いつでも元気

2012年8月1日

特集1 知っていますか? 全国で空襲があったことを

忘れられぬ風、炎、焼死体、そして匂い


鈴木 賢士 フォトジャーナリスト

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空襲の体験を語る清岡さん。東京大空襲訴訟原告団副団長

 「空襲」について何を連想するか、といきなり質問を受けたとき、あなたならどう答えますか? 何人かに聞いてみました。
 高校三年の女子生徒は、しばらく考えたあと、「爆弾」「防空壕」「子どもたちが泣いている」と答えました。この年代にしては、よく勉強していると思いま す。次に三〇代から六〇代の男女に聞くと、「B29」「焼夷弾」「防空壕」「疎開」「灯火管制」「焼け野原」などの答え。空襲の一般常識は、思ったより浸 透しているようです。
 ところが、実際に米軍の空襲を体験した人の反応は違っていました。
 「空襲の字は、見るだけでも嫌ですね。あの夜はすごい『風』が吹きました。風にあおられてものすごい『炎』、ごろごろ転がっている『焼死体』。焼けた匂 いがすごいんですよ。あの『匂い』は一生忘れられない。近いのは生いわしを焼いた匂いかな」──東京・浅草で空襲に遭った清岡美知子さん(88)の記憶で す。
 一九四五年三月一〇日の、一夜にして一〇万人が殺された東京大空襲のことは誰でも知っていると思います。でも、空襲の二文字を見て、「風・炎・焼死体・匂い」を連想するのは、
体験者ならではのことでしょう。

言問橋の上に人間の油が

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隅田川にかかる言問橋。3月10日は橋の双方から大勢詰めかけ、持ち物などに火が入って1000人以上が亡くなった。黒ずんだ縁石は焼けた跡

 清岡さんが「もう一つ」挙げたのが「言問橋」でした。下町の隅田川に架かる橋の一つで、大勢の犠牲者が出たところです。今人気の東京スカイツリーも間近に見える場所にかかっています。
 「川の桟橋にいて、左手に見えた炎の嵐。どれだけの人が死んだかなあ。言問橋の上がものすごかった。川から上がって橋を渡るとき、死体は片付けてありま したが、橋の上は人間の油がいっぱい。そこに無数の『バンドのバックル』と『がま口の口金』が残されていました」
 清岡さんは訴えます。
 「私は浅草馬道で父と姉を亡くしました。炎に追われて逃げ込んだ隅田川で凍死させられたのです。私と母は辛うじて川から上がって助かりました。国のために受けたこの苦しみに対
し、何の補償も謝罪も国から受けなかった。この空しさは国に対する不信、政治に対する恨みとなって今日まで続いています」
 三月一〇日の東京大空襲に続いて、大阪、名古屋、横浜、神戸などの主要都市が焼夷弾攻撃を受けました。さらにで 見るように、空襲の被害は日本全国で二〇〇カ所以上に及んだことをご存じでしょうか。死者は五〇万人を超え、傷病者は四七万人、家や財産を失った罹災人口 (災害にあった人の人口)は、一〇〇〇万人と言われています。あなたが住む街の高齢者にたずねるか、近隣の街の歴史をたどれば、きっと空襲の傷跡に触れる ことが可能なほど、広範囲に無差別爆撃を受けたのです。

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同じ被害者なのに差別あつかい

 「戦争の世紀」と言われた二〇世紀から一〇年以上の歳月が過ぎ、戦争を知らない世代が多数を占める今日です。いま「空襲」を話題にしても、体験者が少なくなり、その実相はテレビ・新聞か、写真などでしか見ることができません。
 考えて見れば、これまで若者が戦争も空襲も経験しないで過ごすことができたこと自体は大変喜ばしいことです。今も地球上のどこかで、空襲・内戦などによ り、たくさんの尊い命が奪われている今日、戦争に遭わないことは、幸せで恵まれたことです。
 しかし平和な日本でも、あの戦争中の空襲で傷害を負い、あるいは親兄弟を失って戦争孤児になった被害者たちにとっては、いまだに「戦争は終わっていな い」のです。なぜなら、この国は元軍人・軍属やその遺族には恩給を支給し続け、それ以外の一般戦争被害者に対しては、これまでなんの救済措置も講じない で、大変な差別あつかいをしてきたからです。
 現在、東京と大阪で空襲被害者が原告となり、国に対して謝罪と賠償を求める裁判が進行しています。訴えを聞くと、空襲は遠い昔の話ではない、戦後日本が 未解決のまま放置してきた、重要な課題の一つだということがわかります。

「戦争はずっと続いている」

間一髪で命拾いしたものの

 「私にとって生涯忘れることのできない日、それは昭和二〇(一九四五)年三月一三日、大阪大空 襲の日です。いつものように夜九時ごろ就寝しましたが、『今晩の空襲は大きい』と無理やり起こされました」「真っ暗闇の中、上空でなにやらピカッと光った 瞬間、昼間のように明るくなり、たくさんの火花がバラバラ落ちてくるのが見えた」──中学二年の時、焼夷弾で全身やけどを負った浜田栄次郎さん(82)の 話です。あごにやけどの跡が残り、右手の指は全く動きません。
 「焼夷弾の落下音が近づき、防空壕に飛び込みました。間一髪で直撃をくうところ。ちょっとでも遅れたら、あの世行きですわ。寝巻きの上にねんねこを着て いましたが、顔、両手、両足など、外に出ている所が全部やけどです」
 「戦後六〇年以上経っても戦争はずっと続いている」と語る浜田さんは、人が集まる場所や電車の中で、今でも膝の上に手を置くことができないでいます。

民間人を切り捨てる異常

 これまで国は元軍人・軍属とその遺族には総額五〇兆円をこす国費を費やしてきました。ところが一般の空襲被害者には、びた一文、補償していないのです。
 戦場で、大事な息子や兄弟を失った悲しみや苦しみは、想像を絶するものがあるでしょう。しかし内地にあって「銃後の守り」を強いられ、空襲で殺された民 間人も政府が引き起こした無謀な戦争による犠牲者であることに変わりありません。空襲被害者の遺族が肉親の死を「このままでは無駄死にだ」と怒るのも、当 然です。
 元軍人・軍属だけを援護する日本は、はたして「平和を愛する国」と言えるでしょうか。そこにある種の「意図」を感じます。フランス・イギリスはもとよ り、第二次大戦中に日本の同盟国だったドイツでも、戦争の犠牲者・被害者に対して軍・民の差別なく、国が補償・援護をしています。戦争でもっとも大きな被 害を受ける民間人を切り捨て・放置する日本の姿勢は、世界的に見てもきわめて異常なのです。

立ち上がる空襲被害者たち

沖縄の被害者も訴訟起こす

 本年八月には「沖縄十十空襲(一九四四年一〇月一〇日)」の被害者をはじめ、沖縄の民間戦争被害者が「命は平等だ!」と、提訴する予定です。
 「首里から南部に逃げる途中に自然壕に入ったんですよ。日本兵が来てから追い出されたんですよ。その時、爆弾落とされて全滅、ぺったんこです。気がつい たら肩に深い傷を受けていました」と話すのは当時九歳だった前原生子さん(76)。一緒に逃げた両親と祖母は爆撃により殺されました。
 沖縄ではあの凄惨な地上戦で、県民の四人に一人、約一五万人が死亡しました。ところが民間人被害者のうち、日本軍の「戦闘協力者」以外は、援護法の適用 外に置かれているのです。前原さん一家のように、壕に隠れたものの日本兵に追いだされ、爆撃で死亡・負傷した住民には何の補償もないのです。

超党派の議員連盟発足

 裁判は残念ながら、東京の地裁・高裁と大阪地裁で敗訴しています。しかしいずれの判決も、空襲により障害を受け、あるいは戦争孤児になった原告たちの、被害事実そのものは認めました。
 今年四月の東京高裁判決では「旧軍人らとの間の不公平感を感じることは心情的には理解できる」としましたが、訴えは退けました。原告七七人が最高裁に上告、大阪は高裁で審理中です。
 裁判と並行して、全国空襲被害者連絡協議会が結成され、全国の空襲被害者が手を結んで運動をすすめる母体ができました。さらに、空襲被害者の援護立法を 求める超党派の議員連盟(約五〇人)が誕生し、国の責任で空襲被害者と沖縄民間戦争被害者を援護する法案制定に向け、準備が進んでいます。援護法制定を求 める一〇〇万人署名も、二四万筆を超えました。

再び戦争させないためにも

 三・一一の東日本大震災と大津波。あの映像を見た時、空襲被害者の多くが口にしたのは「空襲と同じ」です。原告団は直ちに支援のカンパに乗り出しました。国は災害弔慰金等支給法により、この災害の遺族や傷害者に補償をおこなうことになりました。被害の状況を考えれ
ば、当然のことだと思います。
 ひるがえって、このような自然災害の被災者を救済するのと同じように、国の責任で起こした戦争の被害者にどうして補償しないのか、最大の疑問です。
 裁判と法制化を車の両輪としてとりくむ空襲被害者の運動は、国に「謝罪と賠償」を求めると同時に、日本を再び戦争する国にさせないためのたたかいでもあるのです。

いつでも元気 2012.8 No.250

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