神々のルーツ 明日香の地と「今木神」
文・写真 片岡伸行(記者)
特別史跡のキトラ古墳、高松塚古墳をはじめ数多くの史跡が残る奈良県明日香村は、“列島の古代”がそっくり眠っている場所。この地に根を張ったのが、新羅系の秦氏と共に古代の職能集団を束ねた百済系の漢氏でした。
古く朝鮮半島から来た人を「古渡才伎」と呼び、5世紀後半以降は「今来才伎」と称しました。才伎とは、優れた技術をもつ人のことで、この人たちを中心に古代の職能集団(=部民制)が組織されました。
漢氏の本拠地・檜前
近鉄吉野線飛鳥駅前を走る中街道から少し入った、明日香村檜前の丘陵地に建つ於美阿志神社。ここが漢氏(東漢氏)の本拠地でした。昨年2月号で浅草・三社祭の「三社」とは「檜前浜成・竹成兄弟と土師真中知」の三者だと紹介しましたが、檜前はこの兄弟にゆかりのある地なのです。
『日本書紀』によれば、漢氏の祖は3世紀終わり頃に〈党類17県の人々を率いて〉列島にやって来た〈阿智使主とその子・都加使主〉。その阿智使主夫妻を祀ったのが於美阿志神社です。同じ敷地内にはかつて一族が建てた檜隈寺がありました。国の史跡に指定される檜隈寺跡には、高さ4m余の重要文化財・十三重石塔が静寂の中にひっそりと佇んでいます。
漢氏の祖・阿智使主は百済系とされ、朝鮮半島南部にあった伽耶諸国の一つ「安耶(安羅)」から来たので「漢」と称したとの説もあります。一族は「百済才伎」あるいは「今来漢人」と称されました。
昨年7月号で〈大和の如きは事実上、漢人の国。山城は事実上、秦の国〉との『吉備郷史』の記述を紹介しましたが、大和(奈良)を拠点とした漢氏の一族は製鉄や建築、軍事など多くの技術に長け、山城(京都)に根を張った秦氏と共に古代の列島に先進技術を根付かせました。
また、河内(現在の大阪府東部)に分かれた一族は西漢氏と呼ばれ、いずれも古代政権の政治、経済に多大な影響を及ぼしました。やがて明日香の地に百済から仏教が伝来すると、飛鳥時代と呼ばれる仏教文化が華開きます。
百済出身者の祖神
明日香村をはじめ奈良県中部の御所市、南西部の五條市、吉野郡など広大な一帯は古代、「今木(今来)地方」と呼ばれました。そこに住み着いた百済人の先祖の神が「今木神」です。第49代光仁天皇の妻となる百済系の高野新笠の祖神とされ、昨年8月号(菅原道真のルーツ)で紹介した百済系・土師氏の氏神でもあります。
その今木神を主祭神とする平野神社はヤマト王権と天皇家が重視した上七社の一つ。元々は奈良の都・平城京内にあり、794年の平安京遷都に伴い現在の地(京都市北区)に移されて神社の最高位・正一位を与えられました。今木神は「皇太子の守護神」とされます。なぜなのでしょう。
桓武の光と影
平安京に都を遷したのは高野新笠の子で第50代天皇となった桓武(在位781年~806年)です。皇位継承をめぐる血なまぐさい歴史を背負う天皇家ですが、桓武も当時その渦中にいて、遷都前には天災や近親者の不幸なども重なります。行く末を案じた母・新笠が、息子(皇太子)の守護を祖神に託したとしても不思議ではありません。
百済系ゆえか、生前に皇后になれなかった新笠ですが、桓武は母の死後に「皇太后」の称号を贈り、その恩に報いました。
一方、桓武は今年3月号で紹介したように、王権に抵抗する東北の蝦夷征討に莫大な軍事費を投入。平安京造営もあって民の暮らしを疲弊させ、世は荒廃します。桓武亡き後、王権は次第に退潮。平安時代末(12世紀後半)には、以後明治時代まで続く武家政権に取って代わられるのです。
さて、桜の名所としても有名な百済系の神社が「平野」と名付けられたことを、しばし記憶に留めてください。(つづく)
いつでも元気 2023.8 No.381
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