介護・福祉

2017年2月7日

「男の介護」筆者 富田秀信さんをまねいて講演会 若年認知症の妻と20年 「励まされる側から励ます側へ」 東京・城北地域診療圏協議会

 本紙連載中の「男の介護~千代野さんとの奮闘記」の筆者、富田秀信さんが紙面から飛び出して、東京の民医連事業所で語りました。企画は健康文化会を中心とする城北地域診療圏協議会が、「安心して住み続けられるまちづくり~地域で支える医療・介護~」をテーマに一二月三日に開いた、医療介護活動交流集会でした。「『男の介護』二〇年」と題して記念講演した富田さんは本紙連載のストーリーをなぞりつつ、千代野さんが倒れてからこれまでを振り返り、胸の内を語りました。

(田口大喜記者)

 冒頭、富田さんは「仕事と介護の両立」と題して放送されたテレビ番組「ガイアの夜明け」を上映。働きながら介護する富田さんの奮闘と周囲の暖かい協力で苦難を乗り越えた様子を取材したドキュメンタリーでした。

富田さんの話

 二〇年前の一九九六年四月一九日、当時四九歳だった妻(千代野)が心臓発作で倒れました。その時仕事終わりの私は赤提灯で飲んでいて、幸か不幸か、ポケベルの電池は切れたまま。夜帰ると、家の前に人だかりがありました。「どこ行ってたんや! 千代野さんが倒れたんやで!」。病院に向かうと、三人の子どもたちが。中学校に上がったばかりの末っ子の長女が発見者でした。「帰宅すると玄関に鍵がかかっておらず、不審に思って二階に行くと母が倒れていた」と。救急搬送された妻はなんとか一命はとりとめましたが、無酸素脳症のため記憶障害が残り、記憶の大半を失いました。
 医師から「お名前は? 住所は?」と問われると、妻は旧姓と実家の住所をハッキリ答えました。彼女の中には、二二年間連れ添ってきた夫である私の存在はありませんでした。
 四病院の転院をくり返し、リハビリに励みましたが、医師から「奥さんは元には戻りません」「今後、入院していても意味がない」と、事実上の退院勧告を受けました。

無施策のなか

 当時、通所施設や在宅介護制度は全くありませんでした。福祉事務所に相談しても、「奥さんは若すぎます」の一点張り。どの職員も同じセリフです。「ご家族で介護してください」と突き放されました。福祉を「買う」財力もなく、育ち盛りの子どもたちを置いて故郷に戻るわけにも、仕事を辞めるわけにもいきません。最後は、人様の力を借りるしかありませんでした。友人、知人、近所の人や初対面の人にまで、「妻の面倒を見ていただけませんか?」と率直にSOSを出しました。格好をつけず、我が家の経済状態なども包み隠さず打ち明け、お願いできるところ全てに頭を下げました。
 このようにしてなんとか、退院から介護保険が導入された二〇〇〇年に第二号被保険者の要介護5、精神障害一級に認定されるまでの二年七カ月を、友人やボランティアの応援で乗り切りました。

制度はあっても…

 介護保険がスタートし、晴れて堂々と、ヘルパーを依頼し、施設が利用できるようになりました。しかし、要介護5のサービス限度額は三八万五〇〇〇円(当時)。私が午後六時まで勤務しようものなら、すぐに足が出てしまいます。仕事をすればするほど、出費がかさむ…という皮肉な現実です。夕方五時には帰宅し、業績を上げることが求められました。
 また制度の枠内でしか見てもらえない、融通が利かない現実も。「熱があるから」と早めに妻を帰宅させたデイの送迎車は、家からほんの少し先の病院にも「規則だから」と送ってはくれません。人々の気持ちがパッチワークのように連なっていたころと対比すると、残念な気持ちです。
 制度は完全ではありません。より良い制度にしていくことが必要です。

発信で変える

 バス、電車で優先席が空いていれば健常者でも座ればいいでしょうが、身障者トイレの場合はどうでしょう? 出先で「おしっこしたい」と妻が言ったら、一分ももちません。身障者トイレに急いでも、健常者が使用中だったために、何度も悔しい経験をしました。私は、「身障者トイレは身障者のために二四時間空けておいてほしい」と発信しています。
 また、身体障害と違い、精神・知的障害は見た目では分かりにくい。ですから、妻は「障害者です。ご協力下さい。富田千代野」と書いたプレートを付けています。二〇年経って、地域や出先ではすっかり認知されました。当初は発信する目的だったこのプレートは、「富田さんに聞いてみたら?」と、福祉や医療で困っている人の相談を受けるものへと変化しました。

男性も育児・介護を

 「男性が介護したらなぜ話題になるのか?」というもっともな意見が女性からあがります。この国では長く、「子育てや介護は女性の仕事」と片付けられてきました。現在、制度上は男性介護も、育児休暇なども当たり前になってきましたが、いざとなればなかなか難しいのが現状。男性が職場で「介護の時間をください」と休暇や時短が申し出られる職場を作ってください。そうすれば地域も変われます。一九六〇年代、女性が社会進出する保障として「ポストの数ほど保育所を」との壮大な子育て運動に、男性は学ぶべきです。

*   *

 交流会の実行委員をつとめた健康文化会の原田みゆき総務部長は、「『介護経験者の話を聞いてみては?』と、富田さんの連載を読んでいた看護師長の提案で…」と、企画のきっかけを語りました。連載を毎号楽しみに読んでいる職員も多く、「詳しく知ることができて良かった」、「筆者の生の声に、家族の思いがよく分かった」という声も。富田さんの奮闘を涙しながら聞く職員もいました。

(民医連新聞 第1637号 2017年2月6日)

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