民医連新聞

2003年1月1日

住民要求から生まれ住民とともに歩んだ歴史

 全日本民医連が結成されて50年。加盟する病院、診療所、事業所の誕生には、それぞれ感動的なドラマがあります。地域住民とともにつくりあ げてきた歴史のなかに、忘れてはならない物語があります。分けあった喜びも、苦汁をなめたできごとも、民医連の方針や活動に取りこまれて、発展の糧になっ てきました。わたしたちの財産として、いま引き継いでいく精神・原点を、青年職員、中堅職員たちがたどりました。

源流は
津川武一の“農村医療”
青森・津軽保健生協

 当生協は、2001年、創立50周年を迎えました。昨年9月1日、1年半かけて準備した「創立50周年祭」を開催。1万人が参加しました。映像と音楽をバックにした朗読劇をメイン舞台で上演。その企画構成、作曲、台本、演出は私が担当しました。
 津軽保健生協の50年の歩みと、生協の生みの親、医者で作家、国会議員であった故津川武一の生きざまをテーマにしたこの朗読劇で、わたしが何より訴えたかったのは津川先生の「医療を民衆の手に」の精神でした。
 その原点は「銭コがなくても診療する」という人間愛です。貧しかった津軽の人びと、とくに虐げられていた農民の健康とくらしのために、医療活動と平和・民主主義の活動を両立させた生き方です。
 津川先生は「夜になると毎晩のように農村に出かけていった。…私はきまって往診かばんを持っていった。(『医療の民衆の手に』より)」ように、農村医療の草わけでもありました。
 設立当時、貧しい人びとへの診療は「ある時払いの催促なし」でした。いつも金不足で、役員は借金して歩き、アカ攻撃や差別を受け、医師不足にも悩んだ が、津軽の民衆はそれをささえ続けました。いま6万人の組合員のいる大きな組織に発展し、津軽地域の医療をささえています。
 

健生病院
それは 働く人たちの病院である
雨をふせぐように
傘をさすように働く人が病にとりつかれたときは
健生病院がやってくる
看護婦が
事務が、休職のおばさんが
人間は、なぜ病気になるのか
学習をする
学習の結果を
実践にうつす
鉄がかたいと決まっているように
健生病院は学習する

ひろくて深い川が
大河であるように
健生病院も深くて広い

(津川武一著『わが心の歌ごよみ』一月一日より)

 朗読劇のフィナーレは、青山理事長を先頭に、主題歌「輝け虹の橋」を元気に踊りながら合唱し、手拍子と拍手で会場は盛り上がりました。
 ♪「六万の同志がスクラム組んで、歩みつづける これからも。協同の力で、健康と夢と感動を。津軽の空に輝け わが生協の虹の橋」
 翌日から、多くの人が「生協の歴史を知り感動しました」と電話をくれました。あの日の会場全体を包んだ感動と熱気は、これからの津軽保健生協の底力になるものと確信しています。(後藤志げお、津軽保健生協理事)

プロフィール後藤志げおさん ねぷた絵・ねぷた製作・絵画が得意。地域に劇団を呼ぶ上演活動、原水禁運動に熱意。元教員。
《津軽保健生活協同組合》1952年設立。2病院、5診療所、6訪問看護ST、1ヘルパーST。組合員数約6万人。津川武一医師は津軽保健生協の初代組合長。


青年が聞いた“倒産・再建ものがたり”
『団結ってすばらしい』

 今回、三浦克弥・山梨勤医協理事長に1983年4月に起きた倒産とその後の再建のたたかいについてインタビュー するにあたり、当時発行されていた「再建ニュース」や、職員の手記集を読んでみました。「一人ひとりの職員が山梨から民医連の灯を消さない、どんなに苦し い事態の中でも再建する」という目的のためいかに団結したか、まざまざと伝わってきました。

* * *

 山梨勤医協の倒産は、230億円という負債額の大きさ、7800人という債権者の多さでもたいへんな事態。そんななかで再建のために「団結」できたのはなぜか、私はそこに関心があり、その点を中心に三浦理事長に聞きました。

* * *

 「団結しなければならない、で団結したのではない。(この困難を乗り越えるためには)団結しか道がなかったんで すよ」と先生は言いました。「みんなが賃金を減らされているような中、一人だけ抜け駆けして助かろう、という発想では山梨勤医協を再建することはできな い。団結はみんなの自覚になっていたのです」。
 同席した深沢看護師長が「債権者訪問も力になりましたよね」と言いました。きっと、地域の方がたの山梨勤医協への期待が明瞭に見えたのでしょう。その 時、自分の生活を守ることと、地域の患者さんを守ること、病院を守ることが結ばれ、みんなが団結の道を選んだのだ、と思いました。
 「(しかし)私たちは特別に偉かったりまじめな人だった、というのではありません。怠け者で、享楽的で…、ときどきまじめになる普通の人間。あの時の力は非常に大きいものだったけれど」。
 苦闘が続く中で、生活の楽しみも失っていませんでした。三浦先生は魚料理をすることで有名ですが、これを始めたのは倒産後です。魚料理を仲間にふるま い、ともに飲んだり、日々のたたかいを語り合う。そんな先生と仲間たちに私はとても憧れます。

 * * *

 「弱者を助けてはいけない。助けないことが正しいのだ」という政府の「構造改革」は、多くの人を不幸にしています。この状況で自分の生活と患者さんの命・住民に期待される病院をどう守ったらよいのか?
 三浦先生は「歴史や情勢をつかむこと。そこから『どうしたらよいのか』を考えることが血や肉になる」と言います。
 私も、今の時代は「自分だけが助かる道」がある世の中ではないと思います。失業率は5%を超え、年に3万人もの人びとが自ら命を絶っています。日々の ニュースは私たちに未来を見失わせてしまいそうになります。しかし私たちが社会保障制度を充実させ、弱者を救い、貧困者をまもる道を選んでこそ、日本を再 建させることができる。
 山梨勤医協の倒産と再建のたたかいに学んで、今の時代をどう生きるのか?「団結」の道を選んでこそ山梨勤医協の再建があったように、私たちも困っているもの同士が手をつなぐ生き方を選び、実行していきたいと思いました。  (宮崎ようこ、甲府共立病院組織課・入職二年目)

話し手‥三浦克弥医師(山梨勤医協 理事長)
聞き手‥宮崎ようこさん(山梨勤医協 組織課)

【解説】1983年4月、山梨勤医協が倒産。130億円の累積赤字、230億円の債務。債権者の対話を通じ て和議。苦難の末再建15年計画を達成、02年8月新甲府共立病院が完成。全日本民医連はこの教訓から「全職員参加の経営」など三本柱の「たたかう経営路 線」を打ち出し、「統一会計基準」を定め、民主的な経営を推進。再建を全面的に支援した。

豪雨災害救援で知った「民医連の姿」設立に拍車
三重・伊勢渡会医療生協

鈴木睦さんの話
 医療生協の誕生のきっかけになったのは、地元で言う「七夕台風」です。
 74年夏、豪雨で伊勢市一帯が水浸しとなり、多くの家屋に被害が出ました。あまりの被害に国政選挙の投票日が一週間繰り延べされたほどでした。そのとき 全国の民医連の仲間、医療生協の仲間が救援活動に駆けつけてくれ、避難住民の健康管理やお世話に駆け回ってくれたのです。
 その前年から「医療生協をつくろう」の運動が動き出していました。市民の多くがその支援活動を目のあたりにし、体験することで、当地の設立運動は一気に 盛り上がりました。1年後の75年、306世帯の組合員で創立総会が開かれ、伊勢市に伊勢民主診療所を開設しました。

小さいながらも医療・福祉の砦として
 人口10万人の伊勢市は、伊勢志摩観光の玄関口で、江戸時代には「お伊勢参り」で栄えました。伊勢神宮は戦争中には天皇制支配や戦争協力体制に利用され ました。戦後も歴代自民党首相の参拝や皇室行事が残され、保守的風土の強いところです。
 その中で30年近く、住民に根ざした活動を続け、いま3400世帯を超える組合員数に成長しました。
 創立当時とは違い、65歳以上が22%と高齢化してもいます。診療所を中心に訪問看護、訪問介護、通所リハにとりくみ、〇三年一〇月にはデイサービスと ショートステイを備えた在宅総合センター(仮称)をオープンします。  (伊勢度会医療生協理事)

* * *

聞き手からひとこと
 現在は医療生協の活動が知られ、診療所に信頼が厚くなっていますが、設立当時は「医療生協」といってもわかる人が少なくて苦労したのですね。台風が民医連の医療を知らせる機会になったとは。
 鈴木さんは「センター」建設のための増資運動の先頭にも立っています。1カ月で1000万円も集まったのはすごいです。もうすぐ近所のスーパー跡地を借りて着工します。(藤井新一、伊勢度会医療生協事務局・入職二年目)

話し手‥鈴木睦さん(伊勢度会医療生協 理事)
聞き手‥藤井新一さん(伊勢度会医療生協 事務局)


兵庫民医連 青年インタビュー隊が行く
阪神淡路大震災 その時民医連は?

「阪神淡路大震災で示された民医連の連帯」は全国の職員の誇り。兵庫のジャンボリー実行委員の青年たちがインタビュー隊を編成、東神戸病院で奮闘した2人の先輩に聞きました。
1万3000人の民医連職員が救援に入った
 

石田健一郎さんの話 
 自宅の2階で寝ていた私は、すごい揺れで飛び起き、無意識のうちに外に出ました。「子どもが下敷きになってる、誰か助けて」という声に急いで助けに行きました。
 避難所の高校では、「火災で、下敷きになった人を助けられなかった」「わしはいいからお前ら早く逃げろ、と言われ泣いて逃げた」、そういう話があふれて いた。運ばれてくる食料を配ったり、校庭の隅にみんなで溝を堀ってトイレをつくり、プールの水を汲んできたり。
 東神戸病院で水が必要になり、毎日、水を運搬するなど、ボランティアする友の会員が大勢いました。民医連のボランティアも全国から、かなり早い時期に来ました。北海道の健診車が来て、地域を回って健康診断したり。
 震災から半月もたたない時、当時の市長は「神戸空港を計画通り建設する」と。被災者が不安な日を送っている最中にですよ。みんな怒りました。
 八年たったいまも被災者の状況は深刻。五年目から貸付金の返済が始まり、多重債務に陥ったり、自己破産、自殺が続いています。復興住宅の家賃を滞納すると、最終的には追い出されホームレスになるしかない。
 この震災で得た教訓は「地域の輪が最大の安全保障」。医療生協や友の会、「互助会」の役割は非常に大事だと思います。(東神戸医療互助組合理事)

 大西和雄医師の話
 震災直後の状況はあまりにも「非現実的」でした。病院についたら一気に嵐の中に放りこまれたようでした。半月間は必死で、長田区に住む親の安否すら分か らなかった。院内はまさしく「野戦病院」でした。院内がすでに負傷者でいっぱいで、病院前の路上で死亡確認をしたことが非常につらかった。多くの納得のい かない死に直面しました。
 多くの死、残された人たちの悲しみや苦悩、被災者の声……、震災で直面した事が、私が神戸市長選に立候補したことや、いまのホスピスの活動につながっています。
 ホスピスは人間らしく最期を生きていただく場です。一人ひとりの物語を大切にし、最期の時まで寄り添っていきたい。震災で直面した死、そしてホスピスで向き合う死、一人ひとりにそれぞれの生の物語があります。
 私たちに必要なのは、社会的に弱い立場の人に寄り添っていくことでしょうね。想像力が大切です。現実が目の前にあっても、心がそこになければ見えてこな い。テロで数千人死亡、日本で自殺者が3万人、これは阪神淡路大震災が五つ分。あの震災で多くの死を見、遺族の悲しみと苦労に触れてきたら悲惨さが想像で きます。
 何万人と一言で表現される死者の、一人ひとりに家族や友人がいて、悲しみ、苦悩していることを心の目で見て下さい。
 おそらく阪神淡路大震災では、多くの国民も、民医連の職員も想像力を働かせた。だからあれだけ大きなボランティアの動きができたと思います。 (東神戸病院副院長)

インタビュー隊
☆石田健一郎さんに
 渡辺美江さん(東神戸病院 看護師)
 石立真哉さん(ふれあい薬局長田 薬剤師)
 渡名喜正勝さん(高松診療所 事務)
 ☆大西和雄医師に
 林野圭介さん(神戸協同病院 薬剤師)
 大林克実さん(共立病院 事務)


若い職員へ 「被爆者の医療を核廃絶につなげて」
広島・福島生協病院

田阪正利医師の話
 民医連が被爆者医療に関わりだした1960年代は、被爆者運動が高まってきた時でした。
 広島では被爆者の「手記運動」が始まり、『木の葉のように焼かれて』が出版されたのもこのころです。同時に健診の要求が高まりました。
 被爆者は「官」が行う健診に不信感を持っていました。そこで私たちの病院は、地域の被爆者とともに、相談会や健診活動を始めました。67年に全日本民医 連の第1回「被爆者医療交流集会」が開かれ、福島生協病院に「被爆者健診課」を開設しました。
 「被爆者の健診」と言っても、被爆者の居所はわかりません。被爆者自身が平素のつき合いを通じて声をかけあって集まり、周囲の人が会場を設営したり資金 を集め、医療スタッフの私たちが関わってと、この3つがそろって可能になるわけです。民医連の健診が、他の病院と違っていたところはここなんです。
 他の病院は、看板掲げているだけだったけれど、民医連の場合は、組織的に集団的に力を出しあいました。すると被爆者から暮らしや心の問題が訴えられまし た。自治体に働きかけて被爆者支援を求める運動もすすめました。被爆者のエネルギーも民医連の役割も大きかった。
 ABCC(原爆傷害調査委員会)がやっていたのは、加害者側の医療です。次の核戦争のための医療であって、被爆者のためではない。核兵器からの防御をど うするか、資料集めの医療でした。同じデータを使っていても視点が違う。原爆症認定に使われる「爆心地から二キロ以内」の線引きも、機械的にでなく一人ひ とりに対してどうかを考えるのが正しい視点です。

「核」と人間を深く考えて
 いま核問題が昔と違って薄っぺらに話されているのではないでしょうか。パキスタンやインド、イラクでも「何かあったら使う」などと。いま核技術が発達し て、核兵器は「貧しい国の兵器」になっています。人間にとっての「核の脅威」への考えが弱まっていないか。核施設の事故など見ると、核に対する意識が弛緩 しているようで心配です。
 「核の問題」は若い人にとっては、有意義な研究課題でしょう。そこから被爆者問題を考えてください。
 若い職員に言いたいのは、「被爆」を科学的にとらえること、被爆者個人を通じて被爆者全体の問題をとらえる広い視点をもつことです。またヒューマニズムを基本において、「核」と人間を深く考えてください。
 被爆の後遺症についても、お金の保障が問題になるのは「困っている人には最高の薬」だからです。社会の根本の問題です。
 もう一つ大切なことは、「被爆者運動と原水爆禁止運動は一体」ということです。セットでやらなくちゃならないのです。二つを結びつけるために広島ではい ろいろなとりくみをしました。原水爆禁止世界大会で、参加者が被爆者の家にホームステイしたり、被爆者が被爆の実情を語ったり。
 50年の間に、核抑止論派より核兵器廃絶派が優性になりました。何があっても、歴史を長い目で見れば、個人の力が結集して正しい方向に行くだろうと思い ます。社会科学を学習して、被爆者の医療を通して核廃絶をめざしてほしいと思います。(福島生協病院、前院長)

話し手‥田阪正利医師(福島生協病院 前院長)
聞き手‥山田寿美子さん(同院在宅介護支援センター 所長)


閉山した炭坑のまちにつくった 「おらっちの診療所」
福岡・筑豊医療団

古野昭二さんの話
 福岡医療団の発祥の地も筑豊ですよ。
 1960年ころ炭鉱があいついで閉山し、失業者が町に溢れていた。橋の下に人が住んでいるような時代でした。生活保護の手続きに役所へ行って、医療証を もらって開業医に行くのですが、当時は、生活保護の人は、敬遠され、まともに診療してもらえなかった。「われわれ貧乏人の立場に立って診てもらえる診療所 が欲しい」と診療所建設が始まったんです。
 リヤカーなんかで廃品回収をしたり、寄付やカンパを集めて資金にした。
 67年に開設した飯塚民主診療所は、多くの貧困層の診療をしたし、カネミ油症の公害に苦しむ人びとの医療もやった。医療保険の自己負担部分を、加害会社に請求するのも開業医は面倒がりました。
 往診も遠いところは15~6キロメートルも、山の奥にも行っていた。失業対策事業に従事する労働者の現場小屋に行って血圧測定や検尿やったり、要望を聞いたり。喜ばれていました。
 じん肺検診も精力的にやってきました。炭鉱地帯の炭鉱じん肺が大きな社会問題になっていました。
 土地の人たちは診療所を「おらっちがつくった、おらっちの診療所なんだ」と言う。今も変わっていない。
 医療というのは、地域に密着して生活の息吹きも分かるぐらいの活動をやっておれば、信頼関係は必ず生まれます。
 民医連綱領も憲法と同じで、いいことは書いておっても、実際上理解していなかったら、その理念で動く人はおらんようになる。けれど、そこにみんなで立ち返って具体的な活動を考えていけば必ず生きると思います。(筑豊医療団、元専務理事)

聞き手:吉岡 元さん(新飯塚診療所事務:入職2年目)「筑豊医療団の生い立ちを知ることができました。貧しい人びとが自分たちの手で何とかしようと立ち上がった。びっくりすることばかりでした。現在も公害患者さんの健診を積極的にやっています」
話し手の古野昭二さんを囲んで
聞き手:藤島美希さん(田川診療所、看護師:入職2年目)「地域に根ざした医療の中で、いま3診療所と1歯科診療所になりました。地域の要求に応えるには、絆や運動を強めていかなくては」

(民医連新聞 第1297号 2003年1月1日)

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