Special Interview 特集 人として、医師として…何を学び、どう生きるか。
新しい世紀をごく間近にひかえたいま、
さまざまな困難のなかで、社会も人もそのあり方を模索している。
人として、医師として、21世紀の社会をつくる主役として、
みなさんは何を学び、どう展望をもって生きていくのか?
どう社会とかかわり、変えていくべきなのか?
子どもたちを愛し、「希望をはぐくむ」教育に長年
たずさわってこられた三上満さんと
医学生の山井太介さんが、いまの医療、教育、学生生活の
現状をとおして考え、みなさんにメッセージを送ります。
三上 満 Mitsuru Mikami
1932年東京生まれ。東京大学卒。文京・葛飾区の中学校で社会科教師。全日本教職員組合委員長、全国労働組合総連合議長などを歴任。
現在、「子どもと教育・文化を守る国民会議」代表委員。
主な著書に、「教師への伝言」(新日本出版社)、「宮沢賢治 修羅への旅」(文、ルック)、「きびしさの復権」(新評論)、「歴史のリレーランナーたちへ」(旬報社)、「眠れぬ夜の教師のために」(大月書店)、その他多数。
山井太介 Daisuke Yamanoi
千葉大学3年。1973年生まれ、東京都大田区出身。育ちは多摩の山奥。現在、医療系学生と在宅医療のボランティアサークルを設立中。趣味はビリヤードとサッカーと車いじり。好きなものは首都高速環状線外回り。嫌いなものはその渋滞。
山井 最初に、いじめ問題についてお聞きしたいと思います。最近の「いじめ」は昨日までいじめっ子だっ たのに今日はいじめられっ子になるとか、どんな子どもでもいじめられる可能性があるということをよく聞きます。それだけいじめが多くなっていると思います が、先生はどのようにお考えですか。
子どもたちはみな、いじめられている!
三上 「いじめ」は、いまの子どもたちがかかえているさまざまな困難な問題のひとつの集中点だと思いま す。その最も鋭いかたちは自殺だろうと思いますが、文部省の発表でも中学・高校生で激増しています。そういう数字がいまの子どもたちの危機をあらわしてい ます。確かに子どもたちは未熟だから、ちょっと毛色が変わっていたり異質な雰囲気のする子に、いじめというかたちで向かうことはいままでもずっとあったと 思います。
井上靖さんの『しろばんば』のなかで都会から来た娘がみんなからいじめられる場面がありますが、田舎の子どもたちのなかに突然に舞い降りた都会のお嬢さ んがそういう対象になるのです。しかし、そういうことをのりこえながら「いじめられる子もつらいのだな、やっぱりいじめはいけない」ということを自然のな かで学びながら成長していくのです。そして大人になったときに、それが少年時代の思い出として語られて、逆に自分たちの人間的成長を確認するというもの だったと思います。ところがいまのいじめは、明らかにそれとは違う状況が生まれています。いまの子どもたちは、みな自分自身がいじめられているという感覚 があるのです。社会や親や、場合によっては学校から攻撃的にやられているという気持ちです。「学校へ行っても勉強がわからない」「先生に心を開いても対応 してもらえない」「親からもせきたてられる」という状況のなかで、それが社会に対する敵対心となって、俗に言えば「ムカつく」「イラつく」ということかた ちで現れるのです。自分が攻撃されていると思う心のバランスをほかの子へのいじめではらす、というのがいまのいじめです。だから、どんな子どももいじめの 対象になるのです。そして、いじめっ子集団をつくって、あるいはいじめっ子が一人の場合でも特定の対象をつくって、繰り返し繰り返し執拗にいじめるという 状況を生みだしています。そのやり方もマスコミなどにも影響されて、いじめが子どもたちの不満のはけ口になっています。これは、子どもがすごく性悪になっ たのでもなく、もともと人をいじめたくてしょうがない存在なのでもなくて、そういうふうに追い込まれている子どもの姿がそこにあるのです。小学校のある教 師が「世の中に腹が立てば立つほど子どもにはやさしくなれる」といつも言っています。いじめがあれば、その背景にある子どもたちの状況をしっかりと考えて みなければいけないと思います。
山井 医学生の大半はそういう時代に生きています。しかも、これから医師として人間に関わる仕事をしていくことになります。これから、この問題にどうとりくんでいったら良いのでしょうか。
三上 いじめは深い社会的背景がある問題で、社会そのものがいじめの構造をもっているのです。いま企業 では異端な者をいじめて仕事をとりあげたり、平気でリストラしたりと大人も社会のなかでいじめられています。そういう社会全体のいじめの構造を正していく ことが必要です。同時に、子どもにとっていちばん重要なのは、ムカつきやイラだちをおこす負担そのものをとりのぞいてあげることです。ある小学1年生が 95点の答案を返されたら「100点じゃないと意味がない」と丸めて放りなげちゃったそうです。「間違ってもいいんだよ、できなくてもいいんだよ、ゆった りのぼっていきなさい」という教育の雰囲気が失われているのです。学習内容をもう少し精選して、ゆとりを持ちながら子どもたちの気持ちを少しでも解き放っ ていくこと。そのためには子どもの良いところをたくさん見つけて「こういう良いところがあるじゃないか」とほめてあげることが大切です。私の教え子が悪い ことをして謝りにいった帰りにいろいろと話していたら、その子は万引きだけはしてないと言うので「なんだ、万引きだけはしないワルだったのか、えらいよ な」と言ったら「俺も良いところがあるだろ、先生」と喜んで、それから彼はうんと変わりました。子どもが何を訴えているのか、何が不満なのか、何が心の中 にわだかまっているのかを聞きとる教師が本当に求められていると思います。もし、そういう教師にめぐり会ってきた体験があるならそれを大事にしてほしい し、そうじゃないなら、これから自分がそういう人間になるようにしてもらいたいと思います。あなたのまわりには、いじめの問題などはあったのですか。
温かさと厳しさ、両方もった学校を
山井 僕は小学2年生の時から、身体障害者の友だちの世話係をやっていたんです。子どもだから、何が正 しいとか考えてやっていたわけではなくて、ただ友だちだからいろいろと手伝ってあげていたのです。まわりの子はその友だちをよくいじめていて、僕がかばう と今度はいじめが僕にもくるようになりました。最初は味方になってくれていた友だちもだんだん減ってきて、卒業間近になると完全にクラスの中で孤立してし まう状況でした。あのときの僕は”弱い者“というよりも”友だち“という感覚のほうが強かったのです。彼は言葉も不自由でしたが、クラスの中で僕が一番コ ミュニケーションがとれて彼の言うことを理解できたし、僕が味方をしなかったら本当にいじめられてしまう存在でした。中学校は彼と別の学校にすすんだので すが、同じ小学校出身者が「あいつね、シンちゃんとつき合っていたんだよ」と言いふらしたのです。「シンちゃん」という言葉には、蔑んでいる感じがしてす ごく抵抗感をもっていました。
三上 あなたがそういう経験をした80年代の後半は、学校がそうとう荒れていた時代で、いまと同じよう に不況で高校進学も非常にしづらく、中学浪人などが出るような時期でした。一方では高校の序列がつけられて、偏差値体制が最高になっていたときです。あの 時期に町田市の中学校で、教師が生徒をナイフで刺すという事件がありましたし、中野区の中学で「お葬式ごっこ」の色紙に先生も書き添えてしまったという事 件がありました。子どもたちの持っているムカつきとかストレスが本当に大変な時期でした。それを想像すると、あなたが立ち向かって正義の立場を貫かれたと いうのは、本当に立派なことだと思います。私の教え子たちにも、そういうことに負けない子もたくさんいたけれども、あの時代の状況が「シンちゃん」と表現 するような子どもたちのモラルの退廃を生み出していたのでしょう。ちょうどその時期に『3年B組金八先生』というドラマがはじまって、ムカついたりイラつ いたり荒れたりする子どもたちを受け入れて、心と心を通わせながら実践していく『金八』という教師像が登場します。もちろん、あれは特定のモデルの一代記 ではなくて、いろいろな教師のやっている実話を寄せ集めてかき回してつくった教師像だから、脚本を書かれた小山内美江子さんも「一人の教師があんなことを 毎週やっていたら死んでしまう」と言われるように実在はしないけれども、本当に先生たちも苦しみながらがんばっていたということです。子どもたちの中には ねじ曲がった行いをする子もいるけれど、本来そういうもんじゃなくて、ねじ曲げさせられていることを受け止めようじゃないかと。私も小山内さんに「金八先 生のモデルの一人ですよ」と言われているんですが、確かに私なりきの教師像が入っているし、著書から直接エピソードが採用されているのです。私はその頃 「学校には表門と裏門が必要だ」とよく言ったのです。あなたのように正義を貫こうとするとかえってやられてしまったり、ちょっと変わり者みたいになってし まう学校ではダメだと思う。正義は貫かなければならないし、だけどみんな心に傷を負って、悪いことをしたり、違反したりすることもある。それに対して「お まえはもともと性の悪い人間だ」みたいに決めつけてしまったのでは教育にならない。温かさと厳しさを両方持ち合わせた学校をつくろうとやってきたのです。 でも、あなたのそういう体験が、医師を目指した一つのきっかけになっているのではないですか。
山井 それも大きいと思います。ただ、鍼灸師の父の仕事をみていて比較的小さい頃から考えていたので す。患者さんが治療代を払って「ありがとうございました」と言って帰っていく。普通はお金をもらう側が言うことなのに、さらに感謝されるのを見ていて、こ ういう人の相手をできる仕事がいいなと感じました。できることなら弱者を見捨てずにむしろ重点をおいて、誰でもがかかれる医療をやっていきたいと思ってい ます。
大学というコミュニティで培うもの
三上 人間の労働で人と関わらない仕事はないと思うけれど、それでも医療や福祉や教育は、じかに人に働 きかけて、病を治したり、ケアをしたり、心や身体や人間らしさを育てる仕事です。やり甲斐もあるけれど、同時に大変デリケートで難しい仕事でもある。医師 の道を選んで、しかもそれをただ技術面だけでとらえずに”医の心“というか、心も一緒に育ててくれるような大学の教育があると非常にいいと思うのですが、 そういう点はどうですか。
山井 少なくともいままでの授業ではあまりないし、患者との問診の方法とかコミュニケーション能力とい うものに関しては、それこそまったく授業がないので、大学では学べないなと思います。僕は人と話すのがとても好きですが、誰とでも話せるかといったら自信 はありません。でも医師になったら、子どもからお年寄りまであらゆる患者さんがいるわけで、そういうことを考えるといまの大学の医学教育だけではいけない のではないでしょうか。
三上 大学は授業や実習で教えられると同時に、大学自体が一つのコミュニティなのです。そのなかに人間 的な友人との付き合いや自主的な研究会やサークルなどがたくさんあって、そういうなかで根本的には人間として生きている喜びなどを培っていくのです。それ は上から言われたものではなく、自主的な活動の中で生まれるもので、だから私は医ゼミ(注)みたいな全国の医学生が集まって自主的に開くゼミは非常にいい 機会だと思います。私が学生の頃、当時は戦後で学校が荒廃していてほとんど設備もないなかで、学園復興闘争というのをやって、そのなかで本当に民主主義的 でしかも国民に奉仕する学問を自分たちの手で創造していこうと学科別ゼミナール運動というのをやったのです。中でも一番大きく活動したのが教育系学生のゼ ミナールでしたが、医ゼミもその時から行われているはずです。一昨年、浜松医ゼミに講師で行った時、規模も内容も発展していてびっくりました。ああいう自 主的なゼミナール運動をしていけば、単に技術を習得するだけで国家試験を通ればそれでおしまいという医学生ではなく、何のための医療なのか、何のための学 問なのかを多いに学べると思います。学問としての医学は、人を生かすだけでなく人を殺すための医学だってあるわけです。戦争中の医学なんてものはある意味 ではそうです。「七三一部隊」もそうですし、沖縄戦では一緒に逃げられないけが人を実際に医療行為として殺したわけです。そういったことを考えると、本当 に何のための医療なのかという根本を、先生が教えてくれなくても自分たちで学ぶという生き生きとした学生生活をぜひ送ってもらいたいと思います。
社会に眼をむける余裕のない学生生活
山井 いま大学の中で、在宅医療の患者さんのボランティアサークルをつくろうと、医学生だけでなく、看 護学生や放射線技師の学生も誘ってとりくんでいるのです。ふつう医師は患者さんを病院でしかみないけれど、その患者さんには生活があって、広い視点でその 人の社会的背景を見なければいけない、とこのサークルをつくろうと思ったのです。いまのところ7~8人ですが、いろいろ勉強してもっと仲間が増えてくれば いいなあと思っています。
三上 そう、仲間を広げてね。教師の場合も、大学で教育技術を学ぶだけの学生生活から育つ教師よりも、 自分たちで実際に少年団や児童館に行って、子どもとじかに接する活動をしてきた学生が教師になるほうが、優れたいい教師になっている人が多かったようで す。あなたのように、実際に地域に出て患者さんに接して学んでくるというのは大切だと思います。社会的な関心という点では、まわりの学生さんはどうなんで すか。
山井 カリキュラムも過密で忙しくて、なかなか時間がありません。大学や部活、それに学費を稼ぐためにバイトをやっている人もいて、それで手一杯になって、社会的な部分にはあまり目がいかないのかなと思います。
三上 バイトは、やりようによってはよい社会経験になるけれど、そのことが本来身につけるべき勉学の障 害になるなら、日本の奨学制度の充実などをもっと考えなければいけない。奨学金に利子をつけて返還させるという改悪の動きをやめさせて、逆にもっと勉強で きるように充実させるということが必要です。そもそも日本は、大学の学費保証などで世界の水準からずっと遅れているのです。いまはかなりの比率で大学に進 学するから実感がないかもしれないけれど、私が学生のときは大学生は同世代の青年ほんの一部で、ほとんどは働いて社会に貢献していた。自分たちは、その人 たちの労働の一部を捧げてもらって勉強し、学生生活を送っているのだから、将来は本当に国民のためのインテリゲンチアにならなければいけないといった議論 をよくしたものです。いまはそんな話はありませんか。
山井 ないですね。以前に「君たち一人につき1年間で何百万円という国のお金を使っているんだ」と先生 に言われたことがあって、その時はハッという感じがしましたね。いま国立大学の独立行政法人化がすすめられようとしていますが、大学でも学生が勉強会を自 主的にやっています。医学部などは年間の学費が420万円ぐらいになるという試算も出ているようです。そうなれば途端に行けなくなってしまいます。
三上 国立大学の独立行政法人化は、国の大学政策が企業主義になるステップの一つだから、何としてもや めさせなければなりません。本来、医学生は国民のために命と健康に関わる仕事をするのだから、将来のために損得抜きで国が費用を出すべきなんです。その一 方で無駄な公共事業に何十兆円ものお金をつぎ込んでいるわけですから、こういう逆立ちした世の中を直さなければならないと思います。私はいま、大きな視野 で言えば、人類の歴史がとてつもない大きな分岐点にさしかかっている気がします。その一つが、核兵器の問題です。このままでは本当に地球人類を破滅させか ねない状況にあるけれど、同時にここまで来て引き返そうとなった時の足どりはいっそう力強いと思うのです。崖っぷちまで見たからいいかげんなものではない し、絶対に引き返そうとなっていくと思うのです。二つ目には、社会のあり方の問題です。社会全体からいえば、資本主義という社会がはじまってやりたい放題 に労働者を働かせて平気だという風潮が世界を覆い、それに対して少しずつ労働者がたたかって、人間らしく働けるようにと規制してきたわけです。いまそうい う規制をまた全部取っ払って、女子保護規制の撤廃とか、福祉の自己責任とか、難しい言葉で言えば”新自由主義“というのだけれども、規制緩和と称してすべ ての歯止めをはずしてしまい、社会的な下支えがない社会に向かってすすんでいくのか、それとも誰もが安心できる世の中に向かってすすんでいるのかの分かれ 目にきている。高齢者の老後が不安だという問題はお年寄りの問題ではなく、子どもや青年の問題なのです。子どもにしてみれば「年をとったらああなるのか」 と先行きが暗くなる。まさにいまの子どもたちの「どうせ真面目にやってもしょうがない」という気持ちの中にそれが現れています。いま本当に世の中を良くし ていかないと大変だと思うんです。競争や効率化や能率や企業主義ばかりが幅を利かす世の中になったとしたら、どんな人間が生き残るのかと考えたら、一番い い例が日栄の社員のように「おんどりゃ、目ン玉売れ」というふうに人間があさましい姿になって生きていく世の中です。あの社員だってけっして子どもの頃か ら性悪で人を脅かしていたわけではく、社会がそうさせたわけです。そんな風に生きなくてもすむ社会をつくらないと。そのためには最低のことが安心できて、 たいていのことは損得抜きで政治が支えてくれる、そういう社会にむかうのかどうかの大きな分かれ目なのです。そういう分岐点に立って私たちは、これからの 社会を人びとが安心できる確かな未来像を創っていかないといけないのではないかと思います。
勉強嫌いを生む日本の教育を変える
山井 医師は本来、患者さんのことがよく見える立場なのだし、病院に来た患者さんだけをみているのでは なくて、どんな患者さんでも病院にかかれるような社会的状況をどのようにつくるのか、そのための医師の役割は何なのか、もう少し社会的なことにも目をむけ て勉強しないといけないと思います。しかし、いまの教育にはそういうことを学べる視点が欠けていると思います。僕は医学に限らず日本の教育全般に何か足り ないように思うのですが。
三上 日本の中学生を例にとると、一つの大きな特徴があるのです。学問の国際比較でみると得点は非常に 高いけれど、二つの点で大きな問題点をもっています。一つは、答えがはっきりしている解答欄の得点は高いけれど、選択肢がいろいろあるような解答や文章記 述が必要な問題になると途端に点数が下がる。つまり、解答が並んでいて選ぶものは高いけれど、順序立てて考えて自分で組み立てる解答は苦手だということで す。もう一つは、勉強が好きか嫌いかという調査になると、どの調査をみても日本の子どもたちがいちばん勉強嫌いなのです。点数はとるけど勉強は嫌いとい う。ここに日本の教育の問題点が一番象徴されているのではないかと思います。つまり、競争社会だからそこそこやらないと高校にも大学にも入れないから勉強 する。受験が終わったらほっとして、もう嫌なものから逃れられたのだという意識になってしまう。大学はとくにそういう雰囲気があるのかな。「あの苦しい受 験勉強から逃れられて、これでしばらくはパラダイスだ」というような。リトアニア人の留学生が「大学は勉強するところなのに、日本の学生は勉強しない」と いっていつも嘆くのです。これが日本の教育の大きな問題だし、それは医学生も同じじゃないかと。させられている勉強から、どうやって自分自身の自主的な学 びにしていくのか。授業で教えられる勉強の時には出席もよく、テストも点をとるけど、自主的に学ぼうとするとなかなか人が来ないという。それを学生さん自 身の力で打ち破ってもらいたいのです。
学ぶということは自ら探求すること
山井 「最近の学生は問題解決能力もないけれど、人の話を聞いて何か質問はあるかと聞いても質問もな い。そういう意味で、問題を見つける能力も欠けている」と言われたことがあります。僕もそれはすごく痛感しています。最近は、政治のことや医療関係の問題 などを学んでいてすごくおもしろいと思うし、学んでいこうと思うのですが、そうすると大学の勉強のほうがおろそかになって、自分でも注意しないといけない と思っています。やはり医師には、大学でやる知識も必要だと思うし、その上で社会的な問題にも目を向けなければいけないから、そのへんをうまく自分で調節 しなければと思っています。
三上 私はいまでもドイツ語の勉強をもうちょっと突っ込んでやっていればよかったと悔いがあるね。大学 で勉強をすることは、一つのモラトリアムの期間なのだから、大学の授業もおろそかにしないで勉強で生かしていく、同時に学問というのはもともと自分の必要 性と問題意識で探究していくものだという基本はふまえてもらいたいと思います。私は教育学部で、卒論は「宮沢賢治における労働と教育」というテーマだった けれど、教授から「宮沢賢治が教育学の論文になるのか」と言われて「してみせます」と。それで突っ込んでとりくんで宮沢賢治と格闘したあの一年間は最高 だったなあと自分でも思います。学問として燃焼したそういう一年間をもっているだけでも幸せだったね。学ぶということは自ら探求するということ。医学生の 授業は学ぶ内容が多いからたいへんだと思うけれど、しかし専門職になるためには大事だし、専門的な知識や技術がない人に医療をあずけるわけにはいかないわ けだから。だから国家試験も突破しながら、同時に医師としての社会的使命について考えたり、いろいろな人たちと豊かに心を通わせて学んでいってほしいと思 います。医学生のみなさんが幸せだと思うのは、医学部は学ぶ内容と目的が決まっていて入学するわけでしょう。他学部の学生はそうはいかない。医学生は、自 分のすすむ道や学ぶ内容や目的を明確にしてスタートを切っているから、一層いい学生生活を送れると思う。しかし、同時に、うかうかすると自分の大学生活を かえって単調なものにしてしまって、上から教えられるものだけを学ぶ生活になってしまう要素になるかもしれない。だから、自分の中で学んでいくことと専門 的なことを両方統一して、しっかり学んでほしいなあと思います。
人間をほんとうに守れる社会を
山井 最後に、僕たち医学生がこれからの学生生活を過ごしていくうえで、何かメッセージをいただけたらと思います。
三上 教育とは本来「人間を人間らしくさせる」ためのものなのです。よりよい状態を描いてあこがれや希 望を持てるのは人間だけです。そういう意味からいえば、教育というのは希望を育むこと意外に目的はないのです。それ以外のことを目的としたら教育は歪んで しまう。希望を育むということは、私は三つのものへの信頼だと思います。一つは、自分自身への信頼。二つ目は、自分自身への信頼を通じて人間全体への信 頼。人間には変わった者もいるし、こけることもあるけれど、長い歴史をみればやっぱり人間は信頼できるのではないか、自分の回りにも結構そういう仲間がい るんじゃないか。三つ目は歴史に対する信頼感。なかには「この世界は物騒だから核兵器を持たなければいけない」という、歴史はまったく進歩しないという人 間観や歴史観をもつ人がいます。確かにそういう時代もあったから、19世紀末の世界ならそういう世界観でいいでしょうが、それだったらこの100年間の歴 史を完全に否定することになります。人間は確実に進歩して、物事を話しあって解決したり非人間的な兵器を国際的に禁止したりと前進してきているのです。そ ういう歴史の発展に対する信頼感を持って青年は学んでほしい。そしてただありきたりに生きるんじゃなくて、将来を見すえて生きていってほしい。それが青年 らしさだと思います。よりよい世界はどうなるのか、よりよく生きる人間はどういう世の中をつくっていくべきなのか、これを見通した友だちとの議論や語りあ い、場合によってはけんかもして、おおいにやりあってほしいと思います。そして、大きな人類史の分かれ道みたいなところに立っている時代の大学生として、 少しは問題意識をもって勉強してもらいたいと思います。医学だってせっかく学んだことを人びとのために使えない場合だってあるのです。病人にはなれるけど 医療を受けないと患者にはなれない。お金がなければ患者になれないわけだから。たとえばホームレスの行き倒れの人が入院してくる。やむをえず病院を住所に して、生活保護を受けて治療をする。ところが治ったらどうするのか。医療だけでは世の中の人びとは救えないという問題はいっぱいあると思う。医療がそうい う人たちを守れる政治や世の中にしていくということが大事なことだと思います。その辺のところまでつっこんで学んでほしいですね。大学の医学部に入るとい うことは、ある意味では受験競争レースの勝利者だから、勝利者で止まってしまう大学生活ではなくて、この機会を自分の努力もあった、親の支えもあった、そ して友だちの励ましもあった、社会がここへ送りこんでくれたのだという、ここから先どうするのかということを学生の人たちに考えてもらいたいと思います。
山井 ありがとうございました。先生のお話を大切にしてこれからの学生生活を送っていきたいと思います。
●注「医ゼミ」……「全国医学生ゼミナール」のこと。全国の医学生・医系学生が医学、医療、社会保障などを自主的に学びあい交流することを目的に、毎年夏に開催されています。毎年千人近い参加者があつまり、43回目となる今年は香川で開催されます。
Medi-Wing 第16号より