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2016年12月29日

6年目の福島Ⅰ 森に還るまち

フォトジャーナリスト 豊田直巳

 2011年の2月末、私はチェルノブイリ原発()周辺の立ち入り禁止区域にいた。「ゾーン」と呼ばれる村々の跡地を取材した光景を、今も鮮明に覚えている。
 一面の雪原に点在するウクライナの森。近づけば、その森の中にまだ形を留めている家々がある。煉瓦造りのペチカに支えられたかのような住居は、しかし、ちょっとした揺れでも崩れ落ちそうだ。
 帰国して10日後の3月13日、水素爆発した福島第一原発から約3kmの双葉厚生病院前で、私は立ちすくんでいた。持参したガイガーカウンターは、毎時1000マイクロシーベルトの測定限界を超え振り切れた。その時、ふと頭に浮かんだチェルノブイリの光景が、福島の「未来」の姿に重なって見えた。
 他人からは妄想と思われるかもしれない連想が、実は甘かったことを後に知る。福島の放射能汚染は、原発のある大熊・双葉両町をはるかに超えて広がっていることが明らかになった。50kmを超え、県境を超え、雨や雪が降った地域は高濃度の汚染地帯と化した。チェルノブイリに倣うなら、30km圏の「ゾーン」を超え、国境を超えてベラルーシに、そしてロシアへと広がったかのようだ。

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※チェルノブイリ原発
 1986年にメルトダウンし爆発。放射能汚染で500以上の町や村が地図上から姿を消した。原子炉は今も強い放射線を出し続け「石棺」と呼ばれるコンクリートに覆われている。

見えない“戦場”

 福島第一原発から帯状に伸びる高濃度汚染地帯の中心部に、原発から20kmで、現在も帰還困難区域に指定されている浪江町津島地区がある。私が初めてここを訪ねたのは2011年4月。数日後に封鎖される地区を車で巡っていて偶然、人影を見た。
 既に避難地域に指定され人はいないはずの津島地区赤宇木で、家に残した猫を連れ出すために避難先の会津から「一時帰宅」していた関場健次、和代夫妻だった。
 2人はここがどれほど高線量なのか知らなかった。私が線量計を雨樋の流れ口に近づけると、震災前の東京の約1万倍に当たる毎時500マイクロシーベルトを示した。まさに「直ちに」避難が必要な状況だ。
 猫をケースに入れ、手荷物を持って車に戻る和代さんに「急いで」と促すと、彼女は「まるで見えない戦場で戦っているみたい」と言った。至言だと思った。原発事故以来、ここは人が住む場所ではなくなってしまったのだから。

測定する人々

 しかし“戦場”となった故郷にも、思い出は詰まっている。いや、帰れぬ場所だからこそ、なおのこと思いが募る。津島地区赤宇木の今野義人区長らは今でも毎月、赤宇木区約90戸の放射線量を測定している。
 「前はここから家が見えたのですが…」と今野義人区長。指し示す先はススキと大木の枝に阻まれて、家はおろかそこに通じるはずの道も草木に覆われている。副区長の今野邦彦さんが、地上1mの空間線量を読み上げる。「9・89(マイクロシーベルト)」。

集落の放射線を測定する今野邦彦さん(2016年7月)

集落の放射線を測定する今野邦彦さん(2016年7月)

 今野義人区長は「震災から2年目までは下がってきたが、それから先は変わらないな。セシウム134の半減期は2年といったよな。あれで下がったんだ。あとセシウム137が残って、それがそのまま下がんないで…」と説明してくれた。
 赤宇木や隣接する飯舘村を調査した京都大学原子炉実験所の今中哲二助教(当時)は、「ここに住めるか住めないかは100年、200年、300年を見ながら、どうするかという問題。300年経ったら(線量は)1000分の1になるから」と口にした。
 区長らは全戸の放射線測定記録を、編纂中の赤宇木の集落記録集に収録するつもりだ。「ここで何があったかを、なぜ、私たちがここを離れなければならなかったかを子孫に残したい」と区長。
 「150年経ったら、子孫がもう一度入植するかもしれない。田畑だけでなく、家も石垣も崩れて森に戻ってしまった赤宇木に。その時に『ああ、祖先はこんな暮らしをしていたのか』と知ってもらえたら」。

 原発事故から間もなく6年。今も9万人近くが避難していますが、政府は損害賠償の打ち切りを計画する一方、今年3月に帰還困難区域を除く地区で避難指示を解除し(地図参照)、強引に住民の帰還を進める方針です。フォトジャーナリストの豊田直巳さんが、被災地の今を伝えます。(6回連載)

いつでも元気 2017.1 No.303

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