いつでも元気

2012年4月1日

元気スペシャル 3・11から1年経った 被災地のいま

宮城

津波に流されたまちで笑顔をとりもどす

 倒壊した家屋、がれきの山、住宅地に残された海水。東日本大震災から一年経った今もなお、被災地には復興に向けて歩み始めることさえ難しい地域が広範に残されています。宮城県・松島海岸沿いの松島町、東松島市に事業所を持つ、松島医療生協を訪ねました。

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3・11から1年経った今も、倒壊した家屋やがれきが残る東松島市

 二〇一一年三月一一日、一四時四六分。地震発生当時、松島医療生協専務理事の青井克夫さんは、松島海岸診療所の二階にある法人本部にいました。
 「専務、利用者さんをおさえててー」
 同じく二階にあるデイケアのスタッフが叫びました。青井さんはとっさに部屋を飛び出し、利用者さんを支えながら、揺れに耐えました。「大丈夫だよ」と利 用者さんを励ます青井さん。それは自分自身を落ち着かせるための言葉でもありました。
 診療所は倒壊を免れたものの、辺りはいっせいに停電。大きなけが人はありませんでしたが、固定電話も携帯電話も通じません。しかし、「津波は必ずやって くる」。そう直感した青井さんは、エレベーターも停電で使えない中、職員たちと利用者さんを車いすごと持ち上げて一階に降り、みんなに避難するよう指示。 近くの高台にあるホテルをめざしました。避難を終えて青井さんの脳裏によぎったのは、数キロ離れた地域にあるデイサービス施設「なるせの郷」のことでし た。

津波に飲み込まれた「なるせの郷」

genki246_01_02 東松島市にある「なるせの郷」では、そのころ、安部加代子ケアマネジャーと土井芳子所長が今後の対応を相談していました。目の前にある指定避難所・野蒜小学校をめざす車で、周辺の道はごった返していました。
 「なるせの郷」では、目の前に防災無線塔が立っているにもかかわらず、何の情報も聞こえてきません。しかし周囲の異様な雰囲気に、車に分乗して、順次避難をはじめました。
 そんなとき、「近くの高台に家があるので、家に帰りたい」と利用者の一人が。土井さんが付き添おうとしましたが、「何かあったときに所長が不在では困 る」と考え、安部さんが代わることに。利用者さんと手をつないで歩き始めてまもなく突然視界に津波の壁が出現し、津波に飲み込まれ、利用者さんを守ろうと したその手もふりほどけてしまったのです。
 二度目の津波に飲み込まれたとき、安部さんは海水に浮いていたプロパンガスのボンベにつかまり、民家の二階にはい上がって一命をとりとめました。翌日に なって目が覚めても、ヘドロを飲み込んだせいか、胸のあたりが気持ち悪く、起きあがることができません。「私がこんな目にあっているのに、空にはいつもと 変わらない満天の星が輝いていて、とても憎々しかった」と安部さん。
 安部さんが家にたどり着き、松島海岸診療所に行くことができたのは、一五日のこと。職員との再会を喜びあいましたが、「なるせの郷」で土井さんを含む三人の職員と一二人の利用者が津波で命を落としたとの知らせに、涙があふれました。
 「ぬけがらってわかりますか」と安部さんは記者に問いかけました。
 「想像できないと思いますが、体だけあって、気持ちがついていけず、別の自分がいるようでした。一人になると、『あのとき、こうすればよかった』と後悔の気持ちばかり浮かんできました」
 「ぬけがら」の状態が終わると、「今度は攻撃的になり、悲しさや悔しさを周囲にぶつけてしまった」と語る安部さん。
 青井さんは、そんな職員たちの辛さを受け止めながらも、「あえて自分の感情を押し殺して、みんなに冷たく接しようと思った。悲しんだり、喜んだりしていれば、職場と職員を守るために何が必要なのか、冷静な判断ができないと思った」と当時の思いを語ります。

こころの復興へ

 「なに、かよちゃん。笑顔で仕事しなさい」
 震災のショックから抜け出せなかった安部さんを支えた一人が、夢の中に出てきた土井さんでした。たびたび夢の中に出てきて安部さんを励ます土井さんは、いつも笑顔で明るい人でした。
 「土井さんは、自分でやり残したことを私たちにやってほしいから、夢に出てくるんだと思いました。被災して辛く、落ち込んでしまうときもあるけれど、『違う、土井さんはこうじゃない』と自分に言い聞かせながらがんばっています」と安部さんは笑顔を浮かべます。
 松島海岸診療所のデイケア主任・石渡さおりさんは、民医連の全国支援に支えられて、本来の自分を取りもどしていきました。五月、最後の支援者が帰って行くとき、「これまでの感謝の気持ちから初めて泣くことができた」と石渡さん。
 当時、津波で倒壊した「なるせの郷」から診療所に異動となったデイケアスタッフの中には、一四時四六分になるとたびたび頭痛や吐き気がする職員や、余震 があると涙が出る職員もいました。そんな職員たちのなかで、「責任者なのだから、しっかりしなければ」と気持ちが張りつめていた石渡さん。しかし「泣くこ とができるんだ」とこのとき気づき、「気持ちに余裕ができた」と言います。

笑顔をとりもどしたデイケア

 震災から約一年、診療所のデイケアには笑顔があふれています。
 東松島市で被災した阿部よしゑさんは、震災後、息子と二人で仮設住宅に入居しました。よしゑさんは当初、津波に流されて腰を痛め、さらに、被災のショックから自分で歩くことができなくなりました。次第に口数も少なくなり、笑うこともなくなっていました。
 市から相談が入り、安部さんは介護サービスの利用をすすめましたが、「これ以上どこにも行きたくない」と拒むばかり。ところが息子に付き添われて診療所に通院したある日、近所に住んでいた知人がデイケアに通っていると知り、よしゑさんも利用するようになります。
 「知らないひとばかりのところに行くのは嫌だった。でも、ここではみんなが家族のようです。みんなと話をしていると、元気が出てくる」とよしゑさん。体調も徐々に回復し、また自分の足で歩けるようになりました。
 「自分と同じように、津波に流された人が元気になっていく姿が嬉しくて、私も元気になれる」と安部さんもわがことのように喜びます。

大きな一歩に

 被災地には「自宅を補修しながら暮らしている」「仕事も収入もない」人たちがいまもあふれています。
 「せめて医療費の窓口負担を無料に」と全日本民医連を含めた九団体は今年一月、厚生労働省に要請し、青井さんも要請団の一人として訴えました。二月末が 期限だった被災住民の医療費窓口負担の免除は、九月末まで延長されましたが、それはあくまで時限措置。「仕事がない人たちをどうするのか。国は仕事づくり を含めた支援や助成をもっと強めるべきだ」と強調します。
 松島医療生協の職員たちは、「ふり返ることも大事だけど、前にすすむことも大事。『なるせの郷』の再建が、さらなる復興への大きな一歩になる」と口をそろえます。ことしの秋の再オープンをめざし、職員一同、力をあわせています。
文・安井圭太記者/写真・野田雅也

福島

食の支援をうけて生きる

──郡山医療生協

 福島第一原発事故がもたらした放射性物質による環境汚染は、いまだはかり知れません。人体への影響だけでなく、農作物への影響も心配されます。郡山医療生協の職員・家族は、放射能の影響を危惧しながら福島での生活を続けています。

不安に寄り添う支援、全国から

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「原発ではなく、人間が人権を取りもどすたたかいを」と話す坪井院長

 「少しでも安心して食べられる食料を」と、全国から届く支援物資の食料は、さまざまな不安を抱えながら福島で生きる大きな支えになっています。
 毎週火曜日は、静岡・浜北医療生協から野菜便が届きます。荷物が届くと、毎週輪番で各職場に配られます。震災直後に、支援物資の分配を担当していた経過から、西東秀子さん(医療安全管理室室長)が主に仕分けを担当。
 小さい子どもをもつ職員は、「できるだけ安心して食べられるものを」と、買い物ではなるべく県外産のものを買い求めています。「あそこのお店に売ってたよ」など情報交換をしていますが、それでもなかなか手に入りません。
 「福島のお母さんたちは、スーパーでこっそり県外産の野菜を買っている」「調理するときは、子ども用と大人用に分けて食事の準備をしている」――毎日の 食事づくりに悩む母親たちの実情を知った浜北医療生協は、「福島のお母さんたちが抱えている不安に寄り添い、私たちができることを」と、職員や組合員の家 庭菜園でとれたものを送ることにしました。この「野菜便」は昨年七月より開始し、すでに三〇便を超えました。
 「食べ物は毎日のこと。子育て中のお母さんたちは、どんなに子どものことが心配だろうと思うと、胸が痛む」と話すのは、浜北医療生協組合員の一瀬静さ ん。噂を聞きつけた地域の人から、「そんなに良いことをやっているなら、ぜひ」と野菜が届けられることもあります。
 野菜便のほかにも、「外で思う存分遊ぶことができない福島の子どもたちに、数日でも安心して過ごしてもらえるように」と夏休みにサマーキャンプをおこな うなど、さまざまな支援を続けてきました。一瀬さんは「サマーキャンプで出会った子どもたちの笑顔をいつも思い出します。これからもできる限り続けたい」 と話します。

みなさんのおかげで生きていられる

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生協きたはま診療所の待ち合い室には、お礼がびっしり書かれた寄せがきが

 福島と同じく、原発がある静岡県。浜北医療生協は「浜岡原発の永久停止と廃炉を求める署名」にもとりくんでいます。二月一一日、「浜岡原発はいらない浜 北の会」と浜北医療生協の共催で野菜便の送り先、福島・郡山医療生協の坪井正夫院長(桑野協立病院)と鹿又達治さん(同病院放射線技師)を招いて学習会を 開きました。
 郡山医療生協は昨年三月一二日に「核害対策室『くわの』」を発足し、「どの場所がどの程度汚染されているのかを地域で共有しよう」と放射線マップ作成に とりくんでいます。坪井院長はこれまでの活動と、事故から二五年経つチェルノブイリ原発を昨年視察したことを報告。この視察で学んだ教訓を生かし、「原発 ではなく、人間が人権を取りもどす」活動として、(1)各人の積算線量を把握すること、(2)放射線を継続的に計測するモニタリングポストを地域に網の目 のように設置すること、(3)飲食物の汚染度を測るための測定器を確保すること、(4)人体の汚染度を知るための計測器を確保し、健康被害の予防や医療制 度の充実を自治体に要望していく運動などを提起しました。
 鹿又さんは子どもの被ばくを減らすため、線量計を「たたかいの手立て」とし汚染状況を毎日チェックして保育園や職員宅などの除染に力を入れていることを報告しました。
 学習会の冒頭、「みなさんの顔を見るとホッとします。みなさんの支援のおかげで私たちは生きていられます」と感謝をのべた坪井院長。前出の西東さんも、「全国のみなさんが、福島にいる私たちのことを気にかけてくださっていることがありがたい」と話します。
 県を越えての継続した支援が、福島で生きる大きな支えとなっています。
文・宮武真希記者
写真・酒井猛

仕事と生活保障をいますぐ

2011年6月号に登場した、南相馬市小高区から避難している寺岡正富さん(59)の話

 原発事故で人生が変わってしまい、これからどうなるのか、見通しは何もない。今は住んでいた小高区の方たちと、国や東電に対する賠償請求裁判をおこす準備をすすめている。
 大工をしていたが、現在は、解体業をしている。長年やってきた大工仕事に誇りを持っていたが、現状では仕事を選ぶわけにもいかず、昨年5月半ば、知人の 紹介でなんとかこの仕事につくことができた。それでも私はまだいい方だ。同居している娘婿は仕事がみつからない。
 避難所が閉鎖されてからは、母と娘夫婦、孫3人といっしょに、県の借り上げ住宅に住んでいる。「期限はない。いつまで住んでてもいい」と言われているが、いつ追い出されるかわからないという不安はある。
 今、一番手をさしのべてほしいのは、雇用の確保と生活保障。私は、仕事があることが心のよりどころになっている。被災者に対して、雇用の確保と生活の保障をいますぐ国に求めたい。

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岩手

ようやく復興のスタートラインに

──陸前高田市 戸羽 太 市長に聞く

 あれからまもなく一年。陸前高田市では、行方不明者をあわせて約一八〇〇人の方が犠牲になりました。今年一月末までのあいだに、全国から約九万人がボランティアとして来てくださいました。
 「復興、復興」と言われますが、被災地で、いまの時点で「復興」という段階に入っている自治体はないでしょう。国の第三次補正予算が成立して、復興庁ができることが決まった。陸前高田市でも、昨年一二月議会で復興計画の承認をいただいたところです。
 「やっと復興にむけたスタートラインに立てた」、そんな思いです。

国は、目に見える「復興」を

genki246_01_06 この一年を振り返ると、国の目が被災地からたびたび離れ、その時間も非常に長かった、という思いがあります。
 被災後は、「半年くらいたてば、国がさまざまな手だてをとってくれる。そして、復興にむけたプラスの足音がきこえてくるだろう」という淡い期待を抱いて いました。でも国は、首相が辞めるとか辞めないとか、「税と社会保障の一体改革」などに奔走した。そんな姿を見ていると、「被災地のことは、もう忘れられ た」と感じます。もし被災したのが首都圏だったら対応が違ったはずです。もっと大あわてで、スピーディーにお金を投入したでしょう。
 私たちは「自分たちが大変だから同情してくれ」なんて気持ちはありません。でも、みんなおなじ人間じゃないですか。いまだに、国のやり方には感覚のギャップを感じるし、心が通わないなと感じています。
 被災地を政争の具にしている、という感も否めません。どの政党が政権をとるかではなく、「市民や国民のために何をやるべきか」ということを考えてほし い。 今回の東日本大震災は「千年に一度の災害」「未曾有の災害」と言われています。それならば、その言葉に見あう規模で、スピードで、国には動いてほし い。被災地は「まったなし」なのです。
 国には「復興にむかっている、前に進んでいる」ということが被災地の目に見えるように動いてほしい。動きが目に見え、スピード感があわされば、市民のみなさんに「復興までがんばろう」という気持ちを持ち続けてもらうことができる、と思うのです。

あたらしいまちづくりに向けて

 あの日、陸前高田市は一五メートルもの津波に襲われました。まちの復興計画はありますが、防潮堤ができないと、あたらしいまちづくりは不可能です。防潮堤は県が建設することになっていますが、完成は五年後です。その間、どうしのぐのか、とても大きな課題です。
 市で作成した復興計画をもとに、まちの高台移転、地主さんとの交渉などをおこないますが、一朝一夕にできるものではありません。ですが、「あたらしいまちは、高齢者や障害者が自由に行き来できるようなまちにしたい」との夢をもっています。(2月6日談)
写真・廣田憲威

長野県栄村

豪雪のなか震災復興へ

写真と文・前沢淑子

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村民の生活に欠かせない役割を果たしてきた中条橋は、豪雪で崩落した

 昨年三月一二日未明、震度六の地震に見舞われた長野県栄村。今年二月一五日、「栄村震災復興計 画策定委員会」が開催された。五人の公募委員を含む一三人の意見は、一〇月を目途に策定の「栄村震災復興計画」に反映される。ボランティアセンター「結 い」は復興計画策定まで活動を継続。二月一三日現在のボランティアは三七七〇人。「雪下ろしは村がやってくれるから要請は少ないが、解体されていない家屋 もあり、雪が消えると要請が増えるだろう」とセンターの職員。
 二月一九日、三メートルを超える豪雪の栄村で出会った男性は、「(雪は)もういらねえよ」と崩落した中条橋を指さしながら語った。通行止めの中条橋は、 雪の重さに耐えられなくなり崩落。この橋は村民の便を図って村が独自に架けた。国の査定は「橋は二本でいい。中条橋はいらない」としたが「村人の墓参りに 必要なんだ」と島田茂樹村長が要請し、査定を通ったという。

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下ろしても下ろしても雪が降りつもる

 仮設暮らしに加えての大雪は、被害を拡大。一月六日、仮設住宅の雪下ろし中の栄村振興公社職員(41)が屋根から地面に転落して死亡。男性は野田沢地区 の自宅が被災し家族六人で仮設住宅に避難しており、雪が消えたら被災した住宅の再建を考えていた。「自宅の雪下ろしで疲れた後の仮設住宅の雪下ろしは無理 だった」と悔しそうに同僚は語った。
 厳しい状況のもとで新しい絆が広がっている。南相馬市在住で農業を営んでいた女性。現在、千葉県柏市の借り上げ住宅で暮らす。女性は栄村の被災を知り、 自身の義援金の一部を役場に送った。その後、お礼の手紙を送ってくれたHさんとの交流がはじまる。収穫の時期をむかえた頃、Hさんに「稲刈りがしたい」と 言うと「うちにおいで」と誘ってもらい、村人の温かさと自然の中でのんびりできたと言う。
 復興に向けて、村人ひとりひとりの意見を集約し実行する「小さくても輝く自治体」の真価が発揮されるときである。

いつでも元気 2012.4 No.246

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