宮城/松島海岸診療所 再建に向けて一歩ずつ前進
松島は、日本三景に入る風光明媚(めいび)な地です。2011年3月11日に発生した東日本大震の大津波が来襲したとき、近隣市町村に比べ被害が少なかったのは、松島の島々が守ってくれたからだと言われています。
松島海岸診療所の誕生からこれまで
1970年4月ごろから、坂総合病院の協力を受けて、松島町で農 民組合、新日本婦人の会、生活と健康を守る会を中心に無料の血圧測定を行い、この運動が「診療所を自分たちの手でつくろう」という運動に発展していきま す。1970年12月9日に開所式が行われ、診療は変則的で施設なども借りものでしたが、周辺住民には大歓迎されました。新しい診療所の建物は12.5坪 とささやかながら、1971年3月に完成。5月21日、地域住民の力を基盤に、住民運動として発展をめざした松島医療生協が誕生しました。
1972年に待望の常勤医師が赴任。設備の充実をはかりました。1978年1月に歯科診療所を開設するなどの事業拡大。「いつでも安心・地域住民ととも に信頼される診療所」をめざし、地域住民の声に応えてきました。しかし経営的には歯科は予算未達成が続きました。この事態を多くの理事の努力により、切り 開きました。職員と共に地域に出て出資金の積立運動、班会開催、組合員訪問検診にもとりくみ、組合員増加は毎年300~400世帯を維持。出資金の増資も 年間700~800万円と安定して伸び、1988年度末には組合員数は64パーセント増、出資金は約2倍に増加しました。
2002年度に野蒜(のびる)歯科診療所不正請求事件が発覚。保険医療機関指定取り消し処分で危機的事態に直面し、私たちは「組合員への最大奉仕の原 則」に忠実な生協として信頼を回復できるよう、職員教育を重視し事業所管理運営の改善を役職員が一体になってとりくみました。そして何より多額の資金援助 と幹部職員の派遣など、宮城民医連と加盟事業所の支援のおかげで、困難を乗り切ることができました。通所デイサービス「なるせの郷」や介護相談センターを 開設し、介護に重点を移した事業を強化。累積欠損金を減少させてきました。
2011.3.11東日本大震災
東日本大震災で、私たちはかけがえのない仲間と宝を一瞬にして失いました。
津波により診療所は床上浸水し、レントゲン機や歯科ユニット等の医療機器が損失しました。隣の東松島市にあった「居宅介護支援デイサービスなるせの郷」 は建物を瞬時に破壊され、職員3人と利用者12人の尊い命を失いました。大震災の影響は、経営にも如実に反映しました。建造物や医療機器の損失被害額は現 在2900万円を超え、いまだ修繕途中です。壊滅的なダメージを受け、家族・仲間を失った悲しみをこらえながら、私たちは心を奮いたたせて組合員・職員 が、ともに作り上げてきた松島医療生協を守らなければなりません。復興までの道のりは果てしなく険しい。しかし希望の絆を胸に、私たちは再建に向けて一歩 ずつ前進していきます。
おわりに
被災後、全国から支援に駆け付けてくださった民医連職員の方、困 難な体制の中で送り出して下さった多くの民医連職員に、心から感謝します。ヘドロ除去と清掃、カルテ整理、デイ利用者の送迎、避難所の医療支援、組合員や 地域への訪問、全日本民医連からの支援物資、そして励ましのメッセージの数々…。
私たちが今も心の支えとして頑張れるのは、患者、利用者、組合員の方々と再会できた喜びとともに、全国の民医連職員の支援のおかげです。今回の支援を永 遠に忘れません! ありがとうございました。
(松島海岸診療所 医科事務長 佐藤良治)
「民医連事業所のある風景」 『民医連医療』2011年9月.No.469より」