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民医連新聞

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第16回共同組織活動交流集会in岡山 動く分科会から

 第16回共同組織活動交流集会の2日目は、4つの動く分科会も行いました。一部を紹介します。

いのちがけの裁判闘争

■ 「人間裁判」 とは?

 動く分科会(2)「朝日訴訟の歴史と人間裁判の碑」には、29人が参加しました。
 「人間裁判」は、重度の結核患者だった朝日茂さんが、当時(1957年)の生活保護法による保護基準があまりにも低く、憲法25条で保障された「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」の侵害だとして、たたかった裁判です。人間にとっての生きる権利を問うたたかいでした。東京地裁で、保護基準を違憲とする画期的な判決(1960年)を得ましたが、高裁で棄却。朝日さんは最高裁の上告審中の1964年に亡くなり、裁判は終結しました。

■憲法は絵に描いた餅ではない

 前半は、川谷宗夫さん(朝日訴訟の会事務局長)を講師に、岡山・早島(はやしま)町にある、人間裁判の碑を見学しながら、説明を受けました。後半は、朝日さんが使っていた生活用品の実物などを見ながらの座学でした。
 当時の結核患者は、療養所の坂道を「地獄坂」と呼び、世間は患者を「穀潰(ごくつぶ)し」と呼んでいたことなど、戦中・戦後の社会をおおっていた雰囲気、療養環境を学びました。地裁判決を出した、浅沼武裁判長は、自ら療養所に出向き、朝日さん本人と会いました。尋問を終えた浅沼裁判長は「憲法は絵に描いた餅ではない」と、朝日さんにのべたといいます。
 分科会は、質疑応答を待ちきれない参加者から、質問が飛び出し、講師の川谷さんがその場で即応する、対話型でした。参加者の松生竣佑さん(医療福祉生協おおさか、事務)は「同世代の友人たちは生活保護に否定的な意見が多い。でも、朝日訴訟を知ってもらえば、ひろい視点が持てるのではないか。学んだことをもとに、地域で対話していきたい」と語りました。(松本宣行記者)

水島の公害とまちづくり

 動く分科会(4)「水島の公害と環境再生のまちづくり」には、約20人が参加しました。倉敷市の水島には日本有数のコンビナートがあり、大気汚染をはじめ土壌汚染や水質汚染などの公害がひろがりました。「みずしま財団」の塩飽俊史さんが、工場に隣接して人家が並ぶ地域や水島コンビナートの様子を案内しながら説明。同財団は、健康被害を受けた住民が原因企業を訴えた裁判の和解金で設立され、環境再生やまちづくりの拠点として活動しています。

■戦後復興と公害

 行き帰りのバスで塩飽さんが水島コンビナートの成り立ちや公害被害について解説しました。水島のまちは、戦闘機を製造するため、三菱重工業水島航空機製作所(1943年操業開始)がつくられたのをきっかけに誕生。戦時中に労働させられた朝鮮人や復員した人が多く住み、1950年代に工業地帯として発展。60年代から特産のい草が枯れ、魚が臭くなるなど、汚染がひろがりました。
 塩飽さんは「この地で無差別・平等の医療をめざして誕生したのが倉敷医療生協。裁判では『被害者の体のことを一番知っているのは私たちだ』と、医師らが手弁当で患者から聞き取りし、健康被害を証言した」と紹介しました。

■今も続く汚染

 現在も岡山県内のCO2排出量の6~7割が水島地域によるものとの説明に、大阪から参加した安達隆雄さんは「ぜんそくの持病があるが、高い煙突のすぐ下を歩いてから息苦しくなった。環境基準を下回ったとはいえ、今も汚染は続いている」と話しました。
 参加者からは、「戦後の日本経済は復興したが、いのちや健康を犠牲にしたものだったとわかった」「経済発展を果たして幸せだったのか。公害は過去の問題ではない」などの感想が出ました。(『民医連医療』編集部 丸山聡子)

(民医連新聞 第1816号 2024年10月21日号)