民医連新聞

2013年1月7日

創刊50年記念 民医連を伝えて半世紀

 民医連新聞は今号で創刊五〇年。全日本民医連設立から一〇年後の一九六三年新年号が第一号でした。当時の全日本民医連会長・須田 朱八郎医師は、発行の目的を、「大きくなった組織のすみずみまで血を通わせ、神経を通じさせるために」とし「民医連新聞を健康と医療を守るたたかいの武器 に」と呼びかけました。
 それから半世紀、現在の読者は約七万人。職員自身の寄稿や情報をふんだんに盛り込んで、民医連職員の姿を伝える唯一の新聞として、これからも発行を続けます。

黒松内×奄美

「へき地にはたらく」

創刊号で登場した事業所を追う―

 創刊号では、北と南、へき地の診療所で働く民医連ナースたちが登場し、紙上対談を行っています。北の寒村・黒松内と、南の離島・奄美大島。病に苦しむ貧しい住民たちの元に苦労もいとわず駆けつける日々が語られました。
 五〇年を経て、この二つの事業所はいま―。記者がとびました。

無医村にできた診療所は高齢化の町ささえる要

―北海道・黒松内診療所

 函館から特急と鈍行列車を乗り継ぎ約二時間。一面の雪の中に黒松内診療 所はありました。診療所を開設して六二年。今は高齢者優良賃貸住宅を含む在宅総合センター(訪問看護やデイサービスなどが併設)も仲間入り。札幌と函館の 中間に位置する地域で、「東は太平洋から西は日本海まで」を走りまわる民医連唯一の事業所です。

安心して住める地域に 

 もともと黒松内診療所は有床診療所でした。しかし、政府の医療費削減政策などの影響を受 け、入院ベッドの維持が経営的に困難になりました。二〇〇七年に病床を廃止し、在宅医療に活動をシフトすることに。同年、訪問看護ステーションや居宅介護 支援事業所を開設。また、病床があった診療所の二階に高齢者向けの共同住宅を作り、見守りが必要な人たちの受け皿も確保。この時、有床診療所時代に調理員 として働いた職員の多くがヘルパーに職種転換するなど、継続してこの地域で働いています。
 町の高齢化を反映して、安心して暮らせる住まいを求める高齢者は多く、昨年一〇月、在宅総合センターに高齢者優良賃貸住宅「ふきのとう」(二六世帯)を 新設しました。黒松内町の人口は三一八六人(一五九四世帯)。高齢化率も三〇%を超え、独居も一〇〇世帯にのぼる過疎の町です。
 「スタッフはみんな優しい。安心して暮らせるし不自由はない」。入居者は生き生きと話します。
 お風呂とトイレ付き、二四時間緊急時対応のできるこの住宅は、開設から一カ月経たないうちにほぼ満室になりました。
 「入居者さんから頼ってもらった時は嬉しい」と目を輝かせる事務の更科大輔さん(25)は、黒松内に配属されて三年目。「地域には貧しい人も多い。そん な中で高齢者の暮らしを支援できる民医連の役割を実感しています」。

無医村にできた診療所

 「この地域は診療所ができるまで無医村だったんだ。しかも先生たちはお金がない人でも診てくれた。豪雪の中、スキーや馬そりで往診した」。デイサービスに来ていた創立からの勤医協社員(出資者)、佐藤昭平さんが黒松内診療所の歴史を語ってくれました。
 「無産者診療所だったから大変な弾圧もあった。不正請求の疑いを口実に医師や事務職が捕まって、カルテを大量に持ち去られたり…。住民がみんなで診療所を守ったんだよ」。
 医療圏は半径約二〇キロです。「峠を越え、往復一時間かかるような所にも訪問しています」と話すのは在宅センター長の三本木美智恵さん。長距離の訪問は昔も今も変わりません。
 三本木さんは看護学校を卒業してから二四年間、黒松内で働いています。地域からの信頼も厚い人で、この日も体調が悪くなった入居者の診療につきそいました。

“酪農の町”はいま

 黒松内町では町独自の福祉サービスに力を入れています。中学生までは医科・歯科とも医療費無料、七五歳以上のお宅には軒先三〇メートルまで福祉除雪があります。
 しかし町の先行きは楽観視できるものではありません。かつては「人口よりも牛の方が多い」と言われるほど酪農が盛んでしたが、一九九一年に牛肉の輸入が 自由化され、二〇〇軒あった酪農家もわずか二〇軒ほどに減ってしまいました。
 その上、日本政府がTPP交渉に参加すれば、特産のジャガイモも酪農も壊滅状態におちいり、町の収益の三分の一が減るという試算も出ています。
 また、医師不足問題も深刻です。これまで黒松内診療所は在宅をささえ、黒松内町立国民健康保険病院は救急医療を受け持って、町内で二つしかない医科事業 所としてお互いの役割を大事にして連携してきました。しかし診療所は長期間の所長配置が難しく、昨年七月から北海道勤医協内で一カ月交代の医師配置をしな がら医療をつないでいる状態。同じく町立病院も最近まで医師体制が不安定で、医療供給態勢の厳しさが町全体の問題になっています。
 町では、住民と医師不足の問題について共有するフォーラムなども、この間とりくまれてきました。

地域でささえ合う仕組みを

 「いい医療をすれば赤字になるという構造に歯止めを掛けたい。町ぐるみで医療をささえる仕 組みを作りたいと考えています。北海道民医連の診療所も過疎地にある所が多いですから、モデルになるような」と、二二年間にわたり黒松内診療所の事務長と 町議会議員(日本共産党)を兼務する岩沢史朗事務長。
 「大変なこともありますが楽しい。苦労と思えばやっていけません。民医連の仲間もいるし、何より、私たちは地域に必要とされているんですから」。
(矢作史考記者)

いのちに離島があってはならない島民ささえる「わきゃ病院」

―鹿児島・奄美中央病院

 「先生のおかげで、見違えるように元気になりました」―。九四歳の山下澄さんが、趣味のハーモニカで童謡を奏でます。傍らで聞き入る奄美中央病院の友野範雄医師。同院は週に四回の訪問診療を行い、奄美群島では最も多い一四〇人の在宅患者を診ています。
 山下さんは当初、立ち上がるのもやっとの状態でした。訪問看護と訪問リハビリテーションも導入し、今では杖なしで歩けるようになりました。患者の手を握 りながら、「また、来週来るからね」と優しく語りかける友野医師。奄美群島のひとつ、徳之島の出身です。
 奄美群島は終戦後、沖縄県とともに米軍占領下に置かれ、一九五三年に日本に復帰しました。奄美大島に民医連の拠点ができたのは翌五四年。奄美中央病院前 身の奄美診療所が、名瀬市(現・奄美市)の紬(つむぎ)工場の一角を間借りて開設しました。創刊号の紙上対談に登場した看護師の定(さだめ)克美さん (75)は、開設翌年に入職。「島の生活は貧しかった。生活保護を知らない島民も多く、病気になっても医者にかかることが困難でした」と振り返ります。
 離島のため医師は少なく、設備も鹿児島県本土と大きな格差が。島民の栄養状態や衛生環境は劣悪で、神経痛や結核、寄生虫フィラリアの蔓延に悩まされまし た。「誰でも安心してかかれる医療機関がほしい」との切実な要求が、鹿児島初の民医連事業所につながったのです。

地域に出た看護師

 奄美診療所の医師と看護師は積極的に地域に出ました。交通が不便な無医村や離島があり、自力では診療所まで来ることができない患者が多かったからです。また、無保険で受診そのものをあきらめている患者もいました。
 定さんはX線の撮影機材を持ち歩き結核患者の胸部を撮影したり、地場産業として盛んだった大島紬の工場で、神経痛や視力低下に悩む女性労働者を健診しま した。生活と健康を守る会と協力して生活保護の申請にも同行しました。
 一九七七年に奄美中央病院へ発展すると、定さんは初代看護部長を務めます。九〇年に奄美医療生協が誕生し、現在は同院(一一〇床)のほか、南大島診療所 (八床)、徳之島診療所(一九床)、老人保健施設、訪問看護ステーションなど計一三事業所を展開、奄美群島全域の医療、介護をカバーしています。
 二〇一一年に奄美中央病院が新築移転する際、同医療生協は「でぃつくろう!島に根ざした わきゃ(わたしたちの)病院」をキャッチフレーズに増資運動を行い、島民から二億円が集まりました。
 病院玄関前には新築記念の石碑が建っています。「地理的な離島はあっても、人の生命に離島があってはならない」―。石碑の文字は、開設当初から変わらない理念です。

患者に寄り添う看護

 病院玄関を入ると、混雑する受付に「総合案内」の腕章をつけた益田祐子さんの姿が(写真)。「お困りのことはありませんか」と次々に高齢者に声をかけます。同院の看護・介護部長です。「自分が傍らに立った瞬間、患者が、ほっとできる空間を作りたい」と話します。
 益田さんは無医村だった喜界島で無料健診をしたり、ターミナル患者の娘さんの結婚式を院内で開くなど、患者に寄り添う医療を実践してきました。「私たち が人生を選べるのも先輩のおかげ。高齢者を全身全霊で尊敬しています。何より大切にしたい」。

リハビリで在宅支援

 奄美大島には現在、九病院があり、かつての“離島の僻地医療”との印象は薄れました。た だ、人工心肺を使う手術は島内ではできないため、ヘリコプターで鹿児島県本土や沖縄へ搬送します。ここ数年は豪雨災害が多く、土砂で道路が遮断され孤立し た集落に船で薬を運ぶこともあります。
 最近は島民の高齢化が深刻な問題です。大島南部には平均年齢六七歳で、五〇歳の郵便局員が最も若い“限界集落”もあるほど。経済格差はいまだ大きく、生 活保護率は県本土の一・九%を大きく上回る五%。奄美中央病院は無料低額診療事業を実施し、必要な患者さんが生活保護を受給できるよう、援助もすすめてき ました。
 同院が今、特に力を入れているのが、リハビリを中心にした在宅療養の支援です。黒葛原(つづらはら)真一院長は「独居や老老など介護力が弱い世帯が多い ため、機能が高い状態で在宅に返すことが必要」と指摘します。リハビリ職員は一九人に増え、島内では真っ先に訪問リハにもとりくみました。
 ただ、島内に大学はなく、看護学校が一校あるだけ。いったん島を出て資格を取得すると、そのまま本土で就職する若者も多く、医師をはじめ各職種で人手不足に悩まされています。
黒葛原院長は「『この病院をささえよう』という、熱意あふれた幹部を育成することが一番の課題です。奨学基金の統一など、島ぐるみで医師育成の必要性を感じています」と話します。(新井健治記者)

(民医連新聞 第1539号 2013年1月7日)

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