民医連新聞

2013年11月4日

被災地発 “最後の避難所”で双葉町民を支援 医療生協さいたま

 東日本大震災の今を伝えるシリーズ「被災地発」。今回は全国最後の避難所が残る埼玉県加須市から。同市の旧騎西高校では、福島第 一原発五、六号機がある双葉町の被災者が、いまだに不自由な避難所生活を送ります。同校にあった町の支所は一〇月に加須市騎西総合支所に移転、避難所は間 もなく閉鎖される予定です。医療生協さいたまは、事故直後から支援活動を通じて被災者を見守ってきました。(新井健治記者)

 一〇月一七日、旧騎西高校生徒ホールで最後の「おしゃべりサロン」が行われました。被災者 たちは医療生協さいたまの組合員が披露した腹話術を楽しみ、体操や合唱後に豚汁を食べながら談笑。「津波で首まで水につかってね。三月一一日の夜は雪が 舞っていたけれど、ずぶ濡れのまま耐えたのよ」と七九歳の女性。今では当時のことも話せます。
 サロンはコープみらいが呼びかけ、医療生協さいたま、加須市社会福祉協議会、JAさいたまなどが協力、毎週木曜日の午後に開いてきました。組合員、職員 による健康チェック、健康体操、季節ごとの体調管理など医療生協らしいとりくみを行いました。
 組合員の林政美さんは「双葉町には原発があり、被災者は戻りたくても戻れないという複雑な気持ちを抱えています。サロンの間は楽しんでもらえる工夫をしてきました」と言います。

行き場のない人も

 双葉町は事故後、町ごと埼玉県に避難。三月一九日にさいたまスーパーアリーナへ、三月末には廃校で空いていた県立騎西高校に一四二三人がやって来ました。教室に畳を敷き四~六世帯がざこ寝、プライバシーのない環境でした。
 特に問題になったのは食事です。三食とも弁当で栄養が偏り、健康悪化の原因に。二〇一一年九月から、医療生協さいたまの管理栄養士が糖尿病患者ら被災者 向けのメニューを考案する献立支援に乗り出し、HbA1cの数値が改善するなど効果がありました。
 被災者の多くは加須市内の借り上げ住宅に移って行きました。当初の一四二三人が震災一年後に三四五人、二年後に一二七人、一〇月二三日時点で四五人まで 減りました。残ったのは高齢者で、身寄りがない、身体が不自由など弱い立場の人ばかり。町は早期に避難所を閉鎖する意向ですが、介護施設に空きがなく行き 先が決まらない人もいます。
 今年七月時点で一四人が介護認定を受け、うち一人は寝たきり。避難所には町の社会福祉協議会があり、入浴サービスや訪問看護を受ける人も。全員の行き先 が決まるまで避難所は存続しますが、生徒ホールは一〇月末で閉鎖、サロンもできなくなりました。
 一一月で九〇歳になった女性は市内に中古住宅を購入、既に避難所は出たものの、サロンには通っていました。「一人だと寂しいので、毎回、心待ちにしてい た。なくなってしまうのは残念」と言います。「原発から汚染水漏れが続き、故郷に帰るのはあきらめました。避難所生活は大変だったけれど、新しい絆もでき た。今後もみんなで集まれる場があれば」。
 借り上げ住宅や仮設住宅で懸念されるのは高齢者の孤独死です。医療生協さいたま本部まちづくり推進室の川嶋芳男さんは「二年半の共同生活で被災者同士の 結束が強まり、生きるよりどころになっています。身近な居場所を作り、孤立を防ぐことが大切」と指摘。町は社会福祉協議会を中心に、市内でサロンを継続す ることを検討中で、法人も協力する予定です。
 医療生協さいたまは、さいたまスーパーアリーナでの医療支援に始まり、子どもの遊び広場、炊き出し、四〇歳以下の町民の甲状腺エコー検査など被災者の状 況に応じて支援してきました。川嶋さんは「今後も被災者に寄り添って、活動を続けたい」と話します。

(民医連新聞 第1559号 2013年11月4日)

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