特集2 記念講演 「よく知り、よく生きる」賢い患者になろう 医療者は患者の心がわかる「2・5人称の視点」を
作家・柳田邦男さんが第7回共同組織活動交流集会で語ったこと
第七回全日本民医連共同組織活動交流集会の全体集会(03年9月8日)で行なわれた作家・柳田邦男さんの記念講演「これからの患者、これからの医療者」の要旨です。
主語を代えると見え方が変わる
いま、医療界はむずかしい問題をたくさん抱えています。
医療をする側からみれば、医療費の削減など、さまざまな問題がある。一方、患者さんの要求は一人ひとりの価値観や人生観の違い、医療にたいする期待の大 きさによりさまざまです。医療側はいろいろ問題を抱えながら、その要求に対応しなければいけない。そういうむずかしい状況のなかで、医療問題はいま世の中 の関心事になっているわけです。
問題を考えるときには、どういう視点からものを見るかが大事です。誰を主語にするかで、ずいぶん意味づけが変わってきます。「医療者が、病院が」という 主語で考えるか、「患者が、一般市民が」という主語で考えるかで、大きな違いが出るに違いないのです。何はともあれ、まず「患者が」という主語で考えなけ ればいけないのだろうと思います。
私は最近、『元気が出る患者学』(新潮新書)という本を書きました。そのなかで、これからの患者のありかた、患者が本当に自律的、自主的な生き方のなか で、自分の病気を見つめ、医療サービスを受けるというのはどういうことなのだろうか、というのを整理してみたのです。
病気を「知る」ということ
私たちが病気になったとき、何をしなければいけないかというと、まず「自分の病気や治療法を知る」ことです。人任せでなく、患者自身が正しく理解しなければいけない。では、知るにはどうすればよいか。
「インフォームド・コンセント」という言葉があります。重要な治療をするとき、その治療法の説明だけではなくて、病気の種類、性質、今後の病気の進行、 治療の副作用や合併症、危険性などをわかりやすい言葉で説明する。それを患者さんがよく理解し納得して、その上で「こういう治療法にしていただきたい」と 合意するというものです。
しかし、一回説明されただけで、そう頭に入るものでもない。本屋さんの健康書コーナーにいくと、いろんな病気の本がだいたいそろっています。一般書より くわしく知りたい人におすすめするのは、看護師向けの本や雑誌の特集号です。病気の各段階でどう治療が展開するかの説明があって、患者や家族にとても役に 立ちます。
インターネットでは、医療機関や団体が情報を発信しています。国立がんセンターのホームページを開きますと、医療者向けと一般市民向け、患者向けの情報 があって、がんの種類別に治療法の説明、どんな薬をどんな使い方をするか、その治療の結果、生存率がどれくらいかということも出ております。
いちばん役に立つのは患者会だと思います。最近は、患者会が生き方について特集した本を出しています。がんの闘病を支える山梨のホスピス協会の本は、悩 みや質問を集めてアドバイスを書いています。福岡のファイナルステージを考える会の本は、がん末期をどう生きるか、そういうケアをする医療機関はどんなも のがあるかを特集しています。
病気について「知る」というなかに、「セカンドオピニオン」の問題があります。「この病院大丈夫かな」「手術をすすめられたけど、他の方法はあるのか な」、いろいろ迷ったときに、他の医療機関、他のドクターに相談することを、「セカンドオピニオン(第二の意見)を聞く」といいます。東京あたりでは多く の病院が協力するようになり、画像診断のデータとか、医師の診断結果を渡してくれます。患者はそれをもって別なところへいくのです。
これを医療側の立場にたってみると、ある意味でたいへんなのです。治療に直結せず、助言するだけですから、診療費の請求ができない。相談料をとって専門 医が対応するところが出ていますが、割が合わないようですね。セカンドオピニオンの患者さんは時間のかかる場合が多く、ベテラン専門医で一日に四人か五人 が精一杯といいます。
外来で待つ患者さんは三分、一〇分しかかけられないのに、治療するわけではない患者に三〇分も五〇分もかかる、という矛盾。保険診療制度のなかにセカン ドオピニオンをきちんと位置づける行政の対応が必要だと思いますが、まだそれはなにもとられておりません。
患者が医師と向きあうとき
次に、実際に病院にいき、お医者さんと向かいあったときにどうするか、という段階になります。やはり個条書きにしてみました。
「自己紹介」、これは意外に大事なのです。日本では、患者もドクターもフルネームを名のりあう習慣がない。ドイツなどでは、ドクターが先に「私はハイ ル・ヒットラーです」という。すると患者が「マレーネ・ディートリッヒですわ」と答える。そういう会話は対等な人間関係になる基本だと思います。
それを怠るとどういうことがおこるか。有名な事件ですが、木村A子さんという妊婦がおなかの赤ちゃんの定期健診にいきました。受付の看護師さんが「木村 さん」と呼んだ。呼ばれたのは別の木村B子さんだったのですが、B子さんはトイレにいっていて、間違ってA子さんが入った。そのまま処置室へ連れていか れ、会話もせずいきなり中絶されてしまったのです。終わって患者さんはびっくりして、「何をしたんですか」「中絶の掻爬(そうは)をしました」「人殺し」 と大騒ぎになりました。
「名前の確認」と「名前にもとづいてカルテの確認」、この二つはとっても大事です。最近は医師も職員も胸にフルネームのバッジをつけるところが増えてい ますけれども、まだつけないところが多い。やはりそのあたりのスタートが大事です。
それから「たずねたいこと、心配なことをメモにして持っていく」「わからないことは確認する」「大事なことはメモをとる」。お医者さんの前で一部始終書 くのは大変でしょうが、診療を終えたら、どこでもいいから病院にいるあいだに、ベンチに座って書いてください。
投薬を受けたら「薬の確認」。いまはコンピューター管理で間違いは少なくなりましたが、似たような名前で、出されたお薬が風邪薬ではなくて抗がん剤だっ たとか、とんでもない間違いもおこっています。
「診断結果」、とくに大きな病気のときには「もう少し詳しく説明する時間をとってください。その上で手術を受けるかどうか判断したいから」とか、いろい ろと通常の外来診療プラスアルファの説明を求める必要があると思います。
「来月一人娘が結婚する」とか、「もう年だが、これだけはやっておきたい」といったことは少しずつ話しておく必要がある。「病気についてきちんと知った 上で治療を受けたい、がんだとしても隠さないでほしい」など、医療者側に伝えること。家族の間でもそのあたりを話しあっておくことが必要です。
そして、「医療にも限界があることを知る」ことです。最近は先進医療で治らない病気も治してくれるような錯覚がありますが、報じられるような最先端医療 は限られた人に適用されるのが大部分。がんの医療がすすんだといっても、がんでなくなる人が年間三〇万人もいる現実をやはり見ないといけません。
生き方を考える
医療は神様ではない。そのなかでどのように最善を尽くすか。治らないことがわかった場合でも、でも残され た時間がこれだけある、その間をどう生きるか。「病気と治療法を知る」と並んで、患者がしなければならないことの二つ目は「生き方を考える」ことです。こ れについても、項目を整理してみました。
患者会などに所属しますと、いろいろ体験を教えられ、自分なりの生き方を探しやすくなります。闘病記や人生に関するエッセイを読み慣れておくと、生き方 について考えがだんだん整理されてくる。ドラマとして感動するということではなく、この人はこんな生き方をしたのか、こういうふうに家族で支えあったのか という実益的な読み方をすると、内容のある闘病記は多いです。
また、ホスピス・ボランティアなどをしますと、死を前にしてすばらしい生き方をし最後を穏やかに旅立っていくような人に出会います。心がとても落ち着い て、あの世にいくのがとてもたやすくできるような気持ちになってくる、と作家の重兼芳子さんは書いておられます。
そうした情報に接しながら、これまで一生懸命会社のために尽くしてきたけれども、病気になって体が不自由になったり、障害が残ったなかで、何がいったい 自分にとって大事なのだろうか。そこを見つめることが必要だと思います。
「生きられた時間」という言葉があります。人はだれも一日二四時間、一年三六五日という均等な時間をもっています。しかし、一時間一時間、一日一日がど ういう意味をもつかという主観的な問題になると、万人同じではありません。
病気でショックを受け、何もしたくない、ただ寝ているだけとなると、その人の生きている時間というのは無に等しくなる。しかし、「自分は大腸がんになっ たけれども手足は動く、頭までがんになったわけではない、この頭を使って前向きに生きよう」という人の時間の中身はぜんぜん変わってくるわけです。
倉敷で伊丹仁朗先生がおやりになった「生きがい療法」は、まさにそれなのです。がんになっても富士山に登ろう、モンブランに登ろうとか、おやりになりま した。富士山に登るという目的意識をもって、一年も二年も前から体調を整え、散歩をし、近くの里山に登って健脚を養っていく。目標に向かう一日一日の行為 が、体に免疫力や活力をつけて、前向きな生き方を導き出してくれる。そして最後の最後まで「生きられた時間」を手にすることができる。こういう意味をもつ ものです。
医療側は患者にどう向き合う
さて、このように患者が賢くなったとき、医療者はどうしたらいいか。また整理してみました。
医療者側に求められる安心と納得のとりくみ。一つは、「あいさつ、言葉かけ」、こういったものをしっかりやりましょう。ドクターだけでなく、受付でもどこでも同じです。
「わかりやすい説明、コミュニケーションスキル(伝達の技能)」を大事にしましょう。日本の医療、大学の医学部教育ではコミュニケーションの教育が盲点 になっておりました。患者さんの闘病しようとする心をサポートする会話って何だろうか。患者さんの訴えを聞く耳というのは具体的にどうすればいいだろう か。とても大事な問題です。
最近、専門書が少しずつ出るようになりました。イギリスでつくられた『困難な診断をいかに伝えるか』というコミュニケーション論の本が翻訳されていま す。熊本大学の小川道雄先生が、がんの告知のあり方について具体的・実践的にくわしく説いた本もあります。
患者が心をわって話せるような雰囲気も必要です。心療内科では、患者が信頼感をもって心を開くような医療者の姿がきちんとしていないと、診療ができませ ん。心療内科だけではなく、医療者の心のなかの耕しというものが求められる時代になりつつあるということです。
そのほか、これから展開する診療目的をはっきり患者もわかるようにする。セカンドオピニオンに協力する。医療の安全、患者の安全を組織的に確立する。情 報の開示、カルテの開示。いろいろあります。
最後に「二・五人称の視点」ということについて申し上げたい。
いまは専門家が重要な社会になってきて、専門の範囲がどんどん狭く深くなっていく。医療だけでなく法律、行政、マスメディア、みんなそうです。往々にし て専門的な人が陥りやすい落とし穴は、その専門の知識だけで人間を判断する、患者を判断することです。そうすると、患者がそれなりの文脈で個性ある人生を 生きているところを見落としてしまうことがあるわけです。
「自分が」死ぬ、「自分の家族が」死ぬというのは、「一人称の死」「二人称の死」です。これにたいして専門家は「三人称の立場」です。客観・冷静・平等 に判断していく。それだけだと落とし穴にはまります。
そういうとき、「自分だったら、家族だったら、親だったら、連れあいだったら」と、二人称の立場、一人称の立場で考える。一方、冷静で客観的な専門家と しての判断と技術の駆使も忘れない。両者を兼ねあわせた視点が必要なのです。
二人称になってしまうと、よく外科医がわが子の手術はできないというように、冷静な判断ができなくなる。そこで私は「二・五人称」という新しい言葉をつ くって、「乾いた三人称から、うるおいのある二・五人称の視点へ」ということを提唱しています。それが医療現場なり、さまざまな専門職の分野で行なわれて いったらいいな、と思うのです。
いつでも元気 2004.1 No.147