みんいれん半世紀(14)山梨勤医協倒産 創立以来の信頼が患者を動かした
訴える職員の姿を見ていると再建は可能だと
一九八三年四月五日、山梨勤労者医療協会は、負債総額二三〇億円をかかえて倒産。「病院では史上最大の倒産」と報じられましたが、病院をつぶさず再建。二〇〇二年には、甲府共立病院の建て替えも完成させました。
地域の信頼を裏切って
待合室で大声を上げる暴力集団に職員は毅然と対応した |
梅津幸造さん(78歳) は「倒産したと聞かされたときは目の前が真っ暗になりました」といいます。梅津さんは、甲府診療所(甲府共立病院の前身)創立(一九五五年)のときから「共立互助会」(現在の山梨健康友の会)づくりにかかわりました。
倒産時の互助会員数は八千世帯でした。「どんなときも患者を助けてきた病院への信頼は絶大でした。よい医療のためにと、互助会として協力債を集めてきま したが、地域の信頼を裏切ることに…」
七二年に就職し、当時は総務課長だった三谷和也さん(57歳、㈲ワイエムピー専務)が倒産の経過を話します。「倒産は、勤医協が出資していたレジャー・ 不動産会社『健文』がつぶれたことがきっかけです。資金運用として、協力債で集めたお金を健文にまわしていたが、回収できなくなり、債権者に返せなくなり ました」
なぜ、民医連の病院がスキー場開発などに手を出したのか。三谷さんは「当時の理事長代行が、いまの医療制度では採算がとれない、ほかで稼いだ金をまわし ていい医療をやるのだ、という考え方で、健文への出資をほとんど独断ですすめたものです」といいます。
「そんなでたらめが通ったのは、一部の経営幹部の独断をチェックする民主的な機能がまったく働かなかったからです。経営方針が職員のなかで討議されず、 予算は経理部長の私案がそのまま通っていました。後の調査で粉飾決算も多く見つかりました」
「涙が止まらなかった」
倒産状態が明らかになると、お金を返してほしいと訴える債権者が病院に押し寄せました。
泣き崩れる債権者を前にして職員は「医療さえ続けられれば必ずお返しできます」と説明し、ひたすら謝って帰ってもらうことしかできませんでした。就職二 年目の事務職員は、「身体と言葉が不自由な青年に『…あなたに…文句をいっても…仕方がない』といわれ…情けなくなり、涙が止まらなかった」と書いていま す(再建ニュース八三年九月四日号)。
債権をとりたてに暴力集団が病院に押しかけることもありました。警察が勤医協の「詐欺罪」を立証しようと職員につきまといました。三谷さんは「その上に 賃金カットが続きました。それでも退職しないで、みんなよくふんばったと思います」といいます。
「なぜ僕は残ったのだろう」
和議が可決された債権者集会(84年3月27日)の報告を聞く職員。全国からの檄旗の前で |
当時の「再建ニュース」に寄せられた職員の発言を紹介します。
「なぜ僕は残ったのだろう…債権者回りをすると地域の人から愛されているのがわかったし、この病院には、倒産に負けることなく、もっと患者・地域にこた える医療をと悩んでいる姿勢があったからです」(就職一年目の理学療法士)
「退職願を出したけどとりさげた。退職願を出してからいろいろな人と話し合い、自分のことを心配してくれる仲間がいることがわかった。仲間づくりのでき る職場なら頑張っていける」(看護師)
三谷さんは「最初は弁護士も、再建なんて無理と考えたようですが、病院がなくなればまた迷惑をかけてしまう、病院を再建させてほしい、と患者さんに訴え る職員の姿を見て、これなら再建は可能だとかわってきました」といいます。
800人の患者集会
「職員を力づけてくれたのは、全国の仲間の支援と、病院が診療を続けているから行ってやれし、と声をかけ合ってくれた患者さんです」と三谷さん。
梅津さんは、「私たちは甲府診療所時代から、患者のことをいちばんに思って一生懸命になる現場の職員をみています。創立以来の信頼が患者を動かしまし た」と、なぜ患者が勤医協を見捨てなかったかを語ります。
「倒産のとき、甲府共立病院に入院していた望月万津三さん(故人)は、喘息の患者会の会長でしたが、一一あった患者会に声をかけて、倒産直後の五月八 日、病院の存続を求める患者集会を開き、県民文化ホールに八百人を集めました。病院がなくなればいくところがないと、同じ入院患者に相談されたことが望月 さんを動かしたのです」(梅津さん)
望月さんは、山梨勤医協を責めるマスコミに対し、記者会見の場で「生身の患者が病院で治療していることを、一度でも考えたことがあるか」と病院の存続を訴えたといいます。
1年くり上げて完済
理事会と労働組合はいっしょになって、「再建大運動推進共闘本部」をつくり、破産させないで、和議によって勤医協を再建させていく道をえらびました。
一年後の八四年五月、全債権者の九九精以上の賛成をもって和議が成立。そして、九七年、当初の一五年返済の約束を、一年くり上げて完済したのです。
梅津さんは「完済したときに民医連の高柳新副会長(当時)からいわれたことばをよく覚えています。甲府の病院を建て替えてこそ、ほんとうの再建だと。返 済が終わったときには病院もボロボロ、職員もボロボロでは、それでおしまいです。新しく建て直した病院を持てるまでと私たちもがんばり、新しい甲府共立病 院に建て替わりました」といいます。
「図体が大きくなっても忘れてはいけないことがあります。地域の生活の場と結びついた医療でなければならないということです。いまはどこの病院でも親切 だ。親切というだけでは民医連ではないと思います。地域の人々と日常的に結びついた医療活動、それを忘れたら、また危機は訪れます」
甲府診療所時代から四〇年、倒産を乗り越えて民医連を支えてきた梅津さんのきびしいことばでした。
文・八重山薫記者/写真・五味明憲
いつでも元気 2004.2 No.148