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いつでも元気

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みんいれん半世紀(1) いのちに離島があってはならない 奄美群島にひきつがれる民医連の精神

 いまから五〇年前の六月七日、民医連は生まれました。半世紀にわたる各地の活動をふり返る新シリーズです。

     ◆  ◆  ◆

 「離島医療ということばになんとなくロマンを感じて…」と笑う菊川誠医師(29歳)は、奄美大島南部、瀬 戸内町の南大島診療所勤務二年目。毎日の診察をしながら、二人の医師で交互に当直に入り、対岸の加計呂麻島へは船で往診という日々ですが、「医者が診るの は死亡診断書を書くときだけという時代に、民医連の診療所を建て、苦労してきた先輩のことを思うと頭が下がります」といいます。

医者にかかるのは死ぬときだけ
 アメリカの占領下にあった奄美群島が日本に復帰したのが一九五三年、翌五四年、全国民医連第二回大会は、奄美大島への「民診」(民主診療所)建設を決議 しました。同年一二月、東京民医連から石垣堅吾医師と、柴田茂子看護婦が派遣され、名瀬市内の紬工場の一間を借りて、「奄美診療所」(のちに奄美大島診療 所と改称)が開設されたのです。
 住民として診療所を支えてきた崎田実芳さん(74歳、当時、奄美復興民主化同盟書記長)が語ります。
 「そのころは、みじめとしかいいようのない生活で、仕事もない、食べるものもない、医者にかかるのは死ぬときだけ。生活保護認定で医療券を受けることが まず、課題でした。住民は、復帰運動後、緊急失業対策事業の実施をもとめたり、生活と健康を守る会をつくって生活保護認定をもとめるなど、生活をまもる権 利闘争にとりくみました」「奄美診療所は、他の医療機関が医療券の取り扱いの知識もなく、生活保護受給者の診察を事実上ボイコットするなか、多くの生活保 護受給者を受け入れてくれました」
 診療所は、開設当初は一日百人、六〇年代はじめでも、県立病院につぐ患者数で、その八割以上は生活保護世帯でした。

力ある者は労働を、金ある者は金を
 「待合いは五人入ればいっぱいなので、診察を待つ患者さんが外で傘をさして待ってましたよ」と、開設の翌年から助手として就職し、のちに看護婦となった定克美さん(65歳、元奄美医療生協看護部長)が当時をふり返ります。
 手狭な診療所は、開設から二年を経て新築移転。「たくさんの人が五〇円、百円と出し合いました。湿地帯だったので海岸から砂利を運んで整地したのですが、リウマチで手足の不自由な婆ちゃんまでハンカチで砂を運んでくれてね」。
 当時訴えられた「力ある者は労働を、金ある者は金を」のスローガンそのままの、住民の力でつくった診療所でした。

本土なみの医療めざし
 新しい診療所は、その後二階に病室を増設。そこで定さんは悔しい思いをします。「結核の子が、喀血で窒息死したの。目の前で、みるみるうちに死んでいったけど、私には何もできなかった。今なら吸引器があってなんとかできるのに」
 設備がないために、助かるいのちも助けられない…。この問題は、奄美大島診療所だけの問題ではありませんでした。六〇年代でも、奄美に一般病院は「県病 院」(県立大島病院)しかなく、しかもその設備は貧弱なもの。また、県病院では医師が数カ月単位で本土に帰り、定着する医師はいなかったのです。
 一九六九年、奄美大島診療所に赴任した永吉清勝医師(59歳、現奄美医療生協理事長)は、「これは離島に対する医療差別ですよ」と話します。永吉医師は 当初二年で鹿児島に帰るつもりでしたが、一年目を過ぎるころ、「ここには地域に責任をもつ医療機関はないのか。ならば、われわれがやるしかない」と決意、 自ら奄美大島に定住することに。
 七七年、診療所は奄美中央病院に発展。人工呼吸器、気管支ファイバー、ペースメーカー植え込みなどは県病院よりも先に導入しました。「同じいのちが本土 では救えるのに奄美では救えないという状況を突破するには、『本土なみの医療』というスローガンでやらざるをえなかったと思います。同時に、県病院への耳 鼻科、眼科設置運動などにもとりくみました」
 「地域に責任をもつ医療機関」をめざした奄美大島診療所。病院化をはたした七〇年代以降の発展は、県立病院や開業医との連携で、地域医療の水準を高める役割をにないました。

医療を後戻りさせてはならない
 入職四年目、四月から南大島診療所にきた事務の吉田大樹さん(26歳)が、一〇月の老人医療費改悪の説明に、在宅の患者さん宅を訪問したときのことで す。「全部のお宅で、そんなに払えないといわれました。酸素も持って帰ってくれって」ショックでした。「診療所では患者さんの負担を軽減するための工夫も しますが、それだけでなくなにか地域に訴える行動をしなければ。これでは必要な医療も受けられなかった昔の時代に後戻りしてしまう」と心配します。

ひきついでいきたい
 永吉理事長は、若い職員に期待をこめて語ってくれました。
 「離島といっても特別なことは何もないと思うんですよ。民医連はどこにあってどのような時代でも、無差別平等の医療をめざす。”人の生命に離島があって はならない”は、そんなわたしたちの合言葉です。この精神と歴史を、若い人にひきついでもらいたいと考えています」

いつでも元気 2003.1 No.135