特集1 「これはいい。情勢にぴったりだ」 ぐんぐん広がる反核「新署名」 アテネ五輪開催地のオリンピア市長も署名
〇三年から〇四年へ、激動のうちに舞台が回る世界で、焦点の一つは核兵器。人類絶滅の未来か、核も戦争もない二一世紀か。ホットな話題を三つ集めました。
1 「新署名」
ずらりと展示されたイラク戦争の写真パネルが、道行く人の目を引きます。男の子の手をひいたお母さんは、戦争で傷ついた写真の子が六歳くらいと聞いて、わが子にいいました。「あなたと同じ年だって! あなたも署名しなきゃ!」
一一月のある日。東京・東大和市の原水協のみなさんがよびかけていたのは、被爆六〇周年をめざす新しい国際署名「いま、核兵器廃絶を ヒロシマ・ナガサ キをくりかえさないために」です。〈世界の核保有国政府は、ただちに核廃絶の実行にふみだすこと〉〈すべての国の政府は、核兵器廃絶国際協定の実現へ行動 すること〉、これが内容です。
八五年から一八年間で六一〇〇万に達した前の国際署名(ヒロシマ・ナガサキからのアピール署名)は、二〇〇〇年の核不拡散条約再検討会議で核保有国に 「核兵器廃絶の明確な約束」をさせるなど、核廃絶の流れをつくる力を発揮しました。
いま、「使える」核兵器の先制使用も叫ばれるなか、「約束」の実行・実現を迫る「新署名」は、大きな反響をよんでいます。
国内ではいち早く広島・長崎市長が応じ、海外ではマレーシア、スウェーデンの国連大使や、アテネ五輪開催中はすべての戦闘の停止をと「オリンピック休 戦」を提唱しているオリンピア市長が応じるなど、急速に輪をひろげています。
東大和市の行動でも、「その署名は何回もしたよ」という人が、「いや、これは新しい署名です」と説明を受け、「これはいい。いまの状況にぴったりだ」。 一時間の行動で六〇ほどの署名が集まりました。
毎月六日・九日に反核の宣伝・署名行動を一七年つづけている東大和市原水協の西川洋一さん(日本共産党市議)は「私たちは『アピール』署名で住民過半数 を達成しましたが、いま新しい情勢のもとで新署名を市民にひろげていきたい。蕫平和のためにイラクへ自衛隊を﨟などとインチキな『平和』が宣伝されている いま、ほんものの平和の訴えを強めなければ」と話していました。
「裁判勝利を!」病身おして被爆者座り込み
新年1月インドで「WSF2004ムンバイ」
NGOとヒバクシャが交流
2 被爆者訴訟
「日がかげると寒いね。でも、がんばらないと」と、配られた毛布にくるまりながら笑顔で元気に鶴を折る、 年老いた人びと…。あいさつした東京地婦連の田中里子さんは「支援者ががんばらなくてはいけないのに、みずから立ち上がっていただいて。どうかお風邪をめ しませんように」と気づかいます。
一一月一二日、街路樹も色づいた晩秋の東京で、被爆者らが座り込みをしました。東京地裁で原爆症認定裁判の第三回弁論が行なわれた日。厚生労働省前に座 り込んだ被爆者と支援者は一五〇人。
若者のギターと歌、松平晃さんのトランペット、各界の激励があいつぎます。東京民医連の前沢淑子さんは「私たちも支援する会を立ち上げ、映画『ヒバク シャ』を上映、私もヒバクシャなんだとショックでした。支援でなく自分の問題としてたたかう」とあいさつしました。
原爆症認定申請を次つぎに却下する国を裁く集団訴訟が八裁判所で始まって四カ月。原告は全国で一一〇人をこえましたが、この間にも原告が亡くなっていま す。座り込み会場でも、亡くなった二人の遺影が飾られ、折り鶴をささげる参加者のなかには涙を流して合掌する姿も見られました。夫の遺影をもち喪服姿の大 塚サヨ子さん(67歳)は、「勝つまで死ねないといっていた夫は、判決を見ずに死ぬのは残念といって亡くなりました。かわいそうでなりません」と声をつま らせました。
東京の裁判では、入院中の原告から病院で証言をとる「証拠保全」も行なわれています。「原爆のがんで死にたくない。元の体に戻してほしい」という訴えを 裁判官が涙を浮かべて聞く場面もありました。
被爆者の訴えは法廷を圧しています。映画「にんげんをかえせ」などを上映、被爆写真パネルをかかげて説明、原告は涙とともに被爆体験を語り「核兵器のな い世界」を訴えます。「これまでの裁判とは違った光景」(広島支援する会代表世話人の田村正之さん)で問われているのは「被爆の全体像」であり、実相とか け離れた認定行政の誤りです。
争いの中心は、原爆後に爆心地に入った「入市(にゅうし)被爆者」と「遠距離被爆者」の認定。国はそのほとんどを却下していますが、被団協の調べで、入 市・遠距離被爆者の多くが急性症状、その後がんなどを経験している事実が判明しています。
一方、国側が提出した書面は、原告が訴える一人ひとりの被爆状況、被爆後の苦しみを「不知」(知らない)の一言でかたづけました。個々の被爆状況を抜き に、機械的基準でしか見ない非人間的な態度が、あらためて怒りをよんでいます。
「裁判はまさしく、原爆被害のとらえ方をめぐる国とのたたかいになっている。被害の過小評価の背後には、アメリカの核戦略と国の核容認政策がある。被爆 者とひろい国民の運動でこの政治を変えていきたい」(日本被団協集団訴訟推進委員長の岩佐幹三さん)
3 ムンバイ
明けて二〇〇四年一月には、インドのムンバイで「世界社会フォーラム(WSF)2004ムンバイ」が開かれます。
WSFは「先進国」大企業中心のゆがんだグローバリズム(世界化)に反対し、平和と民族が共存する「もう一つの世界」を求めて世界のNGO(非政府組 織)が〇一年から毎年開いている国際集会。ムンバイでは日本の被爆者も参加してグローバル・ヒバクシャ集会を開き、「核兵器廃絶」の課題をWSF運動の柱 にしようとよびかけます。
近年の原水爆禁止世界大会には、核兵器廃絶を求める新アジェンダ連合各国の政府代表が参加。「草の根の大衆運動」に「非核をめざす国家」という流れが合 流してきました。これに「第三の流れ」として世界のNGO運動が合流すれば、二〇〇四年の世界は核兵器廃絶に向け大きな一歩をしるすことでしょう。
文・中西英治
24時間座りこみを22年間!
「ホワイトハウスは核戦争の最前線、私は平和の最前線」
ビショットさん
昨夏、被爆者証言ツアーでアメリカを訪ねた旅の終わりに、首都ワシントンDCですごい女性に会いました。
コンセプション・ピショットさん、五九歳。ホワイトハウス(大統領官邸)前で、もう二二年間も二四時間座りこみ、「核兵器廃絶」を訴えつづけています。
ホワイトハウスを正面に見る、ラファイエット公園の歩道。広島や長崎の被爆写真などを展示した大きな看板の横に立ち、通りかかった若いカップルを相手に 核兵器の残虐さを語りかけていました。
「ホワイトハウス反核ビジル(ビジルとは徹夜の見張りのこと)」と名づけたこの行動、生やさしいものではありません。浮浪者規制のため本格的なテント も、横になることも許されず、彼女は「この二二年、横になって寝たことがない」。妨害者から暴行を受けることもあるため、ヘルメットで身を守っています。
「五人の大統領と対峙したが、ブッシュが一番悪い。彼の代になって妨害はひどくなった。ホワイトハウスからレーザー光線を向けられた。深夜、海兵隊員に 看板を壊され、警官に告げたら、『お前が立ち去れ』といわれた」
私が被爆者の一人として、「日本でも広島・長崎以外でこうした行動は少ない。遠いアメリカで訴えていただいて、頭がさがります」というと、「アメリカだ からしなくてはいけないのです。原爆を落としたアメリカの、ホワイトハウス前でやることに意味があるのです。ホワイトハウスは核戦争の最前線、私が立って いるのは平和の最前線。どんな妨害があっても一歩もひかない」。これが彼女の答え。私は感動しました。
スペイン出身。一八歳でアメリカに渡り、スペイン領事館で働きました。ワシントンを訪れた被爆者との出会いが、この行動のきっかけだったそうです。
もちろん無職。ボランティアの支援者たちが、売れ残りのパンなどを差し入れて支えています。ワシントンの冬は寒く雪も多いと聞いて、「日本でカンパを集 めて、携帯カイロをたくさん送ります」と固い握手をして別れ、私は最近その約束を果たしました。
文・中西英治
いつでも元気 2004.1 No.147