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いつでも元気

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特集1 ひろがれ 被爆者と青年の出会い 原爆症認定集団訴訟ささえ 思いひきつごう

 「ぼくたちは被爆者の話をじかに聞ける最後の世代だし、最後の世代にしなくちゃいけない」――被爆者と青年のすてきな出会いがはじまろうとしています。原爆症認定をもとめる被爆者の集団訴訟をささえようとがんばる若者たちを、東京と北海道にたずねました。

「『ふろをわかしておいてくれ』。そういい残して、その朝父は姉を連れて出かけました。それが二人を見た最後で、私は二度と父と姉に会えませんでした」
 たんたんと語りかけるのは、ことし七六歳の被爆者、出島艶子さん。五〇人ほどの若者が息をひそめて聞き入ります。六月のある夜、東京・高田馬場のビルの 一室で開かれた「被爆体験を聞く集い」。主催は、原爆症認定集団訴訟をささえる東京の若者たちです。
 七月に青年の会結成をめざし、メーリングリストに登録した人にニュースを送ったり、学習会や被爆者・東数男さんの裁判傍聴をしたり、被爆体験をきいた り、しっかり活動をつみ重ねています。
 ――一九四五年八月六日、広島に原爆が落ちたとき、出島さんは一八歳。ちょうど参加者くらいの年だった人の体験は、若者たちを強くゆさぶりました。
 広島の中央電話局につとめていた出島さんは、爆心地から六百?の至近距離にある職場で被爆。気がつくと外の道路の真ん中に座っており、顔や全身から血がたらたらと流れていました。
 隣の袋町小学校はその日が登校日。おおぜいの子が被災し、局に逃げてきました。やけどした手を前に突き出し、頭の毛も焼け、顔は倍くらいにふくれあがっ ていました。「私たちは比治山に逃げましたが、なぜその子たちを連れて行かなかったのか。一人でも二人でも連れていっていれば、生き残れたんじゃないか。 毎年八月六日がくるたび、申し訳なかった、すまんかったねと、涙が出ます」
 自身も苦しい戦後でした。孫に血液の異常が出たときは「私の原爆のせいではないかと毎日泣きました。生きていくことが原爆とのたたかいでした」。
 ――話を聞きながら、ハンカチでそっと目をおさえる姿もありました。
 いま被爆者は、原爆症認定をもとめる申請の大半を国が却下している問題で、集団訴訟(後述)をおこしています。認定申請中の出島さんは、「却下されたら 裁判に加えてもらうつもりです。国の態度が改められて、被爆者が『生きていてよかった』と喜びあえる日がくることを願って、さらしたくない傷だらけの体で 話しにきました。若い人に立ち上がってもらって、どんなに心強いか知れません。どうか被爆者に協力してください」と熱くよびかけました。
 主催者の一人、田村亜希子さん(集団訴訟を支える東京の会事務局)は「被爆体験を話すのは辛いのに、自分のような人をつくってはいけないと、私たちに伝 えてくださる。被爆者はこんなにがんばっている。自分の生き方を問われる気がしました。アメリカはイラクで放射能兵器を使いましたが、被爆者は五八年前の 原爆で苦しんでるのに、人の命を何だと思っているのか。核兵器のない二一世紀にするため、私たちがひきついでいきたい。いまは若い私たちが被爆者の生き方 を学ぶ最後の機会だと思う」といいます。

核被害を「小さく」見る政府
 四月一七日、五月二七日、六月一二日と提訴が行なわれ、原告はこれまでに七三人。マスコミも大きく報道し、関心が高まっている原爆症認定集団訴訟。七月二日の長崎地裁を皮切りに口頭弁論が行なわれ、各地で裁判がスタートします。
 もとめるのは、被爆者の原爆症認定申請にたいし厚生労働大臣がくだした却下処分を取り消すこと。
 被爆者ががんなどの病気になった場合、(1)原爆の放射線に起因すること(2)現に医療を要する状態であること―の二要件をみたしていると判定されれ ば、厚生労働大臣が「原爆症」と認定し、「医療特別手当」の支給が受けられます。
 ところが「認定」はものすごく壁が厚いのです。申請はかたっぱしから「却下」。約二八万人の被爆者のうち現在の認定被爆者は二千人余、〇・八%にすぎません。
 なぜこんなに壁が厚いのか。
 じつは厚労省は、被爆状況や生活・健康状態など、各人の実情を全面的に調べるわけではありません。「爆心地から何キロで被爆したか」だけで判断し、距離 の遠い人は「浴びた放射線が少ない」とされます。そして、病気ごとに放射線量によって発症する可能性を確率(%)で現す「原因確率表」なるものを使って、 たとえば二キロ以遠の被爆者が胃がんにかかる「原因確率」は限りなくゼロに近いなどとされ、機械的に申請を却下しているのです。
 集団提訴に先立って、昨年から「集団申請」が行なわれ、申請した人は約五百人。多くは、原爆ゆえに重い病に苦しみながら、被爆距離が遠いなどから「申請 してもどうせ却下される」とこれまで申請をあきらめていた人たちです。「私の病気が原爆のせいではないと国にいわれては、これまでの苦労は何だったのか。 このままでは死んでも死にきれない」。人生の意味をかけた申請でした。しかし、国は大半を却下。そのなかから約百人が集団訴訟の原告になります。
 裁判の焦点は、被爆距離が比較的遠い「遠距離被爆」の人と、肉親をさがすため、あるいは軍隊や医療機関などで救援のため、爆心地付近に後から入った人(「入市被爆」という)の問題です。
 広島・長崎では、自分の傷もかえりみず救援にかけつけた人たちが放射線の急性症状に苦しみ、亡くなっていった例はたくさんあります。国がそれを認めない のは、原爆被害を「小さく、せまく、軽く」見せかけたいから。アメリカの核兵器使用も「選択肢の一つ」と容認する政府にとって「核兵器被害などたいしたこ とない」としないと都合が悪いからです。
 法廷は、その「壁」をつき崩すたたかいの場になります。原爆は、「遠距離」だろうと「入市」だろうと、人間を傷つけ、被爆から五八年たってもなお命を 奪っている、おそるべき兵器である。けっして使ってはならなかったし、使ってはならない兵器である――これを明らかにすることが、裁判の真の主題です。

民医連のとりくみ
 その被爆者をささえて、多くの支援がひろがっています。ことにこの裁判では、認定申請に必要な診断書や意見書を書き、原告の健康も守りながら医学面で裁 判をささえるなど、医師をはじめ医療人の役割が大きい。
 全日本民医連は、弁護団からの要請にこたえて集団的な協力体制をとり、「原爆症認定集団訴訟・全日本民医連医師団会議」を継続して開いています。
 六月一四~一五日に広島で開いた全日本民医連第八回被爆問題交流集会には全国から八九人が参加。熱心に交流して、集団訴訟への対応から、被爆者医療にと りくむ若手医師・若手職員の育成まで、今後とりくむ課題を確認しました。
 交流会に参加した静岡の医学生、阪下紀子さんは「三月に三島共立病院の山本先生、長倉先生たちと、ビキニ水爆実験で被災したロンゲラップ島民の健康調査 に参加しました。恥ずかしいんですけど、それまであまり被爆の問題は考えていなかったんです。日本の被爆者は当然、ちゃんと補償されているんだとばかり 思っていましたから、知れば知るほどびっくりです。戦後五〇年以上たって、たたかわなきゃ救済されないなんて信じられません」と話していました。

50年目にはじめて家族に
 札幌市にある北海道勤医協札幌西区病院では六月一七日、病院の青年ジャンボリー実行委員会と勤医労西区病院支部青年部の主催で「患者さんから被爆体験を 聞く会」が開かれました。若い看護師など三〇人を前に話したのは、集団訴訟に加わった原告の一人、柳谷貞一さん(77歳)。西区病院の患者さんです。
 柳谷さんは日高の浦河出身。「生まれて終戦まで戦争のエスカレートにそって成長、最後はめちゃくちゃにされて九死に一生をえた世代」です。工業学校卒業 を三カ月早められ地元の連隊に。原爆の「あの日」は広島にいました。
 徹夜で対空監視の任につき、眠りについたところで被爆。落ちてきた梁の下から脱出します。山に避難して眺めると「全市がぺしゃんこになっている。信じら れなかった」。うめき、転げまわる被災者たち。足がすくみました。「上官は軍人を救出せよと命令するが市民には見向きもしない。軍隊とはそういうものか。 それが私の心の傷になりました」
 戦後戻った郷里で、立ちくらみ、歯茎の出血、血便、脱毛に苦しみます。後遺症はずっとつづきました。しかし、被爆のことは家族にも話せません。被爆五〇 周年の年、娘さんに原水禁世界大会にいっしょに参加しようと誘われたとき、「負うた子に教えられて浅瀬を渡り」、初めて被爆者手帳を取得しました。
 認定を申請した病気は肝硬変とB型肝炎。いまも異常な疲れと白血球減少があり被爆の影響は明らかです。しかし厚労省はすげなく却下。提訴の日の記者会見 で柳谷さんはいいました。「物見遊山で広島にいたのではない。本土を守る『醜の御盾』として送られた。その私の申請を国が一片の紙切れで切り捨てるのは許 せない。後遺症に苦しむ被爆者をことごとく切り捨てる認定行政を変えてもらいたい、私のような者を二度と出してはいけないと思い、提訴を決意しました」
 最後に「病院のみなさんに感謝しています。裁判をたたかえる体にしていただき、ありがとうございます」と深々と頭を下げた柳谷さん。
 「柳谷さんはうちの患者さん。こんな身近に被爆者がおられたのにびっくり」というのは、会を準備し、司会もつとめた医事課職員の荻生剛毅さん(27 歳)。「被爆を家族にも話せなかったと聞いて、『この人たちは戦争が終わってないんだ』と思った。医療人が毎日してることと戦争は正反対。命を奪うことも 奪われることもいやです。二度と被爆者をつくらないという柳谷さんの思いを僕らの世代が引き継いでいきたい」と話していました。

 被爆者は年をとりました。平均年齢は七〇歳をこえ、人生最後の思いをかけたともいえる集団訴訟です。たたかいは若い力の大きなささえを求めています。

文・中西英治記者

いつでも元気 2003.8 No.142