民医連新聞

2013年9月16日

“命の守り手”ここから始まった 無産者診療所跡地を巡る

 創立六〇周年を迎えた全日本民医連のルーツは、戦前にさかのぼります。日本が戦争に突き進み、国民は貧困にあえぎ、保険制度は十 分でなく、病院になどかかれなかった時代。「労働者農民の病気を労働者農民の病院で治せ!」との呼びかけで一九三〇年、東京・大崎(現・品川区)で無産者 診療所が産声を挙げました。初代所長だった故・大栗清実医師の長男・大栗丸人(まると)さんらとともに、その足跡を訪ねました。(丸山聡子記者)

 「“感慨深い”の一言ですね。その思いで胸がいっぱいです」。丸人さんは、大崎無産者診療所の跡地に立ち、ゆっくりと口を開きました。三歳でこの地を離れてから、訪れるのは初めてです。
 民医連の事業所などで放射線技師として働いた丸人さんは現在、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟徳島県本部の会長を務めています。治安維持法とは戦前、 侵略戦争反対や国家に異を唱えた人たちを取り締まった法律(最高刑は死刑)で、同組織は同法で犠牲になった人々への賠償を国家に求め、「二度と戦争と暗黒 政治を繰り返さない」ことをめざしています。
 徳島県本部は、国防軍創設や九条改憲をめざす安倍政権に危機感を覚え、「再び暗黒政治を繰り返さない」との思いから、徳島県出身の大栗清実医師を顕彰す る「生命を守る碑」建設にとりくんでいます。この日は、全日本民医連の長瀬文雄事務局長、谷口路代事務局次長らも同行しました。

労働者の街で生まれた

 JR五反田駅から歩いて五分ほど。商業ビルが建ち並ぶ大通りから路地に入り、マンションが建つあたりが、大崎無産者診療所の跡地です。その向かいには、診療所の雑用から警察対応までこなし、最後までささえ続けた住民が住んでいたと言います。
 診療所開所は一九三〇年一月。中小の工場がひしめく労働者の街でした。大栗医師と妻・敏子さん(看護婦)夫妻は診療所の二階に居住。開所から二カ月後の三月、丸人さんが誕生しました。
 初診料は無料、内服薬は一日一剤一〇銭、皮下注射五〇銭。三畳の待合室は住民や労働者でいつも満員。一日一〇〇人を診察し、往診も行っていました。治療 費が払えない患者も多く、未収金に圧迫された経営は厳しく、日赤や慈恵医大などの医師が無報酬で応援に駆けつけたと言います。

「命の平等」を引き継ぎ

 開設当初から健康友の会があり、患者・地域住民にささえられ、必要とされた診療所。国民を総動員して戦争に突きすすむ国家権力にとっては「目の敵」でした。
 一九三三年三月の三陸地震・大津波で救援活動をしていた医師と看護婦が特高警察に検挙されました。診療所の職員が次々と検挙され、八月に大栗医師も検 挙、一〇月には診療所は閉鎖に追い込まれました。丸人さんは三歳でした。
 無産者医療運動は、当時の国会でただ一人、治安維持法改悪に反対した山本宣治代議士の暗殺が大きな契機でした。大栗医師は、「労働者農民の病院を作 れ!」とのアピールを起草。アピールは、労働者農民が失業と貧困、無知のどん底にあり、医療から閉め出されていると指摘。労働者農民自身の医療機関が必要 だと訴えました。この運動は全国に広がり、一病院、二三診療所が誕生。しかし一九四一年までに特高警察の弾圧ですべてが閉鎖。この年、日本は太平洋戦争に 突入しました。
 大栗医師はその後、故郷の徳島に戻り、戦後は地域の民主運動の発展に奔走。徳島民医連には、大栗医師から社会科学を学んだという職員もいます。跡地を 辿った広永清子さん(徳島健生病院・看護師)は、「“命の守り手”としての私たちの活動は、ここから始まったんですね。弾圧や拷問を乗り越えて、その精神 は今の民医連に引き継がれている。命が軽んじられる今、ますますその役割は重要だと感じます」と語ります。
 一行は、大崎警察署跡や荏原無産者託児所跡、農村の無産者診療所だった青砥無産者診療所跡(葛飾区)、その初代所長・中嶋辰猪医師の墓所などを巡りました。

私たちのルーツ “民医連遺跡”募集しています

 全日本民医連は、創立六〇周年記念事業の一環として、「民医連遺産」を募集しています。すでに戦前の無産者診療所開設ポスターなどがエントリー。
 長瀬事務局長は、「無産者診療所の足跡を訪ね、戦争はすべての人権抑圧であること、“命の平等”は私たちの課題であると感じた。各地にそれぞれの民医連 のルーツがある。それを訪ね、住民の要求と運動で生まれた民医連の歴史を学んでほしい」と話しています。
■応募&問い合わせは全日本民医連事務局・箱木まで

(民医連新聞 第1556号 2013年9月16日)

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