山梨/共立診療所さるはし 地域の熱い期待に応えて 郡内地域に民医連の拠点が誕生
山梨県を二分する郡内地域に初の民医連事業所がオープン
日本三奇橋のひとつ名勝「甲斐の猿橋」の最寄り駅はJR猿橋駅です。この駅の南口から徒歩1分のところに、共立診療所さるはしがあります。
この共立診療所さるはしは、山梨民医連の空白地域であった郡内地域初の民医連事業所として、山梨民医連と地元住民の熱烈な思いが結晶して、今年1月11 日にオープンしました。
郡内とは、山梨県の東部・富士北麓を指し、甲府盆地を示す国中と山梨県を二分する地名です。この郡内地域は、御坂山塊という山梨県を南北に走る山脈に よって甲府盆地を中心とする国中地域と地理的に分断されており、この地理的特性は、社会的にも経済的にも大きな影響を与えています。さらに、この地域は、 富士五湖のひとつ山中湖から流れ出て北流する桂川(相模川)沿いにわずかな平坦地があるのみで、そのほとんどが山地となっています。加えて、富士山麓は冷 涼な気候に火山灰地であって、農業生産だけでは暮らしをたてることが困難な地域で、古くは織物を副業にしていました。
無産者診療所の歴史を背負って
この地域の民医連運動は、戦前を含め三たび生まれました。一度目は、戦前の「岳北無産者診療所」の運動です。この地域は、このような土地柄からか、戦前 から労働者・農民運動が盛んであり、1931(昭和6)年、岳北無産者診療所は現在の富士吉田市に「吉田、船津、忍野の農民組合や関東消費組合の吉田共働 社の組織を基盤として」生まれました。わずか1年の活動で天皇制権力の弾圧等により閉鎖させられましたが、一時は労働者・農民からなる無産者医療同盟員が 260人を数え、日常診療に加え、労働争議の応援や班会への出張診療、医療懇談会の開催など多彩な活動を展開しました。
二度目は山梨勤労者医療協会の倒産(1983年)前後の取り組みです。富士吉田市や大月市の民主的医療機関を求める地元住民と山梨勤医協の連携により用 地選定作業などが行われました。しかし、倒産前の弱点と再建闘争下の諸困難によって実現に至らず組織もなくなってしまいました。そして、今回の三度目の取 り組みによって、ついに郡内地域の民医連運動は、自らの医療機関を75年振りに実現しました。
いつまでも住み続けられるまちづくり運動の一翼を担って
山梨民医連は、1996年に策定した2次長計で郡内地域への医療展開を方針化しました。しかし、その実践は遅れ、ようやく組織担当者を配置したのは 2000年の春でした。以来5年の歳月をかけ、共同組織づくりから始めた診療所建設運動は、様ざまなドラマを生みながら、今年1月の診療開始を迎えまし た。この間、対応する共同組織である「郡内健康友の会」は、211世帯2班から1600世帯40班へ大きく成長しました。また、診療所の運営母体である 「郡内共立福祉医療会」は、一昨年10月の設立時1億5千万円の建設協力資金の目標を立て、募集対象となった友の会会員の献身的な協力によって、この3月 に目標を達成しました。まさに「共立(山梨では民医連をこう呼んでいます)のような診療所が郡内にもほしい」という地元住民の願いが火花から炎となって燎 原の火のように郡内中に燃え広がった成果です。
完成した診療所は、電子カルテ、超音波診断装置などを装備し、かかりやすい外来活動から慢患・在宅・健診などの各分野の活動も開始して、開所以来の実患 者数は1200人を超え、現在は1日平均患者数は27人となっています。
さらに、郡内地域の階級的民主的医療運動やいつまでも住み続けられるまちづくりの一翼を担う課題でも取り組みを始めました。先に開かれた2・9国民大集 会の呼びかけに応えて、当診が事務局となって、郡内地域12団体が「『許すな!医療改悪・大増税』郡内地域大運動連絡会」を結成し、4月2日には、診療所 2階の大会議室に64人を集めて学習決起集会を成功させました。
いずれにしても、開所以来短い経験しかありません。真価を試されるのはこれからです。郡内健康友の会のみなさんに依拠しながら、地域住民が健康で安全 に、安心して住み続けられるまちづくりの一助となれるよう、職員一同、今後も一層力を尽くしていきたいと決意を新たにしています。
(共立診療所さるはし 事務長 根津 健一)
「民医連院所のある風景」 『民医連医療』2006年6月号.No.406より