いつでも元気

2013年11月1日

元気スペシャル なくせ原発 それぞれの歩きはじめた道 コーヒーで世界を変える

写真家 森住 卓

 今年七月、長内基樹さんと百合子さん夫妻は、会津磐梯山の荒々しい噴火口を望む福島県北塩原村 に、「MOTO COFFEE」をオープンさせた。二人は二〇〇八年に結婚し、裏磐梯で生活を始めた。基樹さんはカフェでアルバイト、百合子さんは屋根を 葺き替える茅葺き職人をしていた。
 基樹さんはコーヒーの味や奥深さに魅了され、福島市に自分のカフェを開く計画を立てていた。しかし3・11が起き、その計画は中止に追い込まれた。
 原発事故の影響は、百合子さんの仕事にも及んだ。契約していた葺き替え工事がキャンセルになり、さらに資材の茅も放射能に汚染されて使えなくなった。

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コーヒーと原発に通じる構図

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 「原発は地方の貧しい地域につくられ、その危険を押しつけられていることがわかった。そしてそれはコーヒーと構図が似ている」と基樹さんは話す。
 世界におけるコーヒーの総取引額は石油に次ぐ巨大なもので、商社が値段を決められる「先物取引」でおこなわれている。生産地の多くは発展途上の国だが、 安く買いたたかれることが多く、生産者は貧困から抜け出せずにいる。一部の利益のために貧しい者が犠牲になる点では、原発もコーヒーも共通している。
 カフェで焙煎しているコーヒー豆のひとつ「ルワンダ」は、一九八〇年代から九〇年代にルワンダ共和国で起きた内戦で、男たちの多くが殺されてしまったた め、生き残った女性たちが農業組合をつくって栽培したという歴史をもつ。
 「私には彼らが生産したコーヒーを、丁寧においしく炒れてお客さんに飲んでもらう責任があるんです。いい加減な炒れ方でお客さんに出したら、生産してくれた農民たちに申し訳ない」

5年遅れの結婚式

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 カフェのオープンにあわせて、二人の遅めの結婚パーティーが開かれた。家族や友人を前に、基樹 さんは「コーヒーを飲んでもらって、コーヒーや原発問題などを考えるきっかけになればと思います。小さな店ですが、“コーヒーで世界を変えられる”と信じ てがんばります。だからこそ福島でカフェを開くことにこだわりました」と、あいさつをした。
 そんな二人には二歳になる男の子がいる。原発事故から二カ月後に妊娠していることに気づいた。「“こんな大変なときに授かった命だから、より大事に育て よう”と前向きに考えた」と百合子さんは話す。だが、「福島第一原発でもう一度事故でも起きたら、すぐ逃げます」と、きっぱり言った。


 自家焙煎コーヒーの通信販売も可能「MOTO COFFEE」北塩原村檜原字甚九郎沢山1097─125 TEL0241─23─5884


東電は謝罪せよ

残された遺族の訴え

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大切に育ててきた野菜畑

 「人間がつくったものはいつか壊れる。人間は神様じゃないから、絶対安全なんてあり得ない」──樽川久志さんは、福島第一原発から約七〇キロ離れた福島県須賀川市で、米と野菜の専業農家をしていた。
 久志さんは原発が爆発したニュースを見ながら「福島の百姓はこれで終わりだ」とつぶやいた。そして二〇一一年三月二四日、自らの命を絶った。
 三〇代から有機農業を始めた久志さんは、「農薬はなるべく使いたくない。虫も食わねえものをつくってどうする」と口癖のように言っていた。
 年間を通して収入が得られるようにビニールハウスを建て、周辺農家と出荷時期をずらして収入を増やす工夫もした。多くの有機物を混ぜ合わせた「もぐら堆 肥」で育てたキュウリは、築地の「こだわり野菜コーナー」に出荷し、高価格で売れた。
 八年前に勤めていた会社を辞め、久志さんの後を継ごうと農業を始めた息子の和也さんは、「父ちゃんは研究熱心で、誰もやっていない野菜づくりをしていた」と振り返る。

奪われた希望

 毎年冬場に近くの山から落ち葉を集めてつくっていた三年分の腐葉土も、すべて汚染して使い物にならなくなった。
 妻の美津代さんは「原発事故後、ほうれん草の出荷停止だとか、静岡でお茶が汚染されたと言われ、私たちはどんどん追い込まれていった」と話す。
 「学校給食と契約してキャベツの生産を七五〇〇個に増やし、出荷間近だった。それなのに、三月二三日に出荷停止の連絡がきて出荷ができなくなった。夫は希望を失ったんじゃないかな…」と声を落とした。
 久志さんは亡くなる前夜、珍しく食器洗いをした。夕食後、家族三人で余震に備えて避難グッズを枕元にそろえ、すぐ避難できるように玄関脇の部屋で寝た。それが久志さんを見た最後だった。
 遺書は見つからなかった。遺族は「夫・父は原発に殺された。もうこれ以上、犠牲者を出さないで欲しい」と東京電力に謝罪を求め、原子力損害賠償紛争解決センターに訴えた。

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謝罪を拒み続ける東電

 今年六月に和解が成立して賠償金が支払われたが、和也さんは納得できないでいる。「東電からは、非公開を条件に線香を上げさせてほしいと言われたが断った。ふつうは公の場で頭を下げて謝罪するべきじゃないのか。おれたちはそれを望んでいるんだ」と声を荒げた。
 和解の文章には「我が社、東京電力とお亡くなりになられた樽川久志様の間に因果関係があったと聞いております」と書かれているだけで、謝罪はなかった。 「まるで他人ごとで、まったく誠意を感じない」と、和也さんは怒りを通り越してあきれた顔で言う。
 美津代さんは「一番の願いは原発事故の早期収束だ」と話す。「今すぐ廃炉にして、原発依存をやめるべきだ。福島第一原発だけでも始末できねえのにほかの 国に原発を売るなんて、安倍総理は何考えてんだ」と怒りのことばが止まらない。
 樽川家の仏壇には、一九八五年に久志さんが初めて参加した、原水爆禁止世界大会の報告集が供えてある。久志さんは大会への参加がきっかけで、「原爆を落 とされた国が、何で原発をつくるんだ」と、原発に反対するようになったそうだ。

 和也さんは今年からメロンの栽培に挑戦している。拳ぐらいになったメロンを見つめながら「元木から三本出して、そこから全部で六個収穫できるようにしたんだ」と説明する目は、輝いていた。
 「原発をなくして安全で美味しい農産物をつくり、消費者によろこんでもらうためにがんばることが、父ちゃんの遺志を受け継ぐことだ」。和也さんは久志さんの死を乗り越えようとしている。

文・宮武真希記者/写真・豆塚 猛

いつでも元気 2013.11 No.265

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