いつでも元気

2012年8月1日

元気スペシャル チェルノブイリ被災者は今(上) 今も続く放射能汚染と被害 写真家・森住 卓

 今年四月中旬、ベラルーシを訪ねた。二六年前、隣国ウクライナ北部にあるチェルノブイリ原発事故で放出された放射性物質は、風に乗ってベラルーシに降り注ぎ、国土の三分の一を汚染した。
 ベラルーシは人口約一千万人、面積は日本の半分で、現在も甲状腺がんなどの病気が増えている。二〇一一年にベラルーシ全体で三八三三人が甲状腺がんにかかっている(ベラルーシ赤十字社調べ)。

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モスクワの犠牲になった街

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廃屋になった汚染地域の民家。誰もいない庭にスミレが咲いていた(ベラルーシのドボリシェ村)

 ミンスクで、ゴメリーから避難してきたナターリアさんに会った。
 事故のとき、チェルノブイリからゴメリー、さらにソビエト連邦の首都モスクワへ向かう南西の風が吹いていた。ウクライナもベラルーシも崩壊前のソ連の傘 下にあった。ソ連政府はモスクワを守るためにゴメリー上空で人工雨を降らせた。「黒い雨」がゴメリーに降り注いだが、住民には何も知らされなかった。
 ナターリアさんは事故後、夫、息子、娘を甲状腺がんや胃がんであいついで失い、一人になった。部屋の壁に飾ってある写真は、娘が残した孫娘の写真だけ だ。亡くなった家族らの写真は、戸棚にしまってあった。「夫や子どもたちの写真を全部外したのは、前に向かって生きるためなのよ」と苦しそうに顔をしかめ た。

「安全」と言うが

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豚の頬に放射能検査済みのスタンプが(ゴメリー)

 ゴメリー州の州都ゴメリーにある食料品市場を訪ねた。ロシア正教のパスハ(復活祭)の買い物客で市場は賑わっていた。
 肉売り場には豚を解体した肉が並べられ、豚の頭が私を睨みつけていた。その頬には「放射能検査済み」のスタンプ。野菜売り場の売り子たちは、野菜の放射 能検査済み証明書を持っていた。蜂蜜を売っていたゾーヤさんは「安全なものを売ることができるので安心です」と元気な声で私に言った。
 市場には食品検査場が併設されていて、農産物をここで測定し、放射性物質による汚染が基準値以内であれば検査済みの証明書が発行され、販売できる。
 壁に国が定めた食品の基準値の表が。牛乳・乳製品一〇〇、ジャガイモ八〇、小麦粉・穀類・砂糖六〇、肉(牛、羊)五〇〇(単位はベクレル/キロ)。基準 値が日本より細かく決まっていて、毎日食べるジャガイモや小麦粉・穀類などは低く抑えられているが、日本より高いものもあって驚いた。検査機器は学校区ご とにあり、生産者や消費者が気軽に持ち込んで測れる。

線量測定を受ける子どもたち

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がんで亡くなった子どもたちの写真を見せるナターリアさん。今は気持ちの整理がつき、強く生きねばと思っている(ミンスク)

 ゴメリーから北一〇〇キロにあるチェチェルスク市のギムナジア中高等学校でNGOのベルラド(放射能安全研究所)が出張検査をしていた。広い教室に体内被ばく量を測るホールボディーカウンターが置かれていた。
 「定期的に測ることで自分の被ばく量を知り、健康管理に生かすことができるので重要です」と担当のヴェラさんがパソコンのデータを見つめながら言った。
 一人三分ほどで検査結果が出る。ここの子どもたちの平均は二〇~三〇ベクレル/キロ。ときどき三〇〇ベクレルを超える子どもがいる。その場合は食生活や 生活環境を調べ、体内被ばく量を下げる指導をおこない、親にも伝えるのだと言う。

生まれたときから障害が

 ホイニキ市はチェルノブイリから北五〇~六〇キロの汚染地域にある町だ。
 ここに住むビターリ・シュローグ(21)さんは、生まれたときから両耳がない。両親はホイニキ市生まれで、事故時もホイニキ市にいた。大きな声でお母さんが話しかけると、少しだけ聞こえる。
 耳以外にも水頭症があり、口腔にも大きな穴が開いていた。さらに心臓の不整脈など多くの病気を抱えている。
 お母さんは、「モスクワに何度も手紙を書き、援助をお願いしました。でも、なしのつぶてでした」と言う。
 国の援助は、毎月のチェルノブイリ年金一一〇ドル。障害者が働く場所がないことが悩み。ビターリさんの夢はコンピュータープログラマーになることだ。汚 染地域では少子高齢化が深刻で、同市では外国人の移住を奨励している。

農地化すすむ汚染地域

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第二次世界大戦の対ドイツ戦で亡くなった村出身者の慰霊碑。ナジェージダさんのお父さんの名も刻まれている(グバレビッチ村)

 ゾーリナ・ナジェージダさん(77)はホイニキ市の近郊グバレビッチ村で一人暮らし。村はチェルノブイリ原発から北に五〇キロ。事故当時一五〇〇人だった人口は八人になってしまった。
 事故時には軍隊の車両が次々来た。道に水をまき、家の壁を洗い、学校や公園の表土をはがして行った。薬をもらって飲んだが「何の薬だったか知らない」と 言う。子どもたちは政府が用意したゴメリーなど、都会のアパートに移り住んだ。
 当初、村は避難地域に指定されていなかったが、その後強制的に避難させられた。だが「両親の墓を守る人がいないから」とナジェージダさんは村から離れなかった。
 「国が何度も家を売るように言いに来たが断った。移住すれば宅地や住宅の補償が受けられると言うが、自然豊かな自分の村で暮らすのが一番だ」
 彼女の家の周辺には、歯が抜け落ちたように空き地が広がっている。家の境界に植えられた木々は切り倒されて埋められ、農地になってゆく。汚染地域にもかかわらず、農地化が進められているのだ。

経験は学ばれていない

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廃屋になった民家や立木は穴に埋められ、農地にされる。汚染されているのに(グバレビッチ村)

 ベラルーシは原発事故で国家予算(一九八五年)三二年分の損害を受けた。今も予算の二割が放射能汚染の対策費だ。
 それでもベラルーシは「エネルギーの自立」のために、原発導入を検討している。天然ガスをロシアから輸入しているが、ロシアが近年、大幅に値上げしてい るからだ。ベラルーシからウクライナへ出国する際、税関の係官が私のパスポートを見て人目を気にしながら言った。
 「日本人は頭が良くてすばらしい技術があるのに原発をコントロールできなかった。それなのにベラルーシでは原発を建設しようとしている」
 チェルノブイリの経験は学ばれていない。ベラルーシでも、日本でも。これが今回の取材で感じたことだった。(続く)

 

いつでも元気 2012.8 No.250

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