INTERVIEW いま求められている医師の社会的使命とは
診察室や病室、オペ室で患者さんの治療をすすめる。
症例を検討し、常に立てたアンテナで新しい医学情報をキャッチ、
学会に発表する研究論文にもとりくむ――。
医師という職業にはさまざまなことが求められる。
しかし個々の医師が、たくさんの生命とどう向かい合うのか、
その姿勢もさまざまである。
生と死に直接たずさわる者に、いま、何が求められているのだろうか。
医師にしかできないこと、医師としてしなければならないことを、
患者さんとともに考えてみよう。
INTERVIEW………1
科学の前提に人権意識を!
ハンセン病と社会の偏見・差別とたたかいつづけて――平沢保治さん
ハンセン病――らい菌によって、主に皮膚や末梢神経が侵される慢性感染症。
ノルウェーのハンセン氏により1873年に発見されたらい菌は、毒性は弱く、感染しても発病することはまれである。
そして1943年、プロミンなどの化学療法剤の開発で、ハンセン病は確実に治癒するようになる。
しかし、戦前から囚人のごとく社会からの隔絶、差別を強いられてきた元ハンセン病患者たちは、その後もなお、社会復帰を拒まれ続けた。
ハンセン病患者のたったひとつの人生に、暗く大きな影を落とした「権威」。
医師が医療活動の前提におくべき視点とは何か。平沢保治さんにメディ・ウィング編集部がインタビューしました。
編集部 まず平沢さんの人生を教えていただけますか。
平沢 私を最初に診た医者は、私の父がハンセン病だと知ると顔が真っ青になり、看護婦に離れるように指 示しました。13歳の時でした。紹介された東大病院に行くと「1年ほど療養所に入れば治るから1日も早く入りなさい」といわれ、私は正月を待たずに、 1941年、14歳の時、東京の東村山にある多磨全生園に入園しました。あれから私はまだ全生園にいます。患者の中には嘘をつかれ園や医者を恨んで自殺し た者も出ました。
私の家族は家中が消毒され、「貧乏は働けば解消できるが血統は治らない」と近所から嫌われ、出したお茶を目の前で捨てられたこともありました。
入園すると「宗教に入らないと葬式する時困るぞ」といわれました。戦前は強制隔離のため、患者は煙突から煙になってしか故郷に帰ることができないといわれていました。
編集部 なぜ、ハンセン病患者はつらい人生を歩まなければならなかったのですか。
平沢 ハンセン病は特効薬がなかった時代、顔面や手足などの後遺症が特に目立つことから恐ろしい病気と 受けとられました。そのため戦前の封建的な家制度のもとで家族に患者が出ると血統病だと忌み嫌われ、患者は徴兵制の中で戦争に役立たない国の汚点的存在 で、療養所に強制収容・隔離され、飼い殺し政策が行なわれたのです。
囚人扱いされる患者たち――戦前
編集部 どんな政策が行なわれたのですか。
平沢 最初の法律では、街頭に浮浪する患者が療養所に収容されましたが、その後できた「癩(らい)予防 法」のもとで患者の強制隔離が徹底され、警察官や医師が村々をまわり魔女狩り的に在宅患者も収容されました。ある者は野良着のままで、ある者は「明日子ど もが生まれるから1日待ってほしい」といっても収容されました。抵抗した人は手錠をかけられました。
患者は入所すると金銭衣類は取り上げられ、囚人のような粗末な浴衣を着せられました。逃亡防止のために園内だけに通用する「園券」が渡されました。管理 しやすいように所内の結婚は許されましたが、子どもを生むことは許されず法律の規定もないのに断種・堕胎が強制されました。住居は12畳半に8人の雑居部 屋で、まともな食事も与えられませんでした。
生活に必要な物は自給自足が中心で、そのため労働が強制されました。患者は手足が知覚麻痺のため体温調節ができず苦しみ、痛みや疲労を感じにくいため無 理な労働で傷を負い、神経や骨の深部まで侵しました。手の指を失った人が大勢いますが、それはどれだけ激しく体を使ってきたかの証しです。
編集部 どんな医療を受けたのですか。
平沢 職員の仕事は、もっぱら患者の見張りでまともな医療はなく、軽症の患者が重症の患者の介護にあた りました。職員は患者の雑居部屋に長靴のままや、ござを敷いて上がったり、いくら熱を出して苦しんでいても医者は部屋に入らず、患者を玄関まで呼び出して 注射をうつという悔しい扱いもされました。
編集部 患者の反発は強かったのでは?
平沢 患者は抵抗しましたが、抑圧されました。当初、療養所は内務省の管轄で所長は警察官がなり、患者は刑務所のようにオイコラ式で呼ばれました。「特別病室」という監房があり、少しでも運営に非協力な患者は投獄されました。
ある患者は、長靴に穴が開き足が濡れて神経痛になり、洗濯作業ができないと訴え仕事を休みましたが、こんな些細なことでも患者は「特別病室」に入れられました。
最も恐れられたのが群馬県草津にある特別重監房です。そこは夏は湿気で黒カビが生え、冬は気温がマイナス16℃になりました。しかし、敷き掛け布団は1枚で、食事は1食おにぎりひとつでした。そこで20数名が亡くなりました。
変わらぬ差別――戦後
編集部 ハンセン病は化学療法で治癒するようになった戦後、何か変化はありましたか。
平沢 変わりませんでした。所内の生活は生活保護以下の状態が続きました。しかも優生手術(優生学上の見地からいう不妊手術)が法律で定められ、強制収容・隔離政策は1953年に改定された「らい予防法」でも引き継がれました。
しかし、戦後、日本国憲法ができ、私たちは権利意識を高め、監房の撤廃や化学療法薬予算の獲得など患者運動を強め、1996年ついに「らい予防法」を廃案にしました。
編集部 なぜ、戦後も同じ政策が続いたのですか。
平沢 「らい予防法」の国会審議で日本らい学会の主流派の光田健輔医師らは、「らいは簡単に完治しな い。安易に開放医療政策はとるべきではない。家族も優生手術をした方がいい。民主主義だといって患者は図にのってうるさいので取締りを強化してほしい」と いう主旨の証言をしたのです。
「権威」といわれる医師の発言の社会的影響は絶大で、法律まで左右することができる力を持ち、一人ひとりの患者の人生を大きく変えてしまうことを知ってほしいと思います。
人権意識でわかれる医師の立場
編集部 医師の社会的使命を考える上で、重大な事実ですね。
平沢 20世紀の日本の大きな過ちのひとつがハンセン病問題だと思います。日本のらい学会の中枢といわ れる医師は、ハンセン病に対する社会的偏見や差別を扇動し、いまも残したと思います。高齢者になった私たちの多くはいまも「私はハンセン病回復者だ」とは いえず、社会復帰した場合の生活の保障もありません。故郷にも帰れません。
しかし、違う立場の医師もいました。
小笠原登医師(京都大学医学部)は戦前、日本らい学会で日本の隔離政策は誤りだと発言し、「らい」とらく印を押すと患者は社会から締め出されると在宅医 療を続けました。また、厚生省でハンセン病政策に深く関わってきた大谷藤郎氏は1999年8月、「らい予防法」違憲国家賠償訴訟で証人にたち、「らい予防 法は誤りだった」と証言しました。
平沢 大谷氏は、「医学的深まりに関係なく、国家主義の高まりの中で(強制隔離が)是認されていった」 「ハンセン病患者が大和民族として優秀なものではなく、排除すべきという風潮が生じた。医学者もこの影響を受けた」と戦前戦中を振り返りました。そして、 戦後の「らい予防法」について「医学者や公務員が憲法の理念を理解していればつくるべき法律ではなかった」「人権上間違ったことをしているというマクロの 視点が弱かった」と証言しました。
私は、医学的根拠ではなく因習や時代の流れにこだわり人権意識を持たなかった医師と、科学に忠実で人権を尊重しようとする医師の2つの立場を見た思いです。
科学と人権に責任を
編集部 最後に医学生へのメッセージをお願いします。
平沢 医師は科学者です。科学を信じる者が科学を損なってはいけません。そのために、科学の基本に人権をすえること、生きている人間に対する責任をおくことが大切です。
21世紀に医師になるみなさんは、生命や人権を軽視する社会に流されず、科学と人権に責任をおう社会的役割を持ってほしいと思います。医師として患者に 対する社会的偏見や差別をなくすだけでなく、患者の生活を保障する努力をしてほしいと思います。
平沢保治 Yasuji Hirasawa
戦後、ハンセン病患者・回復者の運動、地域の障害者運動にかかわる。らい予防法下を生き抜いた一人として、いのちの尊厳をテーマに、小学生から大学生、医 療・看護・福祉を専門とする人たちとの対話活動を本名を公表して行う。現在、高松宮記念ハンセン病資料館運営委員、東村山市身体障害者患者連絡協議会副会 長などを務める。
『人生に絶望はない~ハンセン病100年のたたかい』
平沢保治著/かもがわ出版 tel:075-432-2868
INTERVIEW………2
医療者と患者の新しい関係をつくろう
インフォームド・コンセントは共同作業で進化する――COML
医学・医療の進歩のなかでは、患者さんも医療の主体者としてかかわっていくということが大きな要素となっています。
患者さんをどうみるか――いっしょに成長しながら病気とたたかっていくのか、
それとも身につけた医学を展開する対象物として患者さんをみるのかということです。
これは当然医学生にとっても、どういう医師になるかということの中心テーマの一つですし、
せまく技術的に考えても臨床能力に大きく関連することに思えます。
きょうは、患者さんと医療者のありかたについてCOML代表の辻本好子さん、和歌山県立医科大学3年新村秀人さん、
医学部1年Aさんに対談をお願いしました。
編集部 1年生のAさんにまず医学部進学のきっかけをうかがいたいのですが。
A 高校1年の1月に阪神・淡路大震災が起きて、ボランティアに参加した経験が非常に大きいです。震災 ボランティアをきっかけに、「現場」「臨床」というものに対して、はじめてカッコいいなと思いました。なにもかもがグチャグチャの状況のところへ行って2 週間ぐらい焚き出しのボランティアをやりましたが、もちろん悲惨なところだけではなく、全国から人が来る。何というか高揚感がありました。以来「現場」と いうものに対してすごく愛着がわいて「現場」で働きたいなという気持ちをもつようになりました。
震災で感じたのですが「現場」というのは人との出会いなんですね。震災で現地の人達や被災者、ボランティアの仲間との連帯感を強く感じました。人と一緒 に何かの目標に向かって、共同作業をやっていくということに、それまで感じたことのないような、いいなという気持ちがありました。
辻本 ドクターをめざす動機の一つとして震災ボランティアの経験があったことはすばらしいと思います。 医学は人の体を対象にした学問ですが、医療というのはすなわち、人と人との間で行われる行為ということになりますね。「現場」に魅力を感じていらっしゃる ことも、患者としてはとてもうれしいですね。新村さんは医学、医療についてどんな問題意識をおもちですか。
患者側の意識と自己決定権をめぐって
新村 患者さんとの人間関係を考えたとき、医師の主導権が強すぎるという問題が気になります。どのような治療を行うかを、医師が一方的に決めてしまうことがあるのではないでしょうか。だから、それを改善するためにはどうしたらよいのかを考えています。
今、インフォームド・コンセントが話題になっていますね。しかし実際の医療の現場では、「患者さんのため」ではなく、「治療のため」のインフォームド・ コンセント、つまり、とりあえず治療を行う上で同意が必要なのでインフォームド・コンセントをする、という感じがします。ですからまず医師のありかたが問 われると思います。ただし、患者の側にも意識改革が必要なのではないでしょうか。本来のインフォームド・コンセントが成立するためには、患者さんが自分の 身体や病気について、自分の問題として解決するという前提がないと難しいと思います。そのあたりのご意見をうかがいたいと思います。
辻本 要するに患者さんの自己決定権にかかわることですね。技術集積に力を注ぎ自信を持ってしまったド クターが、「患者が医療の主人公」といわれる時代になったからといって、ベストチョイスと思わない治療法を患者が自己決定したときに、「私はいいとは思わ ないけれどあなたの自己決定だから認めることにいたしましょう」という気持ちになれるかどうかという問題ですね。
新村 そうです。しかし、それが難しいのです。患者さんに最善と思う治療をするのは医師にとって当然のことですからね。
辻本 今まさしく時代が大きく変わり、そして、患者の世代交代も始まっています。患者さんの権利意識も 大きく変わってきています。今までと同じ医療、つまり「ほどこし」「与える」医療ではどうもだめだという時代になってきました。その時に何が必要かといえ ば、やはり両者の意識改革だと思います。
私たち患者も、長くお医者さんにお任せしますと身を委ねる立場に甘んじてきました。ところが医療経済の逼迫も事態の変化を後押しするのですが、急激な方 向転換がすすんでいます。その結果、どうしたらいいんだろうという戸惑いが医療機関・医療従事者の側にも、患者の側にもうまれています。だからこそともに 手を携えて医療を良くしていくことが必要です。一人ひとりの患者が、より安心し納得して自分の病気と真剣に向き合っているような、医療者との協力関係・協 働作業のできる環境をつくること。COMLの活動としてずっとそれを努力してきました。
患者の側の活動という位置づけですから、当然、医療者の側からは小うるさい患者たちが権利を振りかざすのかと、活動スタート当初には批判的な反応がたく さんありました。ところが時代の波に押され、患者が医療の主人公として、主体性を持ち、責務を引き受けることが必要という社会的な認知・支援が始まり、少 しずつ進んできたのです。10年早かったらむずかしかっただろうし、10年後だったら必要なかった活動だったかもしれない。医療現場でも「変わらないとい けない」という気づきが、とくにドクターの意識の中で少しずつ広がってきていることが嬉しいですね。
尊重する意識責任をもつ姿勢
新村 患者の自己決定権でいえば、本人が「どうしてほしいか」ということが一番重要だと思います。
しかし患者と医師とでは医療にたいする知識の量が違うので、医師の方は自分の判断に自信をもち、患者と医師の間の溝ができてしまうのです。
辻本 情報の非対称性という大きな問題はありますが、溝は埋まると思ってます。
新村 なるほど。ではどうすればよいのでしょうか。
辻本 情報開示と信頼関係つまりコミュニケーションということで、この溝を埋めなければいけないと思い ます。ドクターの側には患者さんの思いを尊重するという意識が、患者さんの側には自分の決めたことに自分で責任を持つという姿勢があれば、この両方の溝を 埋める努力ができると思うし、埋めなければいけません。お2人のように若い医学生が、患者さんとの人間関係に問題意識をもってくださることは、状況が変わ りつつあるということだと思いますよ。
医学生の間で起こりつつある変化
A 医学生の変化の面でいい方向と悪い方向が拮抗する可能性があると思います。先日大学で淀川キリスト 病院の看護実習がありました。最後に反省会を開いたらうちの医学部の教授も看護婦さんもびっくりしていたんです。学生からコミュニケーションの大切さを強 調する発言があいついだからです。どうしてそうなったかといえば、マスコミなどでコミュニケーションの問題はさんざん聞いているのです。俗っぽい話で言え ば受験の面接、小論文などではひたすらインフォームド・コンセントの話ばっかりなんです。
辻本 試験通過するための必須要件でマニュアル化しなければいいんですが……。ちょっと心配ですね。
A ただ受験技術としてでなく、コミュニケーションが大切だと思っている学生は結構多いと思います。そ れはひとつ明るい面かなと思いました。変わってきたと言われてこっちはびっくりしましたが。一方で恐いなと思うのは、国の政策で教育予算、福祉・医療予算 を削っていこうという方向があります。社会全体が「自由競争主義」におちいっているという話を先日経済の先生から聞きました。大学も最終的に20校ぐらい にしてしまって、徹底的に競争させる。よくできる学生には奨学金をぼんぼん出して、できない学生は自分で払わせ序列化させていくという流れです。競争意識 が芽生えて、要するにエリート化がすすむわけですが、それが恐いと思う面です。しかし大学内で語られているようすはあまりありません。
辻本 お医者さんの将来というのは決して明るいはなしばかりではないんですね。コミュニケーションがマ ニュアル化した対応、それを習得しさえすればいい医者になれるように思ってしまうとすると、それは困ります。自然科学、医学という技術をきっちりと身につ けたうえで、その上でもうひとつの要素として位置づける必要があります。
日本の学校教育は、なるべく横並びであるべきであり、自己決定してはいけないと教えてきただけに、急に患者になって「自分のことを自分で決めろ!」と言われてもむずかしいというのも現実ですが……。
A それとインフォームド・コンセントの趣旨はおしすすめるべきですが、限界も考えないといけないで しょう。医者は自分の技術・知識・経験から、ある程度自分の信じる治療法を勧めるでしょう。そこで患者さんの価値観とぶつかるときはあると思う。事は簡単 ではありません。両者がそれを認識することが大切です。
新村 患者さんのために「良かれ」と思って、技術や知識を一生懸命積み上げれば積み上げるほどに、医師は自分の治療に対して自信をもつのですが、今度は逆に、その自信を相対化する勇気をもつことも大事ですね。
協働作業でつくりあげる信頼関係
辻本 その勇気は、いかに医療の不確実性や限界を患者にはっきりと示せるかどうか。今までそれができな かったのは、おそらくそんな事を言ったら患者が不安になるだろう、かわいそうというパターナリズムからくる思い、あるいは患者の期待が大きいだけに、その 期待を裏切ってはいけないという意識もあったんでしょうね。これからは情報を提供した後にあなたを一人にしませんよ、一緒に考えますよと支援する気持ちを もっていただきたいと思います。失礼ながら、ゆるぎない古い価値観をもっている医療者には正直もうあまり期待はしていません。逆に言えば患者さんの側にも ゆるぎない信念で医療はおまかせするものと思っている人もいらっしゃいます。
けれど21世紀を目の前にした今、患者の主体性も不可欠ですし、どうしてほしいかを声にしていかなければ「相談」も始まりません。患者の声に耳を傾ける 医療者との協働作業があって初めて、これまでとは違う新たな関係を築いていくことができると思います。 私たちの活動の中には医療者がずいぶん支援の力をかしてくださっています。これからの医療を担う学生さんたち、あるいは若い医者たちには、じつは COMLとして、とても大きな期待を持っています。これからもっと交流してゆきたいと思います。今日はこういう機会をもうけていただいて、ほんとうにあり がとうございました。
編集部 こちらこそ長時間、ほんとうにありがとうございました。
対談を終えて
●A……辻本さんは現場の改革に取り組んできただけあって、形式的な「自己決定権」よりも、患者さんにとってよりよい医療の実現に努力されてこられたので しょう。その実践に学ぶとことは大きいと思います。私も、いま求められている医師の社会的使命について、もう一度問いなおしてみたいと思います。
●新村秀人さん……「賢い患者になりましょう」を合言葉に、患者の電話相談をおこなっているCOMLの活動は、大変ユニークなものであると思います。患者 の医療への主体的参加は、インフォームド・コンセントの前提条件となります。このような活動が、医療者でも患者でもない第三者により、おこなわれているこ とは非常に意義深いと思います。
辻本好子 Yoshiko Tsujimoto
’48年、愛知県生まれ。’82年、医療問題の市民グループにボランティアとして参加。バイオエシックス(生命倫理)という新しい学問と出会い、「いの ち」をめぐる問題に関心を持つ。「インフォームド・コンセント」「患者の自己決定」の問題に、患者の主体的参加の必要を痛感。’90年にCOMLをスター トさせ、今日に至る。ささえあい医療人権センターCOML代表。
ささえあい医療人権センター COML(コムル)
COML(Consumer Organization for Medicine & Law)
’90年9月に活動をスタート。「いのちの主人公」「からだの責任者」である患者・市民が中心になって、専門家の支援を得ながら、主体的医療参加の意識啓 蒙活動を展開中。合言葉は「賢い患者になりましょう」。“あえて”医療にも消費者の目を向け、患者が主体的に参加しようと、活動を通して出会う一人ひとり に呼びかけています。活動内容は、ニューズレターの発行、電話や手紙による医療相談、大阪・札幌・東京・新潟・静岡・滋賀(近江八幡)各地で開催されてい るミニセミナー「患者塾」、SPグループ(SP:Simulated Patient;模擬患者――SPによるコミュニケーショントレーニングは、現在、医療現場や医学教育現場から注目されています)、病院探検隊、ナース研 究会など、医療現場との交流を図り、患者の「なまの声」を医療現場に積極的に届ける努力を重ねています。患者と医療者が対等で水平な「協力関係」を築くた め、「対話と交流」をしながら、互いに気づき合い、歩み寄る関係づくりを目指しています。
Medi-Wing 第15号より