福島/桑野協立病院 核害の街で生きる
郡山市は人口約34万(2011年3月1日現在)、福島県のほぼ中央に位置しています。明治以前は街道の宿場町でしたが、明治時代の安積原野開 拓、戦後は新産業都市の指定を受け、〝経済県都〟といわれるまでに発展してきました。安積原野開拓の様子は、当時17歳だった宮本百合子氏の小説「貧しき 人々の群」に描かれています。小説に出てくるK村は桑野村のことで、当院の名称「桑野協立病院」の由来でもあります。
創立40周年を迎えて
郡山医療生協は1972年に創立され、40周年を迎えました。 「購買生協が何度もつぶれる土地柄に、医療生協が出来る訳がない、医療が衣料と間違えられる中(中略)一人一人の人間的信頼関係を頼りに、設立の核となる 発起人会に賛同者が組織された」「保守的な地盤が強く、生協不毛の地と言われた郡山に、医療生協をつくることは、コンクリートを崩して種を蒔くような努力 の積み重ねであった」…30周年記念誌『虹をもとめて』からの抜粋です。法人設立は1972年ですが、その後2年間の医師確保のとりくみを経て、1974 年に眼科診療所として診療を開始。1996年からは地域のみなさんとともに「特養建設運動」に着手し、1999年の社会福祉法人くわの福祉会の創設と特別 養護老人ホームおおつきの開設、2000年の富田デイサービスセンター、天神町デイサービスセンター(白河市)の開設へと結実しました。
幅広い医療活動を
桑野協立病院は、「入院施設が欲しい」という組合員の強い要望と 運動によって、1980年53床、内科、眼科を中心とした病院として開設されました。1984年に健康管理科とリハビリテーション科を設置、1986年に は124床へ増床(現在は120床)し、救急病院の指定を受けました。1994年に第3期増改築を行い、外来の拡張、健診部門と入院環境の整備を行ってき ました。現在は、常勤医14人、外来は1日300人前後で、120床すべてを一般病床として運用しています。
500~1000床の大病院が林立する郡山の地で「規模は小さくても健診からリハビリ、在宅まで幅広く対応している病院」と評価され、自治体や急性期病 院、介護施設等との連携を密にして日常活動にとりくんでいます。
核害と向き合う
東日本大震災と原発事故によって地域の様相は一変しました。人口 は33万人を割り(2012年8月1日現在)、子育て世代を中心に市外への流出が続いています。医師をはじめとした医療従事者の流出で、診療科の閉鎖や検 診受入の中止、救急受入体制の後退等地域の医療体制も急速に悪化してきました。
私たちは、震災直後に確認した「患者、利用者、職員の安全と生活を守るため、事業を継続する」「被災者ではあるが社会的役割を果たす」「原発事故による 避難等は行政の指示に従う」という3つの基本方針に基づき、浜通りからの避難者への支援、〝見える化〟をキーワードに、線量測定と1万人を超える参加者を 組織した学習会、子どもたちの被曝軽減を目的としたリセット企画、子どもひまわりプロジェクト、国や東電への損害賠償を求める〝オール郡山〟の体制づくり と、さまざまなとりくみを進めてきました。震災・原発事故直後から今なお続く、全国からの励ましと人的物的支援が大きな支えとなっていることは言うまでも ありません。10月からは内部被曝量を調べるファーストトラックファイバーと6台の食品線量測定装置を活用して、核害対策のより一層の具体化を図ります。 被災者に寄り添い、この地で暮らす主権者として進める〝核害と向き合う〟とりくみは、世代を継いでの長いたたかいとなります。引き続きご支援をお願いいた します。
(桑野協立病院 事務長 江川 雅人)
「民医連事業所のある風景」 『民医連医療』2012年11月号.No.483より