いつでも元気

2008年8月1日

元気スペシャル 世界の関心薄れ、戦闘は続く

アメリカの占領が続く限り…

イラク

佐藤真紀  日本イラク医療支援ネットワーク事務局長(JIM-NET)

 三月二五日朝、イラク南部の街バスラは突然完全に閉鎖された。マリキ首相率いる政府軍が、“テロリスト掃討”に乗り出したのだ。五万人の軍隊が送り込まれ、外出禁止、学校の授業停止、イラク全域からの車の出入りも禁止となった。
 作戦はアメリカの圧力によるもので、一〇月予定の地方選挙に向け、米占領を強く批判するイスラム教シーア派のサドル師派に打撃を与えるのが目的だった。 ブッシュ大統領は「“自由なイラク”の決定的瞬間だ」と賞賛、米軍も空爆を開始した。しかしこの攻撃は、サドル師派支持者の多いバグダッドの貧民街サドル シティーでの戦闘に発展。ブッシュ大統領の思惑はまたもつぶれ、占領永続を許さないイラク国民の意志は明らかだった。

避難先にもロケット弾が

 バスラの治安はことしに入ってから著しく悪化していた。私たちが連携している医師たちにも危険が迫っている。
 がんの子どもの増加を早くから心配してきたアル・アリ医師は「周りで二人の医師が殺された。三人が誘拐され、四〇〇万円以上のお金を払って釈放された。 一二人の医者に『殺すぞ』と脅迫状が送られてきた。ピーター医師は、家に押し入った暴徒に顔を撃たれたが、命はとりとめた」と知らせてきた。
 三月二八日、産科小児科病院のジナン・ハッサン医師からメールが入った。
 「路上で撃ちあいが続いています。すべての病院はけが人でいっぱいです。救急車も動けず、けが人は道端で死んでいきます。私は、弟の家に避難していまし たが、二日前にロケット弾が打ち込まれ窓ガラスが全部割れてしまいました。私たちも家にいるしかなく、がんの子どもたちのことが心配です」

がんばるアメリカのNGO

 私は急きょヨルダンのアンマンに飛び、緊急救援活動をおこなうことにした。ユニセフやWHOなどの国連機関から情報収集を試みる。だが意外なことに、彼らはニュース報道と同じく「状況は安定してきた」という判断なのだ。私たちが現地から得る情報とずいぶん異なる。
 次はクウェートに飛んだ。唯一活動を続けていたのが、意外にもアメリカのNGOであった。「イラク人の反米感情は高い。そんななかで人道支援はできるの か」という私の問いに「我々はNGOです。軍とは活動をともにしない。私たちが武装することもないし、護衛をつけることもしない。地元の人々、モスク(寺 院)や部族、赤新月社(赤十字)などの信頼があれば活動は可能だ」というのだ。彼らにも勇気づけられて、緊急支援を開始した。

800世帯に食料を配給

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配給した食料を手にするがんの子ども。早く治療が再開できれば…(バスラ産科小児科病院で)

  バスラ産科小児科病院では、現地スタッフのイブラヒムが中心になって食料配給をおこなった。約一週間かけ、病院に来る患者の家族四〇〇世帯へ食料パッケー ジ(米一〇キロ、砂糖三キロ、粉ミルク一キロ、油一リットル、レンズ豆二・二五キロ)を渡した。がんの子どもたちが、早く病院に戻って治療を再開できるよ うにという思いもある。
 バスラから南に三〇分くらい車で走った街ズベイルでは、ウム・アハマッドという女性の協力で、四〇〇世帯に食料の配給ができた。イスラムでは、女性が見 ず知らずの男性と話したりするのはむずかしい。そこでウム・アハマッドが、援助の必要な家族を献身的に探し出して、リストアップしてくれたのだ。
 彼女自身、夫はすでに定年退職し、七人の子どもがいて貧しいのだが、孤児や未亡人を支援する活動には積極的だ。
 「私はとっても幸せです。貧しい女性たちを支援する仕事を手伝えて。見てください、彼女たちの笑顔を」という。

病院に緊急の給水支援

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食料と水を手にして笑顔をみせる患者家族(バスラ産科小児科病院で)

 私たちの支援は四月中に終了するはずだった。しかし、新たな問題が生じた。病院に一週間、まったく水が来ないのでトイレも流せないという。そこで新たに、給水活動も開始。六月四日までに、一一回、合計三五二トンを病院に給水したが、水不足は改善されそうもない。
 バスラの治安は今は落ち着いているが、破壊された都市の機能は、一向に回復しない。病院からの医薬品のリクエストも増える一方で、電気も水も不十分なまま暑い夏に入った。気温はすでに五〇度近くにまで上昇している。
 イラク開戦から五年余。住民は疲れ切り復興支援を求めているが、情報は少なく国際社会の関心はあまりにも薄い。戦争を支持した日本の責任は大きい。あら ゆるつながりでイラクへ支援を。我々もバスラへの支援を強めたい。

■支援金は郵便振替で。口座番号:00540―2―94945、口座名:日本イラク医療ネット

急速な復興の一方、タリバンが復活し

アフガニスタン

写真家 久保田弘信

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帰還民のための新しい街シェイフミスリーで見かけた少女

 アメリカのアフガニスタン攻撃が始まって一〇月で丸七年。多くのアフガニスタン人が隣国へ逃れ、パキスタンのアフガン難民は三五〇万人にもなった。
 二〇〇三年から国連のサポートのもとに難民の帰還計画が始まり、パキスタン国内にある難民キャンプが閉鎖され始め、難民は国に帰らざるを得なくなった。
 一〇年来の友人アジーズはキャンプが閉鎖された後も「子どもを連れて帰れる状態じゃない」とパキスタンに家を借りて住んでいたが、その彼も今年になり帰 国を決意。アジーズに同行し、私もこの三月、アフガニスタンに入った。

始まった新しい街づくり

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タリバン政権時代から活動しているNGO。試験農場で植物を栽培し、帰還民に分けている
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緑豊かな農場

 アフガニスタンのなかでも、パキスタン国境に近いジャララバードは比較的治安もよく、近年、帰 還民が増えている。長く難民生活をした人たちの多くは帰るべき故郷や家をなくしている。そんな人たちのために政府が土地を分け与えるプロジェクトが始まっ ていた。ジャララバード郊外のシェイフミスリーがそうだ。帰還民は土地をもらい、国連やNGOの助けを借りて家を建設し始めていた。
 計画ではシェイフミスリーはスーパーマーケットや病院、学校まで網羅した総合都市になる予定だ。いままで荒れ地だった場所が数年後には、近隣でもっとも近代的な街に発展する可能性がある。
 しかし難民として海外で生活してきた人たちと、戦争中もアフガニスタンに留まりつづけた人たちとはイスラムに対する考え方や生活習慣が大きく違う。ジャ ララバードはもともと保守的な地域で、現在でもブルカ(全身をおおうベール)を使用する女性が多い。
 一方、シェイフミスリーの新住民のなかには欧米で出稼ぎをしてきた人たちもいる。国連やNGOなど復興支援に携わる人たちと日々出会い、外国人や女性に 対する感覚がオープンな人が増え始めている。顔を出して学校に通う若い女性もいる。
 新たな文化が急速に取り入れられた時には必ずさまざまな衝突が起きる。新旧のアフガニスタン人が何とか折り合いをつけ、新しいアフガニスタンをつくっていってほしい、と祈る。

タリバンに心寄せる人も

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パキスタンとの国境。いまだに多くの女性がブルカを使用している

 復興に向かう一方で、二〇〇五年後半からアフガニスタン南部を中心にタリバンが復活してきてい る。武装勢力が各地で蜂起。米英軍などと交戦し、首都カブールでの攻撃・テロも頻発している。一般の住民のなかにも武装勢力を応援し外国軍隊を追い出そう とする動きもある。私たちは、タリバンが復活しつつある理由を考えなければならない。
 取材中、アフガニスタン国境沿いのトライバルエリア(部族地域)でミサイルが民家に数発撃ち込まれ、少なくとも一八人が死亡、多数が負傷、というニュー スが流れた。このミサイルの出所は不明だが、数日前に多国籍軍がアフガン領内から精密誘導ミサイルを発射し、同地区の隣接地にあるタリバン拠点を攻撃して いた。出所不明のミサイルも、アフガン駐留外国軍が撃った可能性があるとパキスタンのニュースは伝えていた。
 アメリカは、9・11同時多発テロ事件後、首謀者オサマ・ビン・ラディンをタリバン政権がかくまったとしてアフガン戦争を始めた。米軍は自軍の被害を最 小限にするために空爆やミサイルで攻撃する。しかしいかに精巧なピンポイントであっても、何の罪もない人たちを必ず巻き添えにし、犠牲者を生む。
 生き残った人々が米軍への憎しみを募らせ、アメリカの傀儡である現カルザイ政権よりタリバンに心を寄せるようになっている一面があるのだ。

自衛隊派遣は支援ではない

 日本では自衛隊をISAF(国際治安支援部隊)に参加させるべきだという意見がある。治安支援といっても、南部ではタリバン掃討作戦が続いている。ISAFはPKO(国連の平和維持活動)ではなく、米軍中心の多国籍軍だ。
 アフガニスタンには、復興支援のために働いている日本人がかなりいる。自衛隊派遣となれば、彼らに危険が及ぶ可能性が高い。現在も水路建設を続けている ペシャワール会の中村哲医師も、陸自が派遣されれば撤退せざるをえなくなると抗議している(六月七日の記者会見)。日本人がやれることはたくさんある。復 興支援イコール自衛隊の派遣という短絡的な発想だけは、絶対にしないでほしい。

いつでも元気 2008.8 No.202

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