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いつでも元気

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みんいれん半世紀(16)「人間裁判」 「憲法25条生かせ」病床からの訴え支えて 福祉攻撃のいま「朝日訴訟のようにたたかおう」

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『人間裁判』復刊の集いで朝日さんの遺影を背にあいさつする養子の健二さん(2月14日、岡山)

 国立岡山療養所の患者だった朝日茂さんが、結核の病床から裁判を起こしたのは一九五七年八月。国民的な支援の輪をひろげ社会保障運動の歴史に残る朝日訴訟を、民医連は積極的に支援しました。
 訴訟のきっかけは、福祉事務所が、朝日さんの兄に仕送りさせた月一五〇〇円から六百円だけ朝日さんに渡し、九百円を入院費の一部として取り上げたこと。 生活保護基準が認めた「日用品費」が月六百円。シャツは二年に一枚、パンツは年に一枚でいい、それ以上はぜいたくだというのです。「そんなばかなことがあ るか」と怒った朝日さんは「この基準は健康で文化的な生活の保障(生存権)を定めた憲法25条に違反する」と国を訴えたのです。人間らしい生活とは何かを 問う、「人間裁判」でした。

「王山大学」の青春

 当初、前例がないだけに誤解や無理解も多く、「重病人には無理だ」と善意から反対する声も。「朝日さんも 迷って私に相談されたが、最後は朝日さんが一人で決断。強い意志でした」と語るのは、当時の療養仲間でのちに岡山医療生協専務理事をつとめた冨田正勝さ ん。朝日さんが「最初に、もっとも積極的に支援し協力してくれた」と記した人です。
 冨田さんは一九五〇年、岡山県早島町王山にあった日本医療団「早島光風園」(のちに国立岡山療養所)に入所。二七歳でした。「たまたま隣部屋だった縁で 朝日さんにいろいろ教わりました」。若者を集めたサークル「社会科学研究会」、文芸誌の発行、患者自治会や日本患者同盟の活動…。「当時の療養所は人生を 学ぶ学校で、土地の名をとって私たちは『王山大学』と呼んでいました」。生きる意欲をもやして病気とたたかう朝日さんの生き方にふれて、「私の人生は変わ りました」という冨田さんです。
 冨田さんは、五五年に社会復帰し岡山医療生協の運動に加わります。朝日訴訟がはじまると、岡山医療生協は理事長(当時)の塩田寅雄さんが現地対策委員に なり、医事課長だった冨田さんは岡山市に全国初の「守る会」を立ち上げるなど、組織をあげて支援しました。

医師もたびたびかけつけて

 民医連は医療でも朝日さんをささえました。提訴後まもない五八年ごろから、「民医連の療養支援団が早島 へ、三度か四度はきたと思う」と水島協同組合病院(いまの水島協同病院)の内科医だった水落理 さん(いま岡山医療生協名誉理事長)はいいます。最初に訪れた医師は、水落さんと大阪の小松良夫さん、桑原英武さん。国立療養所の患者に民間の医師がかか わるのは異例で、「療養所がよくだしてくれた」というレントゲン写真、心電図などを三人で検討しました。
 水落さんはその後、病状が変わるたび、同じ水島で呼吸器専門の丸屋博さん(いま広島共立病院名誉院長)らと早島へ出向きます。全日本民医連は六三年に支 援を決定(第一一回全国総会)。支援運動だけでなく、民医連の医師たちも朝日さんを診つづけたのです。

臨終の床で「あとは頼む」

 六〇年一〇月、東京地裁は「生活保護基準は憲法違反」という画期的な勝利判決をだしました。しかし、六三 年一一月の東京高裁判決は逆転敗訴。六四年、朝日さんの死が迫り、子どものいない朝日さんにかわって裁判を継承する養子がもとめられました。決意した健二 さん・君子さん夫妻が東京からかけつけた場にたちあった水落さんはその光景を鮮やかに覚えています。
 「書類に拇印を押した朝日さんは紙をにぎりしめて放さない。私は『朝日さん、もういいんだよ』といいながら指を一本一本ほどきました。朝日さんはもう話 せない状態でしたが、あのときはきっと『あとは頼むぞ』といいたかったのだと思います」(水落さん)
 二月一五日午後に縁組をすませ、その日のうちに亡くなった朝日さん。解剖にたちあった水落さんの証言は重要です。
 「左肺はなく、右肺も一部しかなかった。腸にはたくさん穴があき、執刀医が発表した直接の死因は腸結核だったが、どうもおかしい。私は肺と腸の一部をも らって帰り、水島で病理の門田尚医師に調べてもらった。おどろいたことに腸結核ではなくて、肺からは結核菌でなく非定型抗酸菌が検出された。朝日さんは、 結核菌が死滅したあと、苦しい生活とはげしい闘争で、内も外もストレスにさらされ、体力の落ちたところへこの菌がくいついたと考えられる。十分な栄養・治 療も受けられないなか、ぎりぎりのところで最後まで、全身の力をこめてたたかった人間の壮絶な姿だった」

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1961年、全国から早島にかけつけた第一次現地調査団 1963年、バスを乗り継いで旗をリレーした「朝日訴訟を勝ち抜くバス行進」。姫路で岡山から兵庫にバトンタッチ

憲法25条に命ふきこむ

 六七年五月、最高裁は裁判継承を認めず敗訴が確定。しかし、朝日さんが文字どおり命をかけたたたかいから学ぶことは多い、と冨田さんはいいます。
 「朝日訴訟が始まって五年で、生保の日用品費は二倍に引き上げられた。特別養護老人ホームなど高齢者福祉施設に入所している人の生活費にも、公務員賃金 引き上げにも影響を与えました。国保を日本中につくらせ国民皆保険制度を実現し、老人医療費無料化ができた背景にも、朝日訴訟を契機にひろがった運動が あった。裁判は負けましたが、残した成果はほんとに大きかった。その根源は憲法25条に命をふきこんだこと。朝日さんがともした一点の火花から、列島を歩 いた朝日大行進など全国民的なたたかいになったのです」
 ことし、朝日さんの半生をつづった著書『人間裁判~朝日茂の手記』が四〇年ぶり復刊されました(大月書店刊)。刊行に尽力した冨田さんは語ります。
 「いま社会福祉・医療が総攻撃され後退しています。当時を知らない若い人にも読んでもらい、原点にたちかえって、国民の生存権をまもるため『朝日訴訟のようにたたかおう』という声をひろげたい」
文・中西英治記者
写真・吉田一法

いつでも元気 2004.4 No.150