広島/福島生協病院 新病院構想づくりへ
無医地区に住民の力で診療所開設
福島生協病院の歴史は、無医地区であった被差別部落に自分たちの 診療所をつくりたいという願いから始まりました。差別と貧困と被爆という三重の苦しみの中にあって、1955年8月に民間の住宅を借り上げて出発した福島 診療所は、4年後には病院となり、診療科を拡大し、総合病院化をはたしてきました。55年の歳月を経て、現在は、爆心地から西に1.8キロメートル地点の 平和大通り沿いに、地下1階、地上7階建ての建物を有する医療機関になりました。
被爆診療と生活相談活動
被爆地ヒロシマの民医連病院として、被爆者医療には力を注いでき ました。被爆診療科を設置し、被爆者の健康管理を進めました。また「黒い雨」問題では、職員が聞き取り調査にとりくみ、原爆集団訴訟には医療専門家の立場 で支援を行いました。毎年8月6日には院内で平和集会を行っています。
診療所設立の翌年から生活相談活動をスタートさせ、5年後には相談室を設置。広島の病院でソーシャルワーカーを最初に配置したと言われています。地域住 民の暮らしぶりが厳しく、病院にかかっても医療費が支払えない人も多く、心身ともに荒廃し、アルコール依存症患者も後を絶たないという実態の中で、社会保 障運動へのとりくみと両輪の医療活動だったわけです。現在では、他団体とも協力して、広島市では国保の資格証を発行させない到達点を築きあげています。
経営危機も乗り越えて
何度か経営危機にも見舞われましたが、持てる力をフルに発揮して 乗り越えたという経験も持っています。福利厚生施設を収益の生み出せる事業施設へ転換、新規事業の立ち上げ、病棟再編や医療材料在庫管理システムの導入な どに盛んにとりくみました。経営情報の開示と共有化に努めて、職員の経営参加を進めて乗り越えてきた経験は、様々な問題に遭遇する場面で、病院組織の底力 となっています。
切れ目ない医療活動をめざして
2000年10月には門前診療所「福島生協内科クリニック」を開 設、慢性疾患医療を独立させ、在宅医療を発展させました。2005年6月には、広島市内のさらに西部地域に、法人内2番目の病院として、療養病床を持つ 「生協さえき病院」を建設し、ベッドを分離して急性期と慢性期の機能分担を進めました。その他、法人内の、医科診療所・歯科診療所・訪問看護ステーショ ン・居宅介護支援事業所・地域包括支援センター・ヘルパーステーションなどと連携して、健診・急性期・慢性期・在宅・介護と切れ目ない医療活動をめざして 活動しています。
現在の福島生協病院は、7対1病棟を3病棟、障害者病棟1病棟の4病棟をもつ165床の法人内センター病院で、積極的に近隣医療機関との医療連携にも努 めています。建物の老朽化も進み、いよいよ建て替えを展望して、あらためて地域要求をくみ上げ、新病院医療構想づくりへと、再スタートを切ったところで す。
(福島生協病院 事務長 田中 敬子)
「民医連事業所のある風景」 『民医連医療』2010年8月号.No.456より