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2014年6月16日

リアル社会を生きるゲイ職員の性講座(6) 文・杉山貴士 山宣の性教育<2> 権力と性

 山宣の生涯は、「性は社会的政治的なもの」と強く訴えた生涯とも言えます。性は人間個人のパーツでありながら、実は社会によって管理されている… という気づきは、セクシュアリティ研究の基本にもなっています。そのメカニズムの解明が研究かもしれません。その知見を活かして制度改革を進めるのが運動 でしょう。研究だけでは「解明」止まり。山宣は知見を実践するために代議士として活躍したのでした。
 山宣が生きていた当時、国家が性を管理することは当然のことでした。個人の権利ではなく、「国家の利益のために臣民たる日本人は存在する」との考えからでした。
 山宣が見出した「権力と性のありよう」は、フランスの哲学者・ミシェル・フーコーの『性の歴史』を用いて考えると明快です。フーコーは「性の歴史はセッ クスに関する規範形成の歴史であり、監視と処罰での身体管理の歴史だった」と述べています。
 19世紀以降、権力は4つの方法で人々の身体を管理したといいます。(1)非科学的な「性道徳」の名の下、教育を通して「自慰」を禁止(自慰有害論を肯 定)、(2)女性の身体に対して「母性」というイデオロギーで管理(「母性」を本能と思い込ませ、「妻」「母」役割の固定化)、(3)性的少数者たちへは 精神医学という“科学”の名で「変態性欲」「性的異常者」として治療や処罰等の対象にする、(4)国家は人種政策、優生学、家族計画などで人口と生殖を管 理へ―などです。
 山宣が東大男子学生等への性調査を公表したことに大反対した東大教授・永井潜は、山宣没後に日本民族衛生協会を設立し、断種法制定をすすめようとしまし た。国家による性管理を「科学」と「法」の権威で正統化し、そこに人間の尊厳への視点はありませんでした。山宣は「性の国家管理」の本質を見抜いたからこ そ個人の権利と両性の平等に基づく個人の自立の必要性に気づき、農民や労働者の中に入り、その立場からの運動をすすめることができたのです。性を考察すれ ば、背後に必ず政治的な操作や統制があります。
 山宣の生涯は、「性と社会とのかかわり」について“性的なことは政治的なこと”ということを、身をもって伝えてくれています。


すぎやま・たかし 尼崎医療生活協同組合理事会事務局課長、法人無料低額診療事業事務局担当、社会福祉士。著書に『自分をさがそ。多様なセクシュアリティを生きる』新日本出版社、『「性の学び」と活かし方』日本機関紙出版センターほか

 (民医連新聞 第1574号 2014年6月16日)

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