原爆症認定に関する医師団意見書
2004年10月14日
全日本民主医療機関連合会連理事会
同 被ばく問題委員会
同 原爆症認定集団訴訟支援医師団
《目 次》
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1.本意見書提出の目的 | ||
2.本意見書を提出する私たちの視点 | ||
3.本意見書の要旨 | ||
4.DS86にのみ依拠した「原因確率」による原爆症認定の問題点について | ||
4-1 | 「原因確率」の機械的当てはめによる個別被爆者の放射線起因性の否定は疫学の誤用である | |
4-2 | 原告となっている遠距離・入市被爆者には相当程度の放射線被曝の事実があり、被爆距離やDS86の線量だけで判断できない健康被害の実態がある | |
4-3 | 医師から見たABCC・放射線影響研究所の基本資料における疑問点と問題点 | |
4-3-1 | 医師から見たABCC・放射線影響研究所の基本資料における疑問点と問題点 | |
4-3-2 | 「原因確率」の基礎論文となった児玉論文は、最近10年間の死亡率や発生率の増加を反映していない | |
4-3-3 | DS86―放影研データに基づく認定却下の医学的不合理性 | |
4-3-4 | 被爆者の原爆症認定審査にあたっては、被爆者の病像や被爆実態を重視し、「原因確率」が低いという理由で却下すべきはでない | |
(1)原爆被爆者には単一がんのみならず多重がんが発生する可能性が高い | ||
(2)前立腺がんの発生率は被爆者に高い可能性がある | ||
(3)がん以外の疾患での死亡と罹患率の最近の増加傾向について | ||
(4)良性甲状腺疾患の放射線起因性について | ||
(5)慢性肝炎および肝硬変の放射線起因性について | ||
(6)被爆者にみられる白内障の放射線起因性について | ||
(7)熱傷・外傷後障害について | ||
(8)原告の疾患にかかわる要医療性の判断について | ||
5.被爆者の認定疾病の病像についての私たちの見解 | ||
5-1 | 被爆者の立場に立った認定行政への転換を求める | |
5-2 | 固形がん、悪性腫瘍に関しては他に明確な原因がない限り認定を求める | |
5-3 | 原爆症認定疾病の範囲についてその拡大を求める | |
5-4 | 私たちが考えるあるべき認定の条件 | |
6. おわりに | ||
《引用文献・参照文献一覧》 |
1.本意見書提出の目的
私たちは、医師として診察室のなかで被爆者と直接向き合いながら、被爆者が直面している健康上の問題、医療的な問題の解決を求めて日々診療を行なっている。
このように日常的な被爆者の診療に携わっている立場から、今回の原爆症認定を求める被爆者の集団提訴に対して重大な関心を持たざるを得ない。
というのも、私たちがこれまでに感じてきた原爆症認定行政への疑問は、被爆者自身の疑問とも共通した問題を含んでいるからである。
この疑問とは、結局のところ、疾病・障害認定審査会・原子爆弾被爆者医療分科会(以下「認定審査会」と略す)で、平成13年に確認された「原爆症認定に 関する審査の方針」(以下「審査の方針」と略す)が依拠している「原因確率論」と、被爆者の被曝線量の根拠とされている広島・長崎原爆放射線1986年線 量評価体系(以下DS86と略す)や、財団法人放射線影響研究所(以下「放影研」と略す)が継続している各種の原爆被爆者調査の評価に及ぶものである。
本意見書は、こうした疑問が生じている背景とその理由を解明し、現在全国の裁判所ですすめられている多数の原告被爆者の審理の参考にしていただくことを願い、共同で作成しまとめたものである。
2.本意見書を提出する私たちの視点
2-1
戦争状態にあったわが国には今なおかつての戦災による多くの被災者がいる。多くの犠牲者を生んだという点では原爆災害も一般戦災も同じ被害には違いな い。しかし一般の戦災者は、受けた傷が癒えたとき、健康を回復し明日への希望を持つことが可能であった。
原爆被爆者が目の当たりにした熱線や爆風による惨状とは別の、決して眼に見えることのない原爆のもう一つの正体を知ったのはずっと後になってからのこと であったが、59年を経た今でも生き残った被爆者の身体と心は決して休まることはない。
その理由の一つは、原爆放射線によって引き起こされている生涯にわたって消えることのない放射線被曝の刻印なのである。
私たちは、原爆被爆者が、国際法上も、人道上もあってはならない核兵器による被爆を受けた存在であることを忘れることは出来ない。その原爆放射線による 被曝が、急性期症状が消失した後、長期にわたって様々な人体影響を与え続けることが、まさに60年近くにおよぶ後障害調査によって広く認められてきたので ある。
がん罹患をはじめとする放射線被曝による様々な晩発性障害は、これまでに知られている疾病と明確に区別されるような症候上、また病理学的な特徴はなく、 表面上何らの特殊性を示すものではないことは広く知られている事実である。また個別の被爆者の被曝線量を簡単に算出する方法も日常診療の中では不可能であ る。
しかし今日までの59年間に、かろうじて生き残ることが出来た被爆者が身をもって示してきた数々の致死的な疾病、あるいは健康障害の発生は、「放影研」の調査の公表を待つまでもなく医療現場においては疑いのない事実である。
加えて、放射線と同時に強烈な爆風や熱線による傷害作用にさらされ、今なおその後障害で苦しんでいる被爆者がいることを忘れることはできない。長崎原爆 訴訟の元原告の頭部外傷後片麻痺のように、2.45kmという遠距離のため放射線との因果関係なしとされて原爆症としての認定を阻まれ、最高裁での勝訴確 定まで十数年も待たなければならなかった被爆者がいたことを忘れることはできない。
こうした原爆災害の被爆者にたいしても、放射線被曝による免疫障害や治癒遅延などの影響の可能性が否定し得ない以上、「原子爆弾被爆者の援護に関する法律」の立法精神に沿った判断が行われることを強く求めたい。
2-2
ここで私たちは被爆後13年目の1958年8月13日に出された厚生省公衆衛生局長通知「原子爆弾後障害症治療指針について」(以下「治療指針」と略 す)の基本的見解が今でもその真価を失っていないことに気付く。この「治療指針」が示した諸点は今日でも被爆者の診療にあたる医師にとって重要な示唆を与 えており、また法令上も今もって有効であると考えられるので、重要な箇所を引用し、現時点からみたコメントを付けておきたい。
まず「治療指針」は、原子爆弾後障害症の特徴として、投下時の熱線又は爆風等による外傷の治癒の経過や様相に、一般の外傷や熱傷との相異が認められるこ と、またいわゆる放射能症については投下時の直接照射及び核爆発の結果生じた放射性物質に由来する放射能の二者による影響を指摘している(文献1)。
「原子爆弾被爆者に関しては、いかなる疾患又は症候についても一応被爆との関係を考え、その経過及び予防については特別の考慮がはらわれなければなら ず、原子爆弾後障害症が直接間接に核爆発による放射能に関連するものである以上、被爆者の受けた放射能特にγ線及び中性子の量によってその影響の異なるこ とは当然想像されるが、被爆者のうけた放射能線量を正確に算出することはもとより困難である。この点については被爆者個々の発症素因を考慮する必要もあ り、また当初の被爆状況等を推測して状況を判断しなければならないが、治療を行うに当たっては、特に次の諸点について考慮する必要がある。
イ | 被爆距離 この場合、被爆地は爆心地からおおむね二キロメートル以内のときは高度の、二キロメートルから四キロメートルまでのときは中等度の、四キロメートルをこえるときは軽度の放射能を受けたと考えて処置してさしつかえない。 |
ロ | 被爆後の急性症状の有無及びその状況、被爆後における脱毛、発熱、 粘膜出血、その他の症状をは握することにより、その当時どの程度放射能の影響を受けていたか判断することのできる場合がある。」 |
この指針の医学的根拠となったのは、投下直後の9月からマンハッタン計画調査団の指揮により開始された日米合同調査団による諸調査や、敗戦直後かつ占領 下の制約にもかかわらず原爆被爆者の調査と救護のために現地で活動した各大学医学部や医科大学をはじめとする国内の医学研究者による数々の調査報告であ る。この報告の集大成は講和条約発効後の1953年3月に日本学術振興会から刊行された「原子爆弾災害調査報告集」2巻にまとめられている。
ここであらためて注目しておきたいことは、様々な調査結果から被爆者の急性症状が注目され、その程度により放射線の影響を推定できるとしていたことであ り、被爆距離が二キロメートルを超えている場合でも当然考慮しなければならないと指摘していることである。
さらに、被爆による外傷の治癒の経過や様相は、これまで知られているような外傷や熱傷との相異があるという指摘も重要な意味をもっている。
こうした現在の知見をもってしても否定することのできない原爆後障害治療の見地からみると、現在の「原因確率」に基づく認定の在り方がいかに被爆の実際とかけ離れてしまっているかが明らかであろう。
また被爆後の熱傷や外傷、ガラス刺傷等の後障害の場合、悪性腫瘍などのリスク推定と違い、その治癒遅延や変形の促進などについて対照群と比較検討した データを得ること自体が不可能である。原爆による傷害作用を受けた実態があり、原爆災害以外の明らかな要因の関与がないのであれば、外傷と放射線との共同 成因の可能性を否定すべきではないと考える。
3.本意見書の要旨
3-1
現行の認定基準とされている「原因確率」は、ある原因が、ある特定疾病の形成に関与したとされる確率を推定しようとした疫学的手法の一つにすぎない。
本来、疫学的手法とは、ある集団での疾病の発生や死亡といった現象を数値で表現し、推測統計学を用いてその集団における全体的規則性をはっきりさせようとする学問である。
したがって疫学的に導き出された「原因確率」を個別の被爆者に機械的に当てはめ、個別の被爆実態を軽視して放射線起因性を否定する根拠に使うことは疫学の誤用である。
3-2
こうした誤用により却下されてきた遠距離被爆者や入市被爆者に、明らかな急性症状、すなわち放射線被曝による特徴的な身体症状が、当時の医学的調査記録 のなかでも厳然と認められている。これらの症状はDS86が事実上無視している誘導放射線や放射性生成物などの残留放射線による相当程度の外部および内部 被曝が存在したことで説明する以外に合理的な説明がつかない事実である。
3-3
ABCCから引き継ぎ「放影研」が使用している寿命調査(以下LSSと略す)や成人健康調査(以下AHSと略す)等の基本資料において、その科学的信頼性に疑問をはさむいくつかの根拠がある。
例えば、DS86は主として近距離での初期放射線の外部被曝についての線量評価を示しているに過ぎず、遠距離・入市被爆者にみられた急性症状や後障害を放射線被曝との関係で説明できないこと、
LSSやAHSでは、統計上の有意差の解析に際して被爆者群の対照とされている「非被爆者群」あるいは「ゼロ線量群」に、遠距離・入市被爆者が相当数含 まれているため、本来の非被爆者との比較になっていないという疫学的手法上の問題点を有すること、
「原因確率」の算出に用いた資料の時期が1950年から1986年ないし1990年までの期間となっており、がんや非がん疾患の死亡や発生が加速されて きている最近の10数年のデータは全く無視されていること、などの問題点を挙げることができる。
上記の3点についての意見を以下に順次述べ、最後に、被爆者の病像の理解やあるべき認定の条件についての私たちの見解を述べるものである。
4.DS86にのみ依拠した「原因確率」による原爆症認定の問題点について
4-1 「原因確率」の機械的当てはめによる個別被爆者の放射線起因性の否定は疫学の二重の誤用である
2001年5月25日に開かれた「認定審査会」は、同日「審査の方針」(文献2)についての決定を行った。
ここでは、「放影研」の疫学調査の結果をもとに、放射線起因性の判断の対象とされた13の疾病群(その他の悪性新生物を含む)につき、被爆時の年齢、 性、DS86による被曝線量が与えられればその「原因確率」が算出される仕組みとなっている。
この決定は、二重の意味で重大な問題点を含んでいる。
第一に、本来、疫学的手法とは、集団での現象を数値で表現し、推測統計学を用いてその集団における全体的規則性をはっきりさせようとする学問である。
したがって、疫学的手法で導き出され、しかもDS86に基づく外部被曝線量だけで算出された「原因確率」を個別の被爆者の放射線起因性を否定する根拠にすることは疫学の第一の誤用である。
第二に、「原因確率」は、原爆放射線と被爆者の各疾病の因果関係について、「非被爆者群」を対照として算定された統計学上の寄与リスクである。その「原 因確率」がおおむね10%未満の場合は当該可能性が低いものと推定するという判断は合理的妥当性に欠け、疫学の第二の誤用といわなければならない。
現在の医学的知見によると、放射線が人体に照射吸収された場合、細胞内外で電離作用を生じ、その生成物を介して、あるいは直接に放射線粒子によって細胞 内DNAの損傷(切断、変異)、修復ミスなどを引き起こすという機序が考えられている。
したがって染色体上のDNA配列(ゲノム)への破壊的影響が放射線の最初の作用ということになるが、その後も長期にわたって当該細胞のゲノム不安定性が 持続し、数十世代の細胞分裂を経て突然変異頻度の上昇が起こるという現象が実験的に証明されている。
これらの現象は、実験的にも低線量領域にわたって線量依存的に発生することが確認されている。このことは原爆被爆者を含む各種被曝者の疫学調査とも矛盾しない事実である。
こうした理由から、放射線の晩発性の影響であるがんや白血病の発生に関する寄与は、いわゆるしきい(閾)値のない確率的影響と考えられている。したがっ て「原因確率」が10%未満であっても、個人に対しての放射線によるがん誘発効果を否定できない。しかも原爆被爆者の場合、「原因確率」では評価されてい ない内部被曝が重なっており、その主役となるアルファ線は細胞レベルで高い線エネルギー付与による損傷を持続的に与えている可能性がある。
この間の「認定審査会」での審査を見る限り、10%未満の認定例は皆無といってよく、この10%という水準が認定実務上作られた「しきい値」になってい る。しかも公開されている文書を見る限り、何故10%未満では可能性が低いと見なし得るのかについての根拠が一切示されていない。
被爆60年になろうという今日、放射線の健康影響すなわち後障害の研究の焦点は、「原因確率」論では到底説明不可能な事象、例えば多重(重複)がんを含 むがん罹患率増加の問題、骨髄や免疫機能の長期的な異常持続の問題、がん以外のいわゆる良性疾患の罹患率増加の問題、さらに二世以降の世代への遺伝的健康 影響への問題に帰着してきている。
被爆者の疾病の放射線起因性を判断するうえで必要なことは、内部被曝を含めた被曝の全体像の把握と、より正確で長期的な疫学調査に基づく判断であり、現 行の「原因確率」は個別的な起因性判断には全く無用のものであり、廃棄されるべきである。
4-2 原告となっている遠距離・入市被爆者には相当程度の放射線被曝の事実があり、被爆距離やDS86の線量だけで判断できない健康被害の実態がある
被爆59年目を経た現在、原爆放射線による健康障害は、一般に後障害と括られている。この後障害には、従来から知られているような外傷や熱傷などの治癒 遅延がもたらした後障害、原爆白内障やケロイド、甲状腺障害や慢性肝疾患などの良性疾患、白血病や固形がんなどの悪性腫瘍などが含まれる。
一方、多くの高齢化しつつある被爆者には、良性、悪性を問わず多臓器にわたるさまざまな疾患が日常の臨床場面で経験される。それらの健康障害が被爆者の 集団にどの程度の有意差をもって発生してきているのか、日常診療の現場からは判然としてこない実態がある。このため原爆被曝の後障害に関する疫学的な調査 が必要になっているわけであるが、ここで留意されなければならないことは、これらの後障害と思われる疾病を発症している原爆被爆者がいわゆる近距離被爆者 に限らないという臨床医学上の事実である。
当時の放射線被曝が、核分裂反応によって生じた初期放射線に続き、中性子線照射によって生じた誘導放射線、核爆発で生じたキノコ雲、火災煙や塵などに よって拡散された未分裂のウランやプルトニウムなどの放射性微粒子、これらの放射性降下物を多量に含んだ「黒い雨」などによって複合的にもたらされたこと は、今日確立された事実である。
DS86では被曝線量なしとされる遠距離被爆者、入市被爆者に、当時の医学調査記録や医師の記録において、今日急性放射線症候群とされている急性症状が 記載されており、またこうした被爆者に多様な後障害が観察されている。こうした事実を合理的に説明するためには、これらの被爆者が初期放射線による外部被 曝だけではなく、前述したような誘導放射線や放射性降下物等による外部および内部被曝を受けていたと考える以外にない。
こうした遠距離被爆者や入市被爆者の放射線障害の実態は、当時の医師医学研究者による貴重な調査記録の中に見ることができる。
(1)被爆直後の広島への調査におもむき、その後発足した原子爆弾災害調査研究特別委員会の医学科会の責任者の地位にあった都築正男東大名誉教授は次のように述べている。
「原子爆弾が爆発した時には2km以上離れた地点(4km以内)にあって、それだけでは勿論、放射線病の症状は現れないが(潜伏性原子爆弾傷ともいえ る)、それ等の人々が、直後に、爆心地に立ち入って、作業し或は生活するようなことがあると、色々の意味の第二次放射能の影響が併せ加って、急性の放射線 病の症状を発した人は少なくない(原文のママ)」(文献3)
(2)自らも被爆しながら救護活動に奔走した長崎医大外科の調来助教授らが1945年の10月から12月にかけて調査した記録では、2kmから4km(こ れはDS86でのカーマ線量は12.7cGy未満となる距離)で被爆した2,828人のうち77人、2.7%に脱毛があり、うち2名は急性期に死亡してい る。また同様に急性症状の一つである嚥下痛では315人、11.1%に出現している(文献4)。
(3)広島では、被爆直後の1945年10月に日米合同の医学調査が行われ、調査人員5120名(生存例)のうち707名に脱毛を認めた。これを爆心から の距離別にみると、2.1kmから3.0km(これはDS86でのカーマ線量は5cGy未満となる距離)の1658名中に84名、5.0%に脱毛を認めて いる(文献5)。
(4)被爆12年後の1957年には広島の一開業医である於保源作氏が、下痢、発熱、皮下出血、咽頭痛、脱毛などの急性症状を指標に、残留放射能の影響の 有無を明らかにする目的で市内の或る地区の生存被爆者の全数調査を行っている。これによると当日被爆直後中心部に入らなかった屋外被爆者のうち、 2.0kmから4.0kmまでの遠距離被爆者330人中142人、43.0%に急性症状を認め、脱毛は2.5kmで10.9%、3kmで12.0%、 3.5kmで0.1%、4kmで2.8%に認めたという結果を報告している。これに対して中心部に出入りした場合では同じ距離の214人中97人、 45.3%とほぼ同率の急性症状が見られたが、脱毛については2.5kmで7.5%、3kmで12.2%、3.5kmで7.6%、4kmで7.6%、 4.5kmでも9.3%と、遠距離被爆でも中心地に出入りした被爆者の発現率が高いという結果を報告している。
また当日市外にいて被爆しておらず原爆投下直後に中心部に入市した非被爆者525名中230名(43.8%)に、2kmから4kmの遠距離屋外被爆者と ほぼ同頻度の急性症状を確認している。このうち脱毛発症者は4.3%と報告されている。(文献6)。
同様な調査報告が、1971年に広島市が編集発行した「広島原爆戦災誌」にも見られる。この調査は投下直後に急遽入市して救護活動を行なった陸軍船舶司 令部隷下の将兵233人に対し行なったもので、その内の120人(51.5%)に白血球減少(これは軍医によって診断されている)、80人(34.3%) に脱毛が報告されている(文献7)。
(5)入市被爆者の残留放射能の影響について、被爆医師であり、自らも負傷した長崎医大放射線科の永井隆助教授は名著「長崎の鐘」のなかで次のように記している。
「爆心地の残留放射能の影響はどうであるか。爆撃当時浦上にいないで何等損傷を受けず、所謂ぴかをも受けていない人々が、爆心に居住してどんな症状を現 わしたか。これを調べるために私は爆心地上野町に壕舎をたてて、その中での生活を始め、周囲を注意深く観察しつつ今日に及んでいる。(中略)ここに爆撃直 後三週間以内に壕舎住居を始めた人々には重い宿酔状態が起りそれが一ヶ月以上も続いた。また重い下痢に罹って苦しんだ。特に焼けた家を片づけるため灰を 掘ったり瓦を運んだり、また屍体の処理に当った人の症状は甚だしかった。症状はラジウム大量照射をうけた患者の起すものに似ており、確かに放射線の大量連 続全身照射の結果であった。」(文献8)
(6)同じ旧西条の出身で、自ら広島駅構内で被爆し、その直後から救護活動に力を尽くした元広島原爆病院院長の重藤文夫氏も、作家大江健三郎氏との対談の 中で自らの被爆体験とともに救援活動に尽くした西条の入市被爆者の急性死の事実について証言しており、その死亡が放射能による影響と推察している(文献 9)。
同様に自ら被爆し負傷しながら被爆者の救護にあたっていた元広島逓信病院長の蜂谷道彦氏も入市被爆者のなかに死ぬ者がでてきたことを記述している(文献10)。
現在原告被爆者の多数は被爆距離が2km以遠の遠距離被爆者であるか、または入市被爆者であるが、その多くに、2ヶ月以内の脱毛、下痢、血便、口内病 変、発熱、紫斑などの急性症状、さらにはその後長く続く倦怠感、労働困難などの後障害が記録されている。これは初期放射線による直接被曝のみでは説明が困 難であり、誘導放射線や放射性降下物による外部および内部被曝の事実を強く示唆する。
日本被団協が最近行った860人の遠距離・入市被爆者実態調査報告でも、ほぼ4人に1人が脱毛を経験しているなど、さまざまな急性症状を発症したことが 示されている。そしてその記憶は60年経っても決して消えることのない忘れ難い体験なのである(文献11)。
原爆症の認定にあたっては、DS86のみに依拠する被爆線量の機械的な当てはめや、これに基づく「原因確率」の適用の限界を認め、入市被爆者、遠距離被 爆者の被爆の実態、疾病の発症経過等から総合的に判断することが求められていると考える。
4-3 ABCC・放射線影響研究所の基本資料における医師から見た疑問点と問題点
4-3-1 DS86の成立過程からみた疑問点、原爆症認定の被爆線量に用いることの非妥当性
歴史的にみると、原爆被爆者が受けた放射線量の推定に関する最初の数値は1957年に作られた暫定線量(T57D)であったが、これは前年に行われた核 実験のデータをもとに米国側から距離別に空中線量が提示されたものである。これがその後の長崎型プルトニウム原爆の大規模実験のデータによって改められて 提案されたのが1965年の暫定線量T65Dであった。
ところが1970年代に入って放射線測定技術の向上を背景に、T65Dに対していろいろな問題点や矛盾が指摘されるようになりT65Dの再検討の必要性が生じた。
1981年から1985年にかけて日米合同の専門家委員会の作業を経て、1986年3月に新しい線量評価システムが完成、承認されたものがDS86である。
DS86は、以下の諸過程をすべて物理的諸過程に基づいて計算コードに組み立てたものである。爆発の最初の威力、放射線がどう拡散したか、放射線が空気 中をどう伝播したか、家の中でどれだけ遮蔽されたか、人の臓器にどれだけ放射線が当たったか、等である。
一方残留放射能については、当時日本側の線量実務委員会の委員長であった田島英三氏自身による次のような記述がある。「(放射性降下物が特に多かった) これらの地区で人々が実際に被曝した線量を推定するには、その人々の実際の行動を知らなければならないが、そのようなデータは現在残っていない。したがっ て、DS86にはその線量計算は含まれていない」(文献12)。すなわちデータが残っていないので線量評価において残留放射能は考慮できなかった、除外し たという。しかしながらその後爆心地付近や広島における己斐・高須地域、長崎における西山地域では土壌等を使っていくつかの物理学的線量測定が行なわれて いる。田島氏も上記論文のなかで、放射性降下物による人体組織の積算線量は最大で長崎で12から24ラド、広島で0.6から2ラド、誘導放射能によるもの は最大で広島で約50ラド、長崎で18から24ラドになると紹介している(文献13)。
他の文献においても「残留放射能のうち、誘導放射能は即発放射線に比べると人に与える線量は小さいものの、長時間にわたり残存し、被爆生存者や早期入市 者に被曝をもたらした。また、核分裂生成物による影響は局所的であったものの、長期にわたる天然放射線と同程度の被曝量を短期間のうちに受けたことに相当 する」(文献14)と記載されている。
なお前記文献の記載では核分裂生成物の影響が局所的であったとされているが、広島においては核分裂生成物、すなわち黒い雨の降雨地域が、当時の記録から 見ても従来言われている地域より広い範囲にわたっていたのではないかという研究もあり、これを裏付ける住民や被爆者の証言もある。さらに、放射性降下物と しては黒い雨だけでなく、放射能を帯びた黒い「すす」が広範な地域に降下したことが、広島でも長崎でも被爆者によって証言されている。湿度の低いアメリカ のネバダにおける核実験の場合には、きのこ雲は黒い雨や黒い「すす」に移行しないで、放射性の微粒子として風下地域に降下したと考えられるが、広島・長崎 原爆の場合も被爆者の目に捉えることができなかったミクロン程度の放射性微粒子が大量に拡散したと推察される。この放射性微粒子は呼吸や飲食を通じて体内 に摂取され、内部被曝を引き起こす要因であった可能性が指摘される。
DS86導入以後も、未解決のまま残された問題についての新たな研究、計算結果が発表される中でその有効性を疑問視する声もあがり、DS86の再度の見 直しの必要性が生じていたが、日米合同委員会の作業を経て、広島の近距離の計算値と実測値のずれについては、爆発点の高さを580mから600mへ20m 引き上げることで解消できるとして修正し、2003年3月、DS02として決定された。
以上がDS86からDS02の成立過程である。この成立過程の特徴は、すべて物理学的データを用いることであり、被爆者の脱毛などの急性症状、急性期の 検査所見など生物学的指標やデータが全く考慮されていないことである。このためDS86線量と急性症状との不一致がみられることが大きな問題点として指摘 されてきたのである。
DS86作成過程をみると、複数個の被曝遺残物の物理学的測定値と、当該物質の爆心地からの距離の双方から、照射線量の距離による減衰曲線が作成されて いる。DS86では初期放射線の到達距離をほぼ2.5kmと計算しており、その範囲で被爆した被爆者の急性症状の発生率や疾病死亡率(発生率)などが、物 理学的に推定された被曝線量と照応させて被曝線量の健康影響を定量的に示しているという前提がある。
しかし現実には、被爆者に生じている症状をみるとき、従来考えられてきた照応関係に一致しない場合が多く見られ、医療現場ではDS86の線量評価にのみこだわった線量推定は疑問視されてきたのである。
この不一致の理由は、物理学的測定そのものの問題、具体的には1.4km以遠で線量の過小評価の可能性、さらに遠距離被爆者や入市被爆者が影響を受けて いると考えられる残留放射線や放射性降下物による被曝を過小評価していることが考えられ、これはDS02でも解消されていない。
このことに関連した注目すべき調査報告が最近になって長崎大学原爆後障害医療研究施設の研究グループからなされている。爆心から等しく約2.5kmにあ る南側の無遮蔽地域と山陰で遮蔽された東側の地域の直接被爆者の急性症状の発現頻度の解析である。このうち放射線被曝に特徴的な脱毛の頻度をみると、遮蔽 地域で1.9%、無遮蔽地域では5.1%であったという。なお急性症状の把握は1970年1月に行われている調査によっており、当然のことながら急性症状 の頻度は遮蔽地域の方が有意に低かったが、遮蔽地域でありながら重度の脱毛も見られており、この理由として著者らはこの地域に見られた放射性降下物の影響 の可能性を指摘している(文献15)。
DS86によると長崎での2.5kmは約2cGyに過ぎないとされているが、5%の脱毛を引き起こすほどの被曝影響を受けたことは間違いないのである。 なお1988年の原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)の報告では、脱毛は2ないし5Gyで50%から90%に発生するとされ、原爆 被爆者における脱毛発生率を整理した別のデータでは発生率5%は約1Gyに相当している(文献16)。DS86が放射線の急性症状としてかなり特異的とさ れる脱毛を説明できないことは、DS86の妥当性が疑われる重要な医学的事実である。
被爆者個々人の被曝線量を推定する上で、DS86による線量評価は、近距離から中間距離における初期放射線の中性子線、ガンマ線に関する物理学的な外部 被曝線量としての有用性に限られたものであり、それは個人が被曝した最小限の線量としての意味を持つに過ぎない。
その被爆者個人のその後の行動に伴う残留放射能による外部被曝、また飲水、摂食、傷病者の救助活動、死体処理作業、瓦礫の除去作業によってもたらされた 内部被曝を含めて、総合的に被曝線量を評価するためには、少なくとも脱毛などの急性症状については生物学的指標として評価し、これをDS86とは独立した 被曝情報として扱い、加算的に評価するなどの適切な方法で総合的に被曝線量を推定する必要があると考える。
4-3-2 「原因確率」の基礎論文となった児玉論文は、最近10年間の死亡率や発生率の増加を反映していない
(1)「原因確率」を導いた根拠となった文献は、厚生科学研究として行われた「原爆放射線の人体への健康影響評価に関する研究」(主任研究者児玉和紀氏、 当時広島大学医学部教授、現「放影研」疫学部長、以下児玉論文と略)(文献17)である。
この児玉論文で参照した文献は、がんに関する死亡率調査は1950年から1990年までを解析した「放影研」LSS第12報(文献18)のレポートであ り、固形がんの発生率調査は1958年から1987年までの結果であると記されている。すなわちすでに10年以上前のレポートで算出されたことになる。
私たちはこのLSSデータ上の有意差解析の手法そのものに、後述するような根本的な欠陥があると考えているが、ここではこの間の有意差の変遷をどう見るべきかに限って論ずる。
(2)LSS第12報以前の報告を概観すると、1945年から1979年までの報告書では、悪性疾患で放射線被曝による有意な増加があるとされたのは、白 血病、肺がん、甲状腺がん、乳がんであり、放射線との関係が示唆的とされたのが胃がん、食道がん、泌尿器がん、唾液腺がん、悪性リンパ腫、多発性骨髄腫で あった。
続いてLSS第10報(1950年―1982年)では、白血病、食道がん、胃がん、結腸がん、肺がん、乳がん、泌尿器がん(腎臓を除く)、多発性骨髄腫 が有意とされ、悪性リンパ腫は有意差がみられないとされた。なおこの第10報では前立腺がんの過剰相対リスクの増加率が、この間のどの悪性腫瘍に比べても 最大となったこと、長崎では膵臓がんの死亡は有意に高いことが記されている。
続いてLSS第11報(1950年―1985年)では、白血病、食道がん、胃がん、結腸がん、肺がん、乳がん、卵巣がん、泌尿器がん(腎臓を除く)及び 多発性骨髄腫に有意差が認められるとし、新たに卵巣がんが挙げられているが、甲状腺がんについての記載は除かれている。
続いて児玉論文が依拠しているLSS第12報(1950年―1990年)で有意差があるとされているのは、白血病、食道がん、胃がん、結腸がん、肺が ん、乳がん、卵巣がん、膀胱・尿路がん、多発性骨髄腫に加えて、新たに肝臓がんが挙げられている。
2003年10月に公表された最新のLSS第13報(1950年―1997年、以下第13報)(文献19)では、第12報までのデータでは過剰相対リス クで有意差を生じていなかった直腸がん(女)、胆嚢がん(男)、脳中枢神経(男)に有意な増加が認められていると報告された。
また有意差がないとされる膵がん、子宮がん、前立腺がん、直腸がん(男)の場合でも、過剰相対リスクの90%信頼区間の中央値はプラスに位置していることに注目したい。
甲状腺がんの死亡率については第11報以後は触れられていないが、1994年に公表された二つの論文(文献33およびThompson他,Cancer Incidence in Atomic Bomb Survivors. PartⅡ Solid Tumors,1958-1987)でその有意な増加が確認されている
(3)以上概観したように、有意差があるとされるがんの部位はLSSの公表のたびに増加してきているという重要な事実に着目しなければならない。
「放影研」の研究者自身も「被爆者のデータは、放射線が事実上すべての種類のがんの過剰リスクと関連していると考えられる。固形がんについては、 1950年―1990年間の過剰死亡の約50%が最近の5年間に起こっている」(文献20)と指摘している。事実として第12報以降の1991年から 1997年までの7年間に、1950年以降の固形がんの総死亡の19%、がん以外の疾患での総死亡の15%が発生している。
原爆被爆者の固形がんのリスクはそれぞれのがんの好発年齢になって初めて増加していることは医学的知見として既知の事実であり、今後も前立腺がんなど高 齢期に発現するがんでは被爆者の高齢化とともにリスクが上昇し、死亡率や罹患率が有意に増加していくことが予測される。
こうした医学的事実は、あらためて4-3-4項で論述するが、固形がんに限らず非がん疾患でも予測されることであり、被爆後45年以上経った1990年 以降になって初めて死亡率や発生率に統計上の有意差が生じてくる疾患があることを示している。 このことは「放影研」の公的な出版物に、「放影研のLSS 集団の半数をやや超える人数が1990年代後半までに死亡していることは一般によく知られている。しかし、LSS集団における放射線に関連する死亡(過剰 死亡)の多くがこれから発生するということはあまり知られていない」と記載されていることでも明らかである(文献21)。
4-3-3 DS86―放影研データに基づく認定却下の医学的不合理性
ここではDS86線量評価を前提とした放影研資料による「原因確率」を根拠とする認定却下が医学的知見に照らしていかに不合理な場合があるかを述べる。
(1)すでに述べたように、原爆による放射線の被害は、(a) 初期放射線 (b) 中性子線による誘導放射線、(c)放射性降下物による複合的な放射能汚染と考えられる。放射性降下物は、核爆発において生成された放射性の核分裂生成物、 核分裂に至らなかった核分裂性物質のウランやプルトニウム、中性子によって誘導放射化された原爆容器・機材の原子核などの放射性物質が、放射性微粒子、黒 い雨や塵となって広範な地域に降下した。
ところがLSSにおける線量反応関係の推定では、初期放射線による外部被曝だけが評価され、放射性降下物による内部被曝や残留放射線による被曝を評価し ていないために、各種の放射性物質による複合的な汚染の事実や、人体に現れた生物学的指標としての急性症状は無視される結果となっている。DS86では遠 距離被爆者や入市被爆者に現れた脱毛、歯茎からの出血、口腔内出血、下痢、発熱、紫斑、歯が抜け落ちるなどの急性症状を説明できないのである。
遠距離被爆者や入市被爆者は直後から救護や家族知人の捜索にあたり、放射性物質で汚染された人体や遺体、着衣との接触、市街地の瓦礫の片付け作業などを 含めて爆心地付近を何日も歩き回っていることが多い。この中では汚染された飲料水や食物の摂取による内部被曝も起こっていた可能性がある。こうした当時の 複合的な被曝の実態こそがDS86では説明できない急性症状の発現をもたらした背景にある。
このような限界、欠陥を持っている線量評価を基にした過剰相対リスクが、被爆の実態、実相を正しく反映したものではないことは明らかである。
(2)原爆被爆者に対する医学的調査は、放射線の人体への後影響を解明する調査としてきわめて貴重なものであるが、一方でABCC―「放影研」の行ってき た疫学調査には深刻な欠陥があり、その解釈にあたっての限界や問題点があることが25年も前に飯島宗一氏らから指摘されている(文献22)。
問題点は現時点で考えると大きく次の3点にあると考えられる。
第1点は被爆線量の算出がDS86という初期放射線の空中及び遮蔽カーマ線量評価に限られていることであり、この問題は4-3-1項ですでに論じた。
第2点は過剰相対リスクを求めるために必要な対照群としての非被爆群の選定に際し、1980年代に入ってから作為的な手法が導入されていることである。
第3点はこの調査が1950年からの調査であって、それまでの5年間に相当数の被爆者が死亡しており、疫学的にいえば生き残ることの出来た選択された集 団で構成されているという、統計上の偏り(バイアス)を生じている可能性、すなわち実際よりもリスクが過少評価されている可能性が否定できないことであ る。
とくに第2点の問題点については、対照群の選定の重要性からみて「原因確率」の根拠とされる過剰相対リスクそのものに直接絡む重要な問題である。
当初LSSやAHSの基本集団には、爆心地から2km以内の近距離被爆者と被爆時年齢及び性が一致するように選ばれ、原爆の爆発時に広島・長崎両市に不 在で被爆しなかった市内不在者(以下NICと略す)約26,000人が含まれていた。70年代のうちにNICである対照者のがん及びがん以外の疾患による 死亡率が、推定線量が0.005Gy(5mGy)未満の「ゼロ線量」被爆者(その多くは遠距離被爆者であるが25%にあたる3キロメートル以内の近距離被 爆者も含まれている)に比べて低いことが判明した。死亡率におけるこの「未解明」の差異のためという理由で,1980年代以降は対照群からNICが外され たのである。
この決定の背景には、次のような判断があったと見ることができる。すなわち「非被爆者」とされるNIC群と「ゼロ線量」群との死亡率での不一致の理由 を、「ゼロ線量」群の有意な被曝の可能性に求めることを最初から放棄し、被爆後の社会経済的地位の差に求めたことがあげられる。これは遠距離被爆者では農 村部居住者が中心で、市中心部すなわち近距離被爆者に比べて貧しかった、すなわち被曝以外の理由での死亡率がもともと高かったという解釈である。この根拠 は、1950年以降では「ゼロ線量群」の標準化死亡比(SMR)が爆心地からの距離とともに増加するというLSSのデータで、当日3キロメートル以内に居 た「ゼロ線量群」が最も低いSMRを示しているというデータである。
この解釈が現在でも「放影研」の解釈かどうかは不明であるが、「放影研」の最近のレポートでは「健康な被爆者選択効果」、すなわち3キロメートル以内で は1950年までに多くの被爆者が死亡したために、より健康な被爆者が生き残った可能性を否定することができないと推測しており、対照群の選択に説明不可 能な矛盾を抱えていることを示している(文献23)。
こうしたLSS調査の対照群の選択手法は、低線量域を含む放射線の人体影響を解明するはずの疫学研究全体に決定的な欠陥を持ち込んだものと考える。
結論的にいえば、対照群の選択の誤りにより、内部被曝や残留放射線の影響を考慮していないDS86により0.005Sv未満(ゼロ線量群)とされた遠距 離・入市被爆者の被曝の実態を最初から無視するものとなったことを強調しておきたい。
このように、LSSやAHSでは、対照群として不正確な「ゼロ線量群」を充ててきたことがさまざまな矛盾をつくり出している。「放影研」の他の文献でも 「同じ線量ゼロであっても、3km以遠で被爆した遠距離被爆者群と3km以内で被爆した近距離被爆者群との間にはがん罹患率に明らかな差がある(3km以 遠の遠距離被爆者群に罹患率が高い)」ことが述べられているが(文献24)、この事実は、DS86による線量評価だけでリスクを推定することは実態に合わ ないことを「放影研」自ら認めていることにほかならない。
対照群に低線量被爆者を含む集団を選択した背景にはいろいろな事情が考えられるが、「放影研」が 0.005Sv未満は被曝線量として有意でないという考え方に固執してきたことは間違いない事実である。その一つの理由は、LSSやAHS自体が当初から 軍事医学的に初期放射線の影響だけを取り出して調べる目的であったという当時の事情が推測される。
4-3-4 被爆者の原爆症認定審査にあたっては、被爆者の病像や被爆実態を重視し、 「原因確率」が低いという理由で却下すべきはでない
被爆者の原爆症認定審査にあたっては、被爆者の病像や被爆実態を重視し、「原因確率」が低いという理由で却下すべきではない
原告のうち90%近くは20歳以下で被爆した若年被爆者であり、そのうち10歳以下で被爆した被爆者が30%にのぼる。
被爆時の年齢ががん発生に及ぼす影響については、白血病以外の全部位のがん死亡率は被爆時年齢が若いほど相対リスクも絶対リスクも大きくなっていると報告されている(文献25)。
LSSの最新報告である第13報(文献19)では、LSS集団のうち被爆時9歳以下だった被爆者の91%、10歳から19歳までの80%、20歳から 29歳までの66%が生存中である。今後こうした若年被爆者にどのような影響が現れてくるのかは今後の調査をまたなければならない。また同様にDS86で 0.1Sv未満の90%が生存しており、広島の1.95キロメートル以遠、長崎の2.1キロメートル以遠の被爆者への影響も今後の調査を待たなければなら ない。このようにまだ多くの被爆者が生存中である今日の時点で、遠距離や入市被爆者の後障害、とくにがん発生のリスクを無視または否定することは科学的妥 当性に欠けるものといわなければならない。
以下、いくつかの疾患について私たちの見解を述べる。
(1)原爆被爆者には単一がんのみならず多重がんが発生する可能性も高い
今回提訴している原告被爆者が認定を求めた疾患の種類は多様であるが、2004年7月現在の総数146名の原告のうち、がん・悪性腫瘍(脳腫瘍を含む) に罹患の原告は94名にのぼる。ここには25種類ものがん・悪性腫瘍の発生がみられる。
被爆者の固形がんのリスクは、性、被爆時年齢、被爆後の経過年数によって変動が見られるとされる。一般に若年被爆者ではがんリスクの増加が確認されてい るが、その特徴としてはがん発生までの潜伏期間が長い傾向があり、しかも線量依存性は白血病や成人後に被爆した者ほど目立たない。すなわち若年被爆者の場 合は低線量であっても被曝したという事実そのものがリスクとなっていると考えなければならない。
成人後に被爆した被爆者のリスクは同年齢のがん死亡率の上昇に比例して増加するとされる。被爆して50年以上を経た今日では多くの被爆者ががん年齢に達しており、ある部位のがんが増加する時期に一致して増加している。
以下に脳腫瘍を含むがん・悪性腫瘍罹患の原告78名の内訳を示す(括弧内の数字は人数を示す)。
胃がん(13)、肺がん(9)、前立腺がん(8)、肝がん(7)、甲状腺がん(5)、直腸がん(4)腎がん(4)、乳がん(3)、膀胱がん(3)、皮膚 がん(3)、悪性リンパ腫(2)、多発性骨髄腫(2)結腸がん(2)、咽頭がん(2)、食道がん(2)、胆管がん(2)喉頭がん(1)、十二指腸乳頭部が ん(1)、成人T細胞性白血病(1)、悪性黒色腫(1)脳腫瘍(1)、脳下垂体腫瘍(1)、子宮体がん(1)。
このように原告被爆者のがんは多部位にわたるが、4-3-2で述べたようなLSSの最新報告でも有意差がないとされているがんも含まれている。これは発 がんまでの潜伏期間が長いがんや死亡率の低いがんがあることと、発がんの多段階説に従えば、被曝以後に加わる促進因子の比重の大きさによって非被爆者の死 亡率との差が目立たないがんが含まれているためと考えることも可能であり、被曝がなかったならば発症に到らなかった可能性もある。
さらに特徴的なこととしてがん罹患の原告のうち21名(22.3%)は、複数のがん発生をみた多重(重複)がん罹患者である。
以下に多重(重複)がんの内訳を示す。ただしこの内容は認定申請したがん以外に過去に罹患したがんも含まれている。
胃がん+食道がん+肺がん、乳がん+胃がん+卵巣がん+子宮がん、悪性リンパ腫+乳がん+卵巣がん、胃重複がん、胃がん+食道がん、胃がん+結腸がん、 胃がん+直腸がん(2)、胃がん+肺がん、肺がん+肝がん、肺がん+直腸がん、胃がん+膀胱がん、腎がん+膀胱がん(2)、胆管がん+膀胱がん、咽頭が ん+食道がん、肝がん+甲状腺がん、尿管がん+膀胱がん、甲状腺がん+直腸がん、尿管がん+前立腺がん、前立腺がん+皮膚がん。なおこの他に申請病名は甲 状腺機能低下症だが胃がん+乳がんの既往あるものが1名みられる。
被爆者の多重がんに関して、平成14年度の指定医療機関医師研究会で長崎大学原爆後障害医療研究施設の朝長万左男教授は、「最近、被爆者医療に携わって いる医師から、個々の被爆者が二つ以上の癌に罹患する傾向が指摘されるようになってきた…放射線の全身照射を受けた被爆者では、複数の臓器が被曝している ことが容易に想像される」(文献27)と強調され、今後の調査の必要性を指摘している。
被爆者に多重(重複)がんが多い事実については、これまでも臨床医や研究者のなかで注目され、多くの研究報告がなされてきたが、平成16年の原子爆弾後 障害研究会のシンポジウムで、長崎大学原爆後障害医療研究施設の関根らによって注目すべき報告が登場した(文献28)。
この関根報告は長崎県腫瘍登録に基づく生存者のがん罹患登録データを基にした大規模な研究であり、しかも病理標本の存在を前提とした精度の高い研究であ る。それによると1962年から1999年の37年間の被爆者腫瘍例約18,600件より663名の重複(多重)がんの症例を得て検討した結果、被爆距離 に反比例して重複がんの頻度が高い、すなわち線量との相関を初めて認めた報告である。さらに重要な事実は、その頻度の増加が1988年以降顕著となったこ と、若年被爆者に重複がんの頻度が高かったことであり、今後の多重がんの増加傾向をあらためて示唆するものとなっている。
このような被爆者における多重がんの増加は、個々のがんを区別して「原因確率」を問題にすることの非妥当性、その無意味さをあらためて証明している。被 爆者のがんは一つのがんが治ってもまた次のがんが発生してくる可能性を考えなければならず、その罹病の重大性からみて直ちに認定されるべきであると考え る。
(2)前立腺がんの発生率は被爆者に高い可能性がある
「放影研」のLSS報告では最新の第13報においても前立腺がん死亡率の有意な増加が認められていない。このためか認定審査では前立腺がんはすべて却下 されている。しかし第13報がまとめた1997年までに前立腺がんによる死亡率の増加がないことが、ただちに前立腺がんの放射線起因性を否定する理由には ならない。
その根拠は大きく三つあり、第一に前立腺がんの診断治療の進歩により死亡率が低くなっているため死亡年齢が延長している可能性があるということ、第二に 前立腺がんが高齢発生のがんであり、被爆後有意差が現れるまでに長い観察期間を要すること、第三に被爆者が前立腺がんの好発年齢に達する前に他の疾患で死 亡する率が無視できないこと、第四にLSSの死亡調査は死亡診断書の疾患名と腫瘍登録との照合で行われているが、前立腺がんの場合そのいずれにも現れな い、つまり診断書上の見落としや誤診という可能性が無視できない率で含まれていると予想されることである。
広島赤十字・原爆病院からの最近の報告によると、1988年4月から1997年1月までの、全年齢を対象にした病理組織症例のなかでの前立腺癌症例が占 める割合は、遠距離・入市被爆群に最も高く、近距離被爆群、非被爆群の順であった。遠距離・入市被爆群と非被爆群間では被爆群が2倍強の陽性率であり、被 爆群に前立腺癌が多い可能性があるとしている。70歳以上の高齢者に限定した検討でも同様の傾向が認められており、「臨床的に発見される進行した前立腺癌 はどの角度から見ても遠距離・入市被爆群に多く発生して」いるとしている(文献26)。これは死亡数に関する「放影研」報告だけで有意差なしとする「認定 審査会」の認定審査のあり方に大きな疑問をなげかけるものである。
さらに、この問題は、4-3-3において述べた「放影研」の疫学調査における対照群として選択された遠距離・入市被爆者からなる「ゼロ線量群」で前立腺 がんの発症率が高いことを示唆しており、前立腺がんに対する「放影研」の疫学調査は信頼性を失っていることを示している。
(3)がん以外の疾患での死亡と罹患率の最近の増加傾向について
非がん疾患に対する原爆放射線被曝の影響は、被爆後20年を経た60年代後半になってようやく有意な増加が報告されるようになってきた。
がん以外の疾患の死亡率の増加が最初に報告されたのは1991年に公表されたLSSの
第11報(1950年―85年)であった。ここでは被爆後20年を経た1965以降において被爆時年齢40歳未満の推定被曝線量2Gyを超える被爆者で、 循環器疾患(その中心は心疾患と脳卒中)と消化器疾患(その中心は肝硬変)の死亡率が有意に増加しているというものである(文献29)。
この傾向は1998年に公表されたLSS第12報(1950年―90年)でもさらに強化されて、1Sv当たり約10%の死亡リスクの増加が認められ、循 環器疾患、消化器疾患に続いて呼吸器疾患(その中心は非結核性の肺炎)でもこの増加が観察されている。しかも被爆時年齢による増加の差異が消失し、低線量 領域でも線量との関係が認められる傾向とされている。
最新のLSS第13報(1950年―97年)では、がん以外の疾患の死亡率が過去30年間の追跡期間中、1Sv当たり約14%の割合でリスクが増加して いることが明らかにされ、がん以外の疾患の過剰相対リスクの推定値ががんの場合と同程度になってきていることが明らかにされている。
さらにがん以外の疾患の発生率の有意な増加については、1992年に公表されたAHS第7報(1958年―86年)と、2003年に公表されたAHS第8報(1958年―98年)にみることができる(文献30、31)。
AHS第7報では子宮筋腫、慢性肝炎および肝硬変、良性甲状腺疾患に、有意な過剰相対リスクを認めている。このうち子宮筋腫や良性の甲状腺腫についての 有意な所見は、放射線被曝による良性腫瘍の発生の可能性を示唆する所見とも考えられるものであり、今後の推移が注目されるものである。また慢性肝炎や肝硬 変の発生率の増加は、いうまでもなく肝臓の放射線感受性をあらためて証明し、最近の肝硬変などでの死亡率の増加とも符合している。甲状腺疾患については、 とくに被爆時年齢20歳以下でのリスクが上昇しており、若年者の甲状腺の放射線感受性を明瞭に裏付ける内容となっている。しかもこのリスクは被爆後の追跡 期間中不変であったことも注目される。
続いて最新のLSS第13報では、前報に12年間の追跡期間を追加して解析されているが、新たに白内障と高血圧症、40歳未満で被曝した人の心筋梗塞、 男性の腎・尿管結石の3疾患の有意な増加が認められた。このうち白内障については、前報では有意差なしとされていたが、12年間の追跡によって有意な増加 が認められたものである。
原告被爆者146名のうち、52名ががん以外の疾患での認定を求める提訴となっているが、慢性肝炎・肝硬変、甲状腺疾患、白内障、心筋梗塞、脳血管障害 など、LSSやAHSの最近の報告で死亡や発生の増加が認められている疾患が多いことは偶然の一致とは思えない。また熱傷瘢痕やガラス片による機能障害も 被爆者を今なお苦しめている実態がわかる。こうしたがん以外の疾患にかかわる認定申請のほとんどが却下されているが、最近の報告でその増加が検証されてい る疾患にたいしても科学的根拠を示さず一律に却下しているとしか考えられない。
(4)良性甲状腺疾患の放射線起因性について
これまで甲状腺機能低下症の放射線起因性を強く示唆する医学的知見が数多くあり、甲状腺結節は線量反応関係がみられるが甲状腺機能低下症は50ラド (0.5Gy)以下の比較的低線量被曝群に有意に多いという長崎での調査結果もある(文献32)。このことは甲状腺機能低下症が誘導放射線や放射性降下物 などからの被曝を受けている入市被爆者に発生する可能性を強く示唆している。自己免疫性甲状腺機能低下症である慢性甲状腺炎については初期の調査では放射 線起因性がはっきりしなかったが、その後の調査では長崎の被爆者において発生の増加が認められている(文献33)。甲状腺結節や慢性甲状腺炎(橋本病)に 併発したと考えられる甲状腺内悪性リンパ腫術後の甲状腺機能低下症も、原疾患そのものに放射線起因性が否定できない以上認定されるべきである。AHS第7 報、第8報とも良性の甲状腺疾患の有意な増加を報告していることはすでに述べた。
(5)慢性肝炎および肝硬変の放射線起因性について
原爆被爆者に肝疾患が多くみられることは被爆後まもなくから医師の間では気がついていたことである。このことを裏付ける報告として、すでにLSS第11 報、AHS第7報以来、肝疾患の死亡および発生率の増加が一貫して報告されている。慢性C型肝炎での原爆症認定を求めた訴訟で、原告勝訴となった最近の東 京地裁の判決も記憶に新しい。
慢性肝炎や肝硬変の多くはC型肝炎ウィルス(HCV)の持続的感染が背景にあるが、これまでの「放影研」レポートでは被爆者のHCV抗体陽性率には有意 差がないとしても、放射線被曝とウイルスの持続感染が共同成因として肝炎の進行に関与した可能性が指摘されている。また20歳以下で被爆した1Gy以上の 被爆者にB型肝炎ウイルス抗原陽性率の上昇が認められているが、これは被爆者へのB型肝炎ウィルス感染が免疫系によるコントロールを十分受けていないこと を意味していると考えられ、B型肝硬変の放射線因果関係を示唆していると考える。肝障害と放射線起因性の問題では東京地裁の東原爆訴訟で原告側書証として 提出された福島生協病院・齋藤紀医師の意見書(一)(文献34)に詳述されているところである。
(6)被爆者にみられる白内障の放射線起因性について
従来、放射線起因性が疑われる白内障については、被爆後数ヶ月で生じたか、または若年被爆者に遅発性に生じてきた水晶体後極部の後嚢下混濁による放射線 白内障、または早発性の皮質混濁による老人性白内障が特徴とされてきたが、原告の認定申請書の眼科的所見でもこのような所見の記載がみられる。
最新のAHS第8報ではあらためて白内障に有意な線量反応関係が認められている。また平成15年(2003年)の第44回原子爆弾後障害研究会で、「原 爆被爆者の放射線被ばくと水晶体所見の関係において遅発性の放射線白内障および早発性の老人性白内障に有意な相関が認められた」と報告されている(文献 35)。これは従来、確定的影響とされてきた遅発性の放射線白内障の発生が、確率的影響の下にあるかもしれないことを示唆する重要な知見であり、原告に関 わる白内障についても放射線起因性が十分に疑えるものである。
(7)熱傷・外傷後障害について
原爆の熱線による一次火傷はケロイドを形成し、後年それによる関節拘縮、皮膚障害を残した。この一次火傷によるケロイド形成は、病理学的にも特徴的な所 見を有し、放射線の影響、起因性は確定している。
変形性関節症や骨折後障害などで提訴した原告の障害については、それ自体が放射線に直接起因しているとはいえないとしても、放射線被曝を含む原爆災害そ のものによる傷害の結果であることが明らかである。放射線による免疫異常などにより外傷等の病理学的な治癒機転の遅延が生じていた可能性も考慮されるべき であると同時に、被爆直後の混乱のなかで治癒を妨げる様々な悪条件が重なり、結果として肩関節や下肢等の変形などの機能障害を導いたものと考えなければな らない。
(8)原告の疾患にかかわる要医療性の判断について
原告の傷病の要医療性については、主治医の意見書が十分に尊重されなければならないと考える。とくにがんなどの悪性の疾患においては、被爆者が手術後で あっても継続的な療養指導や再発・再燃チェックを強く希望しており、医師としてもその医学的必要性を認めている。旧基準以来現在でも準拠されているがん再 発管理のための経過観察期間とされている術後5年間は、被爆者の不安を払拭する期間とはいえず、被爆者に比較的多くの異時多重がんがみられることからも、 十分な追跡期間が必要と考える。
5.被爆者の認定疾病の病像についての私たちの見解
5-1 被爆者の立場に立った認定行政への転換を求める
被爆59年を経た今日でも、放射線被爆による健康障害には未解明な問題が多く残されており、21世紀まで生き残ってきた原爆被爆者の身体的、精神的健康を保障する手厚い医療の必要性はいささかも変わっていない。
高齢期を迎えている原爆被爆者にとっては、晩発性の健康障害であるがん・悪性腫瘍の発生への不安はなお大きいものがあり、被爆者の医療と生活を支えている「援護に関する法律」に基づく施策への期待も大きい。
また核大国による戦火も絶えることなく、いつまでたっても廃棄される気配のない核兵器の存在が多くの被爆者を不安と恐怖の中に引き戻している。
こうした状況の中で、原爆症の認定を求める被爆者の願いは被爆者が生きている限り消えることはないと考える。
私たちは被爆者の診療、健康管理に携わってきた医師として、現段階の認定行政の矛盾、とくに「原因確率」に基づく認定の却下を正当化している人為的障壁 から目をそらすことはできないと感じている。以下に原爆症認定行政に関する私たちの見解を述べる。
5-2 固形がん、悪性腫瘍に関しては他に明確な原因がない限り認定を求める
被曝線量と人体細胞への分子遺伝学的影響の関係についての科学上の知見はまだ不完全である。しかしそのなかでも発がんに関わる確率的影響については、 4-1項でも触れておいたが、低線量領域においても適用されるという認識は、LSSのデータを解析している「放影研」の研究者を含めて確立した知見であ り、低線量被曝が人間の将来にわたって十分に安全であるという根拠はまだない。
したがって、被爆者が低線量被曝であっても自身のがん罹患の原因を被爆に求めることはそれなりの妥当性があると考えなければならない。
DS86による初期放射線量だけを評価した「原因確率」10%(例えば胃がん男性12歳時被爆の場合で1500mSv)以下は因果関係なしと一方的に判 断することは、現行の「電離放射線障害防止規則」に関する基準局長通達(基発第810号)(文献36)で示されている年間平均5mSv以上の被曝を認定の 基準とする労災行政とも桁違いに矛盾している。
5-3 原爆症認定疾病の範囲についてその拡大を求める
原爆炸裂時の初期放射線や放射性生成物による外部被曝、あるいは残留放射線による内部被曝(放射性降下物の体内への吸引や吸収)を受けた状況があり、そ の後の発熱や下痢、歯肉出血や口内疾患、歯が抜ける、脱毛、皮下出血などのしきい値のある確定的影響とみなされている急性症状が認められる場合は、遠距離 であれ入市であれ、相当線量の被曝があったものと当然考えられる。
またこうした急性症状の記憶がなかったり、若年であったために記憶がない場合であっても、被爆地点、被爆後の行動、入市状況などから被曝している可能性 が十分考えられる場合も多く、急性症状の記憶のないことを理由に認定申請を却下してはならないのはいうまでもない。
今日の個別の被爆者にみられる晩発性健康障害の病像は、固形がんを含め一般的疾病となんら変わるところはなく、被爆による影響かどうかを医学的に確定す る手段はない。したがって他に疾患の発生に関する合理的な説明がつかない限り、原爆被爆者の疾病発生と放射線との因果関係については「治療指針」が示して いる見地に立って肯定的に扱われるべきである。
以上の前提に立って、最近までにLSSやAHSで被曝の影響が示唆される有意な増加がみられている疾患についてはもちろん、未だ増加がみられていない疾患に関しても他に有力な原因が認められない限り、認定されて然るべきと考える。
5-4 私たちが考えるあるべき認定の条件
私たちはこれまで述べてきたように、「原因確率」に基づく認定の在り方に批判的な見解を表明してきた。それでは、これまでの被爆者に関する医学的知見を ふまえた認定疾病の条件はどのようなものであるべきかを以下のように整理しておきたい。
1.原爆放射線による被曝、またはその身体への影響が推定できること
(1)原子爆弾の核反応による初期放射線(ガンマ線、中性子線)に被曝していると推定されること(DS86で認められるような近距離被曝の事実)
(2)放射性生成物や降下物によるガンマ線やベータ線、アルファ線に被曝していると推定されること(黒い雨、火災煙、死体や瓦礫処理時の放射性微粒子、汚染された食物や水などによる体外、体内被曝の事実)
(3)誘導放射線(土壌やコンクリート、鉄骨などからの放射線)に被曝していると推定されること
(4)被爆後、およそ2ヶ月以内に発症した身体症状(発熱、下痢、血便や歯齦出血のような出血傾向、治りにくい歯肉口内炎、脱毛、紫班、長引く倦怠感など)があったこと
(5)熱傷、外傷瘢痕のケロイド形成
(6)被爆後数年以内に発見された白血球減少症、肝機能障害(B型肝炎やC型肝炎検査陽性者を含む)
(7)被爆後長く続いた原因不明の全身性疲労、体調不良状態、健忘症、労働持続困難などのいわゆる「ぶらぶら病」状態―内部被曝との関連が疑われるも十分な解明がされていない被爆者特有の易疲労症候群(文献37)
2.原爆被爆後に生じた白血病などの造血器腫瘍、多発性骨髄腫、骨髄異形成症候群、固形がんなどの悪性腫瘍、中枢神経腫瘍のいずれかに罹患していること
3. 原爆放射線の後影響が否定できず、治療を要する健康障害が認められること
(1)後嚢下混濁や皮質混濁が認められた白内障
(2)心筋梗塞症をはじめとする心疾患、脳卒中、肺疾患、肝機能障害、消化器疾患、晩発性の白血球減少症や重症貧血などの造血機能障害など、病歴上他に有力な原因がなく、放射線被曝との因果関係を否定できない場合
(3)甲状腺機能低下症や慢性甲状腺炎で治療を要する場合
(4)被爆当日に生じた外傷の治癒が遅れたことによる運動器障害、またはガラス片や異物の残存による障害を残している場合
上記1項のいずれかによる被曝やその健康影響の事実が推定され、2項、3項に掲げる健康障害が一つでも認められ、現に治療を要する状態にある場合には原 爆症と認定されるべきと考える。今日までにLSSやAHSでの有意な増加がみられていない疾患に関しても、鑑別診断上他に有力な原因が認められない限り認 定されるべきであろう。
なお急性症状がない場合であっても、近距離被爆による急性症状の発現率が100%ではない個体の感受性の差異に留意し、また原爆投下時の衝撃で記憶が失 なわれたり、10歳以下で被曝した若年被爆者では記憶も困難であることを考慮することが必要である。
6.おわりに
これまで「原因確率」に基づく認定申請却下の非妥当性、DS86による線量評価の限界、入市被爆者・遠距離被爆者の相当線量被曝の事実など、原爆症認定申請却下の取り消しを求めて提訴している被爆者の訴えに、科学的合理性、根拠があることを明らかにしてきた。
さらに被爆による健康障害の病像の特徴を述べ、医師として納得のできる認定の在り方とその条件について提示してみたものである。
本来、「援護に関する法律」は、放射線障害に健康を蝕まれ、長い間放置され、社会的差別を受けて生き抜いてきた被爆者を支える国家補償的なものでなくて はならないはずである。しかし被爆者が最後の拠り所としている原爆症認定制度の現状は、被爆者の願いから大きくかけ離れてきている。
被爆国日本が、核兵器の廃絶を約束する国際的な条約締結を世界に訴えるうえでも、被爆59年経ってなお放射線被害に苦しむ被爆者への手厚い救済を欠かすことはできないと考えるものである。
今回の原爆症認定訴訟において、私たちは原告の願いが法廷に届き、その判決が厚生労働省の認定行政への心ある勧告となることを期待するものである。
《引用文献・参照文献一覧》
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文献2 | 「原爆症認定に関する審査の方針」 2001年5月 |
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