MIN-IRENトピックス

2018年4月3日

第43回定期総会 記念講演より 核兵器廃絶と不戦の誓い 広島の地から

原子爆弾被害とは何か

元広島民医連会長 齋藤紀さん

 全日本民医連は、二月二二~二四日、広島市内で第四三回定期総会を開きました。一日目の夜には、被爆者・小方澄子さんの「原爆体験から思うこと」の証言に続き、元広島民医連会長の齋藤紀(おさむ)医師(現在は福島・わたり病院)が「原子爆弾被害とは何か―核兵器廃絶運動の前進のなかで」と題して記念講演を行いました。(丸山いぶき記者)

 齋藤紀さんは、広島民医連で被爆者医療に携わり、原爆訴訟に関わるなど、長年、被爆者とともにたたかってきた医師。「原爆被害の把握は難しく、葛藤し続けてやっと、なにがしかがわかってくる」と話し始めました。
 昨年七月七日、国連で核兵器禁止条約が採択されました。さかのぼること一九七六年の同じ七月、民医連の医師らが尽力し原爆被害の実態を医学的に要約した報告を国連に送りました。それは全日本民医連(五三年結成)が、六六年の第一四回総会で医療活動方針に被爆者医療を明示し、組織をあげてとりくむと決意して一〇年目でした。核兵器禁止条約の採択は「民医連医師らが国連に働きかけてから、ちょうど四一年目の記念すべき七月でした」。

■原爆の非人道性とは

 原爆投下後「アメリカが知りたかったのは、いかに原爆が人間を破壊したか、だった」と齋藤さん。原爆投下で得た情報を集約し、モスクワに六発の広島型核爆弾を投下すれば壊滅できるという第一級の戦略的情報を獲得したと紹介しました。
 原爆投下後四カ月間で死亡した人のうち約七割が一日目に死亡しました。一日目を生存しても特に熱傷を負った人が生きのびるのは極めて困難でした。齋藤さんは、こうした近距離被爆の実相を詳細に説明しました。
 また、広島と長崎で集計された時間経過による死者の累積曲線が一致することを紹介(図1)。「熱線や放射能による死は、外からの一撃が本人の感覚以前に瞬間に与えられ、死の運命が決まる。足が速い遅いなどその人の能力は関係ない。原爆の被害は逃げることのできない、逃げることが意味をもたない非人道的なもの」と指摘しました。被爆者の白血病のリスクは半世紀以上たっても一般の人を上回り、C型肝炎と被爆の「超相乗効果」は肝がんのリスクを爆発的に高めました。非がん疾患をも広く含む被爆者疾病が有意に増加していることから、原爆症認定制度の抜本的改革が不可欠だと指摘しました。
 被爆者は数十年に及ぶ裁判闘争を通じ被爆者疾病の国家補償を求めつづけ、被爆者救済の道をきり開いてきたことを紹介。一方で、国が「専門家」を総動員して抵抗し、「国家補償」の視点を拒否し続けている結果、未だに訴訟を続けざるを得ないことを指摘しました。
 齋藤さんはスライド上で民医連と、核をめぐる世界の動きを示し、「いま我々はここにいます」と指摘(図2)。北朝鮮、イスラエル、ロシアなどでの核使用の危険性、アメリカの「使える核の配備」「核兵器の小型化」の打ち出し、日本政府の評価などの現況に警鐘を鳴らしました。

■核廃絶運動の魂

 齋藤さんは最後に、「原爆被害は核廃絶運動の現実的、具体的な理由となる」「被爆者の存在は核廃絶運動に魂を入れる」「被爆者の五〇年に及ぶ国家補償を求めるたたかいは、今後、核使用国を全人類が糾弾する先駆的な事例となる」と結び、被爆者のたたかいに学び核廃絶運動をすすめることを呼びかけました。


さいとう・おさむ
 元広島民医連会長。移り住んだ福島で東日本大震災に遭遇。現在は福島・わたり病院に勤務し、福島第一原発事故による被ばく問題とも向き合っている


生き残った私の使命

被爆者 小方澄子さん

 被爆者の小方澄子さんは被爆体験を語りました。小方さんは一三歳のとき、広島の爆心から七〇〇mの自宅で被爆。昨年、ICANのノーベル平和賞受賞式で発言したサーロ節子さんとは女学校の同級生です。要旨を紹介します。

 五七年間、被爆体験を人に話すことができませんでした。地獄のような体験を思い出し考えることがつらかったからです。でも、周りの被爆者が次々亡くなり悶々とする中、知人に励まされ次第に被爆体験を語れるようになり、今は語ることが生き残った私の使命だと考えるようになりました。

■一筋の光を頼りに

 一九四五年八月五日当時、私は母と叔母、二人の弟と五人暮らしでした。私は広島女学院高等女学校の二年生(一三歳)で、毎朝、現在の原爆ドームを右に見て登校。学徒動員令が出て建物疎開で壊された家の瓦や木材の片付けばかりしていました。
 八月六日の朝八時一五分、原爆投下により一瞬にしてすべての景色が無惨な姿へと変わりました。私はその日たまたま体調を崩し家で休んでいて、トイレから出たとたん、突然のごう音と家が崩れるのを感じながら気を失いました。
 私の家は、原爆ドームからわずか七〇〇mで、当時、叔母と私、五歳と三歳の弟がいました。母は五年生の弟の学童疎開先に出かけ家にいませんでした。
 「澄ちゃん、澄ちゃん」と叫ぶ叔母の声で意識を取り戻した私は、がれきの下に埋まっていました。叔母は私の返事を手掛かりにがれきを一枚一枚めくり探してくれました。暗闇に一筋の光が見え、それを頼りに這い上がり、叔母に助けられました。タンスの下敷きになった二人の弟も運よく隙間にいて助かりました。あたりは風圧で家が吹き飛び火の海で、恐ろしくて声も出ませんでした。
 叔母は五歳の弟を、私は三歳の弟を背負って、西へ西へと死に物狂いで逃げました。力尽き川辺にしゃがみ背中に手をやると弟がしっかりしがみつき、嬉しさで涙があふれました。
 夕立のような黒い雨が降りだし、私は黒い雨にうたれながら、周りの人が黒く染まるのをぼうぜんと見つめていました。誰もが無言。ふと我に返り自分を見ると、素足で、着ている服は周りの人と同様ボロ切れ。まもなく、私は嘔吐や下痢が始まり、川のそばを離れることができなくなりました。
 周りには赤膨れになった死体が散乱。死体にはうじ虫がわき、火傷した人は皮膚がぶら下がり、「診療所はどこですか?」「水をください」とうめきながらさまよい歩く。死者は日増しに増え、悪臭が漂い、死体は一カ所に積み上げ油をかけて燃やされました。すべてが地獄絵巻のようで今も鮮明に目に焼きついています。

■私を救い出した叔母は

 八月七日の夕方、母と再会し互いに抱き合い無事を喜びました。数日後、県北の親戚の家で療養を開始。二週間たったころから髪の毛が束で抜け始めました。叔母は、死への恐怖を感じる私に優しく「残念だろうけど、二人共もう生きられない。でもあの世でまた会えるからね。死ぬのを怖れることはないんよ」と、自分に言い聞かせるように話してくれました。
 その後、叔母と私の身体には紫色の斑点が現れ、歯茎から出血し、高熱が続きました。気を失い、気がついたのは一カ月余り後、秋の冷気を感じ始めた頃。その間の記憶はありません。隣で寝ていたはずの叔母が亡くなったことも知りませんでした。優しい叔母は、被爆一カ月後、苦しみながら三二歳で逝ってしまったのです。
 その後も激しい痛みとともに、背中や右腕や足の付け根から膿が出ました。身体のどこかが突然に腫れ、毛穴から多量の膿が出て皮膚がはがれるということを何カ月も繰り返しました。八カ月ほど経ち、杖をつき歩けるようになっても、身体には原爆の傷跡が深く残りました。今も右腕や背中半分にケロイドが残り、多量の膿を取り出した足の付け根は五cmほど陥没し、痛くて横座りできません。
 私は、たまたま体調不良で学校を休み助かりましたが、あの日学校に行った同級生は皆亡くなりました。私は貧血、甲状腺がん、二回の胃がんなど何度も入退院を繰り返しましたが、今もこうして被爆体験を語ることができます。ひ孫にも恵まれ仲間とともに平和をめざし活動しています。でも、一三歳で亡くなった同級生たちは、こんな幸せを感じることもできません。どんなに無念だったか。

■命ある限り9条守る

 同級生や叔母、原爆と戦争で亡くなった人々を思うと、安倍首相による九条改憲は絶対に許せません。何より未来に続く子どもたちに、戦争の不幸を経験させてはならない。命続く限り被爆体験を語り、核兵器廃絶、憲法九条を守る活動に参加し続けます。

(民医連新聞 第1665号 2018年4月2日)

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