民医連新聞

2024年7月2日

ミナマタは終わっていない これからもともに歩む 新潟民医連

 水俣病(解説)公式確認から68年、新潟では59年の年月が経過。全面救済を求めるたたかいは今も続き、患者をささえるチーム・ミナマタには全日本民医連も加わっています。新潟で患者、ともにたたかってきた民医連職員に思いを聞きました。(稲原真一記者)

すべての患者に救済を

 「私たちには時間がないのです!」と鬼気迫る訴えをするのは、ノーモア・ミナマタ第2次新潟訴訟原告団団長の皆川榮一さん。同訴訟は提訴から10年が経過し、原告147人のうち31人が亡くなりました。5月1日、環境省が熊本の被害者の発言マイクを遮断する事件が起こり、世間の注目が集まるいま「すべての患者の一刻も早い救済を」と呼びかけます。
 皆川さんは80歳。20代の頃には体調の異変を自覚しましたが、「当時は水俣病と言えば重症者や高齢者。とても名乗り出られなかった」とふり返ります。夫婦二人となった69歳の時、「このまま水俣病を隠して生きていていいのか」と、むなしさと悔しさが込み上げてきましたが、水俣病特別措置法はすでに申請が打ち切られ、裁判に訴えるしか道はありませんでした。

理解されない切なさ

 皆川さんは訴訟を決意し、実名での新聞報道に応じた翌朝、親族から「私たちのことも考えてください!」と電話があり音信不通に。「親族には申し訳ない気持ちがある。しかし、本当の自分を捨てなければたたかえなかった」。
 同原告団副団長の長谷川みゆきさんは「昔から症状はあったが、まさか水俣病とは思わなかった」と話します。両親が水俣病の診断を受けたことをきっかけに、夫の勧めで自身も受診しました。「手足のしびれがあり、毎日起きるのもつらいが、何よりつらいのは、このつらさを誰にも話せないこと」。子どもの頃から周囲が「結婚できなくなる」「ニセ患者」「金目当て」と話すのを聞かされ、いまでも身近に差別があります。「患者を認定しない県にも問題があり、さらに国が責任を認めず問題を引き延ばしている。このつらさを理解してほしい」と訴えます。

患者とともに半世紀

 こうした原告147人すべての診断を引き受けたのは、新潟民医連の関川智子さん(医師)です。1971年に初めて診断書を作成して以来、今年3月まで外来で患者と向き合い続け、半世紀。現在もチーム・ミナマタとして、たたかいをささえています。
 現状について関川さんは「水俣病は難しいと言われるが、要は食中毒。本来は汚染された魚を食べて症状があれば、すべて水俣病。簡単なことなのに、それを認めない国や企業のせいでどんどん複雑になってしまった」と憤ります。
 「診療でも特別なことはしていない」と関川さん。しかし、水俣病の診療にかかわる村山英恵(はなえ)さん(新潟・舟江診療所、看護師)は「患者の人生をまるっと引き出す診察に驚いた。患者とは家族やきょうだいのようで、人柄に惹かれている人も多い」と言います。関川さんは「患者や支援者との医師としてだけでない人間としてのかかわりが楽しく、やりがい。だから続けてこられた」と笑います。

次世代へ引き継ぐ

 若い世代にも関心を持つ人がいます。今年4月、新潟・下越病院に入職した山田孝太郎さん(事務)は、新潟県立大学の3年生の授業で熊本水俣病に触れ、現状を知って「まだ終わっていない」と衝撃を受けました。その後、裁判傍聴や新潟水俣病阿賀野患者会にも通い、「患者や支援者の人から学び鍛えられて、自分のミナマタを養ってきた」とふり返ります。水俣病をテーマに卒業論文を書き、患者会でも発表。卒後は新潟で働きながら水俣病にかかわれる場所として、新潟民医連を選びました。
 一方で新潟では、関川さんの後を引き継ぐ医師がいないことが課題です。関川さんは「他がやらないから民医連がやってきた。私もそうだったように、踏み出してみれば難しくない。多くの人に関心を持ってほしいし、もしやろうという人がいたら周りがささえ、後押ししてほしい」と期待します。

(解説)水俣病とは 
 メチル水銀に汚染された魚介類などを摂食したことで、手足のしびれや視野狭窄、構音障害などの症状が現れる中毒症。
 1956年に熊本県水俣市で確認され、1965年に新潟でも公式確認された。新潟では旧昭和電工(現レゾナック)の工場廃水が原因で、阿賀野川流域の広範な地域で引き起こされた。各地で裁判闘争が行われたが、いまだに救済されない人や、差別や偏見から名乗り出ることすらできない多数の患者がいる。

(民医連新聞 第1809号 2024年7月1日号)

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