民医連新聞

2023年8月8日

市民運動がひらく東アジアの非核・平和の未来 日本原水協代表団の日韓交流in韓国

 アメリカが広島と長崎に原爆を投下して78年。日本では政府が戦争する国への「大転換」を強行しています。一方、市民レベルでは6月、韓国で非核・平和のための日韓交流が行われ、民医連も参加。企画の概要を紹介し、市民社会が切り開く非核・平和の可能性について考えます。(丸山いぶき記者)

 6月6~10日、原水爆禁止日本協議会(日本原水協)代表団(以下、日本代表団)約30人が「原爆投下を裁く市民法廷第1回国際会議&非核平和のための日韓交流」と題して、韓国を訪問しました。訪ねたのは韓国南部の晋州(チンジュ)、陜川(ハプチョン)、釜山(プサン)など。1945年8月に広島・長崎で被爆し、その後、帰国した韓国人被爆者のたたかいを学び、東アジアの非核・平和、核兵器禁止条約を促進する共同を発展させることを目的に、国際会議や交流などを行いました。
 日本代表団には全日本民医連から、被ばく問題委員会委員長の藤原秀文さん(広島・福島生協病院、医師)と、岸本啓介事務局長ほか、計4人が参加。韓国社会的医療機関連合会(社医連)と人道主義実践医師協議会(人医協)の医師らも各企画に部分参加し、久しぶりの再会を喜びました。

韓国で原爆投下を裁く市民法廷へ向けた試み

 6月7日、「原爆投下を裁く市民法廷」(以下、市民法廷)の開催をめざす、第1回国際会議が開かれました。韓国や日本のほか、ベルギーやスイスからも政治学者や法学者などが招かれ、約180人が参加しました。
 韓国では現在、2026年のNPT(核不拡散条約)再検討会議にあわせて、市民法廷を開催しようという運動がすすんでいます。第1セッションは「韓国被爆者の視点から見た米国の広島・長崎への原爆投下の政治的・軍事的意味」と題し、韓国の政治学者や日本反核法律家協会の大久保賢一さんらが討論。第2、3セッションでは1945年当時の国際法(成文法と慣習法)から見た原爆投下の違法性を議論しました。
 目立ったのは若い世代が運営を担い、討議に参加する姿。会場から「日本の敗戦で植民地支配から解放された韓国では、原爆を“正義の爆弾”とみる世論が根強かったが、変えてきた。私たちがさらに変えていくべき」といった発言もありました。
 運動を主導し、日本からの参加を呼びかけたのは、「平和と統一を拓く人びと=SPARK」。韓米軍事同盟の廃棄や朝鮮半島の非核化、自主的・平和的統一などをめざして活動する市民団体です。

なぜ、韓国で? 日本の戦争加害と韓国人被爆者

 市民法廷運動は、「原爆を投下したアメリカ政府が公式に謝罪してほしい」という、韓国人被爆者の願いから出発しました。2歳の時に広島で被爆した、韓国原爆被害者協会(以下、1世協会)陜川支部長のシム・ジンテさんは、国際会議の冒頭であいさつ。「戦犯国日本に強制的に連れて行かれた韓国人が、どうして爆死し、(生きのびた人も)原因不明の病気に苦しみ死んでいかなければならないのか」と訴えました。
 78年前、アメリカが原爆を投下した広島と長崎のまちには、多くの朝鮮半島出身者が暮らしていました。1937年の日中戦争開始以降、日本は翌年に国家総動員法を制定して、すべての支配地域にある人と物資、資金を戦争に動員し始めました。植民地支配していた朝鮮半島からも推計780万人もの人びとを、朝鮮半島だけでなく日本や満州、台湾、サハリンや千島列島、東南アジアや中西部太平洋一帯(南洋群島)へ動員し、労務員・軍人・軍属や慰安婦として強制従事させていました。
 特に広島には陜川地域の出身者が多く、原爆を生きのびた人びとが帰郷した陜川は、「韓国の広島」と呼ばれています。

■ 「韓国の広島」、陜川へ

 日本代表団は8日、韓国人被爆者が生活する陜川原爆被害者福祉会館(大韓赤十字社運営)と、隣接する韓国初の原爆資料館(2017年開設)を訪ねました。
 資料館によれば、旧日本内務省警保局(現在の警察庁)発表の資料で、原爆投下により広島で7万人、長崎で3万人の朝鮮半島出身者が被爆、うち死者は広島3万5000人、長崎1万5000人、帰国した被爆者は広島から3万人、長崎から1万3000人と推計されています。
 資料館脇に建つ石碑には「核のない世界を耕すために、生き続けなければ」と刻まれています。韓国で初めて被爆2世として健康被害を訴え、2005年に35歳で病死した、韓国原爆被害者2世患友会初代会長キム・ヒョンユルさんの言葉です。彼の被爆者運動への献身と影響は絶大で、人医協のイ・ボラさん(医師)は、「グリーン病院の患者だった」とも紹介しました。

■韓国人被爆者の証言

 福祉会館では、入所者など2人の被爆者から証言を聞きました。
 イ・スヨンさん(95歳女性)は時折苦しそうに息を整えながら、流ちょうな日本語で、18歳の時、広島市内の郵便局で勤務中に被爆した体験を語りました。共済見舞金は、国交も回復していない日本に2年以内に取りに行くことが条件で、結局受け取れませんでした。1982年になってようやく被爆者健康手帳を取得して、広島で子宮がんの手術を受けました(※)。イさんは「戦争はないようにするのが一番」と訴えました。
 被爆当時ゼロ歳だったイ・ギュヨルさん(78歳男性)は家族の証言を紹介。日本の敗戦後、帰国するには密航船しか手立てがなく、15円の戦争債券以外持ち出せずに財産を失いました。自身や子どもたちの健康不安も訴え、「世界にはいまだ数千発の核兵器が存在し、それが北朝鮮にもあるため、核武装に賛成する韓国国民もいるが、私たち被爆者は核も戦争もない世界を追求する」とのべました。

■被爆者医療に必要な視点

 続く交流会では藤原さんが、日本の被爆者の現状を報告。被爆者が高齢化し、医療だけでなく介護や生活支援が課題であることや、「黒い雨」体験者の援護対象の拡大、アメリカによるビキニ水爆実験(1954年)で被ばくした元漁船員の裁判にも言及しました。
 会場からは被爆2世、3世への健康影響に関する熱心な質問が出され、議論になりました。終了後、藤原さんは1世協会の会長からも声をかけられ、「韓国では福島の原発汚染水海洋投棄への懸念が強く、被ばくの遺伝的影響に関心が高い」と聞きました。
 藤原さんは交流をふり返り、「研修医の時に民医連の大先輩医師から『被爆者に起きていることは、すべて被爆が原因なんだという視点がいる』と言われた。原爆を受けて貧困に陥り、教育、結婚の機会がなかった、といった生活苦のなかで起こっていることだと。韓国の被爆者が訴える症状も同じ。私たち医者は、それは原爆のせいだと捉えて寄り添い、受け止めて行動しなきゃいけない」と話しました。

韓国にも多くの仲間が 運動の共同・発展を

 9日は、SPARK釜山支部(以下、釜山SPARK)の案内で釜山平和ツアーを実施。国立日帝強制動員歴史館では日本の加害の歴史を学びました。「日帝」は戦時下の日本の帝国主義(植民地支配)体制を厳しく批判する言葉として、韓国で使われています。
 ツアーの後半では在韓米軍関連施設も視察。韓国海軍の作戦司令部、白雲浦(ペクウンポ)基地内には在韓米軍司令部があり、神奈川県横須賀市に駐留する米海軍第7艦隊を支援する役割を担う部隊が配備されています。釜山SPARKは米軍原子力潜水艦や空母が入港するたび、許可を要しない一人デモなどで抗議しているといいます。
 また、韓国一の海運物流拠点・釜山港の第8埠頭は、在韓米軍の装備や兵器の持ち込み専用の揚陸港として無償供与されています。視察には、行く先々で韓国警察30人余りの監視の目が。「韓国人同士を対立させる構図は、沖縄の辺野古と同じだ」と藤原さん。
 釜山SPARKは、「核兵器を積んでいない」という非核証明書の提出を軍艦に義務づける非核「神戸方式」を、釜山にも導入しようと精力的に活動しています。

* * *

 全日程をふり返り藤原さんは言います。「共通の敵は軍事ブロックの最上位にいるアメリカだと再確認した。軍事同盟の解消が大事。さらに、岸田首相の大軍拡路線の阻止と、核兵器禁止条約への日本の批准、この3つの方向が必要。市民運動として、被爆者に寄り添う医療をひきつづきがんばっていきたい」。

 ※在外被爆者は長く、被爆者健康手帳の申請に来日が必要で、取得後も日本を離れれば失効していた。「被爆者はどこにいても被爆者だ」と裁判闘争を重ね、海外での申請や手当支給が実現。韓国では2016年に支援立法が成立


 もう一つ、日本の朝鮮「加害」を語る上で忘れてはならない歴史が、韓国で「壬辰倭乱」と呼ばれる、1592年~98年に豊臣秀吉が行った朝鮮侵攻(文禄・慶長の役)。日本代表団はその激戦の地・晋州にも宿泊し、史跡や専門の国立博物館を見学。隣国の「脅威」が叫ばれる昨今、むしろ日本人の方が、隣国の人びとから「残虐で好戦的な民族」だと見なされかねない、数々の歴史をたどってきたことを思い起こした。

(民医連新聞 第1788号 2023年8月7日)

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