子の手足がマヒした母親の悲しみをどうしてくれるん ですか」。机をたたかんばかりに国の決断を迫ってきたお母さんたちが、ついに政治を動かした瞬間でした。
「ソ連から生ワクチンを輸入してください」と厚生省(当時)に迫るお母さんたち。この日、厚生省は初めて生ワクを投与すると回答した(1961年6月19日)
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ワクチンはこうして間に合った
緊急輸入は決まりましたが、もう一つ問題がありました。「ソ連は八時間労働制が厳格で、短時日に一千万人 分の生産はむずかしいと伝わってきた」。それを突破するため、中野の人たちは急きょカンパを集めて久保医師をソ連に派遣。ソ連側の製造責任者、チマコフ研 究所のチマコフ博士は「日本の子どもたちのためなら、法律をおかしても、間に合わせましょう。形はそろわないかもしれないが、効力に違いはありません」と 約束しました。
ソ連からお菓子のボンボン型をした生ワクチンが羽田空港に届いたのは、七月一二日。投与されると、東京都では翌月から発生がゼロに。劇的な効力でした。
その後、ソ連から治療薬ガランタミンが日本共産党や労働組合に贈られ、代々木病院に委託されたことがあります。落合さんは自分の主治医だった同病院の佐 藤猛夫院長に、自宅ちかくで発病した子を投与患者に推薦します。
「三つくらいの男の子でしたが、よくなりましてね。お母さんが喜んで連れてきて、サザンカの葉をちぎってみせてくれました。だらんとしていた手が、こん なに動くようになりましたといって」
このたたかいは、「大和町にも住民の立場にたって働く医師、医療機関がほしい」と、六六年四月にやまと診療所が生まれるきっかけになりました。落合さん は中野勤労者医療協会(六四年創立)の友の会事務局長、のちに監事となり、評議員会議長を三〇年。その民医連人生を決めた事件でもありました。 「WHO(世界保健機関)のウイルス部長だったチマコフ博士夫人は、『日本のポリオ闘争は、大衆が立ち上がって伝染病を鎮圧した世界史的できごと』といい ました。それに比べ、国の厚生大臣は昔もいまも、弱者のことを考えていない」と落合さん。
WHOは、事件から四〇年たった二〇〇〇年一〇月、ポリオが日本をふくむアジア太平洋の三七カ国・地域から根絶されたとする宣言を発表しています。
文・中西英治記者
いつでも元気 2004.5 No.151